ご質問を頂きました♪

今回はご質問にお返事させてください。コメントをありがとうございます♪

「私」がいなくて、経験は誰のものでもないのなら、なぜ私の経験は他人に分からず、他人の経験も私には分からないのですか?覚醒しても、また気づきに境はない、全てにあるといっても、その人の経験しか経験出来ないのですよね。覚醒後もひとつの意識が分離したものしか経験しないのでしょうか。

“「私」がいなくて、経験は誰のものでもないのなら”という表現から、確信のない頭レベルの理解をもとにさらに考えてしまっているかもしれませんね。

聞いた話、読んだ話、知った話をつなげて理解しようとしているというか。間違っていたらごめんなさい。でも、これをしている人がほんと~~に、ほんと~~に多いのです。(2回言ってしまった)

大切なことは、「私がいない」「経験は誰のものでもない」ということをまず、それらが真実なのかどうか、自分の直接体験を通して見抜いていくことかなと思います。

また、誰かのものなら区切りがあって、誰のものでもないなら区切りがない・・・という思考、そして誰かが何かを経験するという二元的な考え(なぜ私=主体は、他の人の考え=客体が分からないのでしょう?)がベースになっているのかもしれませんね。

でもポイントは、そういうことではないんです。

誰のものというような所有的な発想をまず横において、ポイントは、「経験している主体はいない」、そして、「経験者と経験は二つではない」ということなんです。

通常、私たちはたとえば、「私が痛みを感じている」というように捉えていますよね。でも、これが錯覚ですよ~というのがポイントなんです。

体験を直によ~く見つめていくと、私という主体はどこを探しても見つからず、そこにあるのは、痛み、経験(この場合、感じる経験)のみです。そしてそれをよく見ていくと、痛みと経験は、二つではないのです。

そして、私は痛みでもあり、経験そのものでもあり、そしてそのどれでもないんです。

ちなみに「私が痛みを感じている」という文章から、主体(主語ではなく)を取ってしまったら、どんな文章になりますか?

「痛みがある」、「感じるという経験がある」終わり、です。

誰の、とか、誰が、というのは思考が言っていることです。

ということで、さぁ、幻想の溝口あゆかは、肩が凝っているので、明日マッサージにでも行こうかな♪

 

ご質問を頂きました♪」への4件のフィードバック

  1. ゆめ

    あゆかさま
    お忙しい中ご返答ありがとうございます!
    おっしゃる通り、数多くの本をつなぎ合わせて理解しようとしている思考の塊です(*^_^*)
    頭には、思考には、自我には、個人には、絶対に理解できないとよくよくよく聞きますが、「私はいない」「悟る方法はない」の中で、他に出来ることがなくて、、。
    方法はないと言う一点張りのティーチャーたちが多い中、あゆかさん、ルパートスパイラの『こころがスーッと軽くなる「さとり」セラピー』や『プレゼンス』で言われる内容に希望を持ちつつ、体験を観察しています。お二人の優しいお人柄に救われてもいます。
    ありがとうございますm(_ _)m
    で、すみませんが、あと、もう一つわからないことが、、。
    本にもありました「ハート」の事です。「私はいない」のに「ハートの声を聞く」とは?
    ハートとは胸にある???私はいなくても個性はあると??
    またまた思考ガチガチですね(*^_^*)
    もし、お時間ありましたら、いつか教えてくださいませm(_ _)m

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆめさん、拙書をお読み頂きありがとうございます。ノンデュアリティー硬派(笑)のティーチャーは、何もできることはないと確かに言っていますが、ただ、皆さんその前にさんざんミーティングに出かけたり、いろいろなさっていたというのも事実です。ただ、「私が悟る」という姿勢でやっていると、自我が強まったり、間違ったイメージに落ち込んだり、いろいろ・・・とにかく皆さんがそういう理由はとてもよく分かります。

      さて、私はいないとは、主体がいないという意味です。体も思いも感情も、性格もハートの声もすべてあるけど、あなたはいないということです。それらを所有し、コントロールしている誰かはいないということです。

      一度、体や思いや性格を所有しているはずの誰か存在がいるのかどうか、つまり、それらを取り去ってまだ「わたし」がいるのか探ってみるのも第一歩かと思います。本当の意味の自分探しですね。(*^_^*)

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  2. ひかり

    あゆかさん、いつもありがとうございます。
    大阪のお話会に参加させていただき、この点だけがずっと引っかかっていたのです(泣)
    誰のものでもない、経験がただあるというのは調べてわかったとして
    けれど、しつこくも自我的には、
    この個別のように見える経験、いわゆる定点カメラからしか
    この広い(ように感じられる)世界を見ることができないので
    別の位置にもそこだけの定点カメラが入っていて、別の経験が起こっているのでは?と、
    自然に夢想してしまうようです。まさに二元の発想ですよね…。
    他人というのも概念で、思考の中にしか存在しないなら
    誰のものでもないカメラ(経験)は、唯一ここにしかなく、
    この経験が宇宙のすべてということ…なのでしょうか?
    自我的にみると、このなんでもない位置の定点カメラ(経験)が
    宇宙のすべてだとしたら、あまりにも無意味で、素晴らしくおもしろすぎます。

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひかりさん、大阪のミーティングにいらしてくださり、ありがとうございました。(*^_^*)

      どれだけ非二元の理解が進んでも、個の経験から逃れることはできず、隣の人の考えはやっぱり分かりません。(笑) でも、それが意識が分離している証拠にはならないんです。私がセラピーで使っている、マトリックス・リインプリンティングでは、量子フィールド(純粋意識)に対して、個人の経験を「ローカルフィールド」と呼んでいます。また、オランダの科学者は、それを大海のなかの水の渦巻きに例えています。下記の本は、それを説明したとても優れた本ですが、まだ日本語訳が出ていません。というか、今、ナチュラル・スピリットさんに遠慮がちに(笑)お願いしているところです。

      Why Materialism Is Baloney:by Bernardo Kastrup
      http://www.amazon.co.uk/Why-Materialism-Baloney-Skeptics-Everything-ebook/dp/B00IXUXDE4/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1431217602&sr=1-3&keywords=bernardo+kastrup

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