悟る前に鬱、悟った後も鬱

「悟る前に鬱、悟った後も鬱」(by アントニー・デ・メロ

この言葉は、悟りへの幻想を打ち壊すためにしばしば引用される言葉です。悟れば、愛と平和しか感じのだろう、だから、苦しみや嫌な気持ち、まして鬱なんてまったく感じないはずだ・・・。

この話を悟りのセミナーでしたときに参加者から、

“自己の本質は愛や平和なのだから、その人は悟っていないということではないですか?”

という質問をもらいました。

実を言うと私もそんな勘違いをずいぶん長く抱いていました。

でも、愛や平和とは、ネガティブな感情や状態がないという意味ではないんです。

愛は、鬱があることを受け入れ、鬱のままでいることを許しているんです。

そして、鬱をなくそうと戦わないからそこに平和があるんです。愛は、鬱と永遠の平和協定を結んでいるんです。

苦しみは、鬱を排除しようと抵抗したとき、なくそうと戦ってしまったときに生まれるんですね。鬱=苦しみではないのです。

鬱と戦わずに受け入れて100%向き合い、寄り添ってみたときに、はじめて「鬱」というレッテルを貼られ、今まで気づいてもらえなかった様々な思いや感情との「(平和的)対話」が始められます。

そして、対話のすべては真のあなたによって理解され、受け入れられていることを実感できれば、そこに無条件の愛を見つけるでしょう。

なので、

“自己の本質は愛や平和である”

は、その通りなのですが、本当に無条件の愛と出会うために、これを頭の理解や悟りの知識にして欲しくないなと思うのです。なぜなら、自我は必ず自分なりの「愛」や「平和」のイメージを抱き、そのイメージに合っているか、合っていないかと判断し始めるからです。

ということで、すべての知識を横に置いて、“私とは何か?”を見つめてみたらどうでしょうか?

私だと思っているもの、体や思いや感情、これらは何?変化し続けるこれらに本当に実体はあるの?

私が経験していると思っているもの、考えること、見ること、聞くこと、感じること・・・・、これらの経験は何でできているの?経験のすべてを取り去ったら、何か残るの?

経験の主体はどこにあるの?本当にあるの?

経験を直に深く見つめてみませんか? (←ダイレクトパス)

皆様の今年一年が恩寵にあふれたものでありますように!

 

悟る前に鬱、悟った後も鬱」への5件のフィードバック

  1. エンジェル・ダスト

    僕は過去の不快な思いが頭にとりついた時
    その不快な思いの原因は他者が言ったことだと過去の記憶が浮かぶと
    精神を安定した状態にするために 
    頭の中のチェスや将棋の盤の上の駒のルールに基づいた置き換え操作のように 
    思考の言葉を論理的思考のルールによる精神操作して解決しようと思考を開始するのですが
    それは実体のない心の中の想像上の他者と言葉で戦うようなもので
    論戦すればこう論破して勝てると思ってるうちは戦いは終わらないんですよね
    僕はパチンコや競馬とかは勝てると思わないので一切しませんが
    パチンコする人は勝てると思ってるからやるんでしょうが
    僕は論戦で勝てると思ってるから 言い負かすだとか浮かぶんだと思います
    口喧嘩に勝つことに意味はないと気付かないといけないのかなと思いました
    この非二元のブログが新しく始まったのは良いきっかけだと思うので
    毎日このブログをチェックしようと思います

    ルパート・スパイラさんの『プレゼンス』を8周目を読み終わった感想です
    http://blog.livedoor.jp/diamondwave1/archives/65803261.html

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  2. あきちゃん

    新しいブログ待ってました!
    私は一昨年あたりから、悟りやいまここ、禅や瞑想などに触れるようになりました。
    最近特に、夜ひとりでいるときに、自分、この人間そのものに、『これは何?』と感じるようになります。生きているこの存在、これはなんなんだ?と。
    それを感じている間は、すごく不思議な感覚になります。

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  3. ひとみ

    あぁ・・・素晴らしい!

    なんと美しく素晴らしいのだろう・・・と

    感動、感銘しながら頂きました。

    あゆかさん いつも、ありがとうございます。

    今、母が、今日か明日かという状態にあります。

    長女の私としては、しなければいけないことなど山ほどあり、
    また父の介護もあり、親戚関係もあり、妹とのこともあり・・・
    この世的には 本当に山ほどのことがあります。笑。

    でも 気づきの意識に在るとき 平安のみがいつもここに在ります。

    なんともなんとも有難すぎです。

    個人意識の私は、何とも何ともイジケたチンケな私で
    いちいち気にし いちいち反応し いちいち腹を立て いちいち傷つき いちいち泣きたくなります。

    こんなイジケたチンケな個人意識の私を、愛は丸ごと受け入れ
    このままあることを許してくれている

    そうか そうなんだ・・・

    有難すぎです。

    一見 大変そうなこんなときにも
    ただただ在るに在る時
    このイジケたチンケな私は 真から癒され安堵し愛に融け入り融合し消えていきます。

    そこには愛のみが在るだけです。

    ありがとうございます。あゆかさん。

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  4. ピンバック: 悟りと鬱とポリヴェーガル理論 | Kazue Sasaki Official Blog

    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは♪

      誤解を生む言い方をしてしまっておりますが、一つは多くの人が悟りをセラピーのように考えている?、悟ったらすべてちゃらになるようにイメージしているかなぁと思い、悟っても治療していない虫歯はそのままであるように、悟ってもトラウマが原因の欝であれば、そのまま欝状態は残りますよ~という意味でした。

      もし、欝の原因が極度の不安、自己否定であった場合、真実を知ることでそこが和らぐということはもちろんあるでしょう。ですが、多くの場合、真実を知っても自我が生み出す幻想にワークをし続けるもので、それを悟後の修行とも言われています。

      ただ、大きく違うことは、欝が自分のものであったことから、それが自分のものではなく、欝が起きているという認識に変わり、苦しみとの同化はだいぶはずれます。つまり、自分と欝との関係が変わるので、苦しいままということはなくなりますね。

      とりあえず、もし欝そのものを改善したい場合は、セラピーのほうがダイレクトで早いかなぁと思います。

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