世界は私の中にある

かつて、私は世界を眺めていた。
空や雲や夜空は遠くにあって、
とても私の手の届くものではなかった。

大木を見上げ、この木は今までどんなことを
目撃してきたのだろうかと思いを馳せたりしたものだ。

大木は私よりもずっと長くそこにあると思っていたから。

でも、真実の扉が開いて、

そこに長くいたのは、私のほうだったと気づいた。
何百年という樹齢を持つ木よりも長く、永遠に
そして私はすべてに浸透していた。

どこに目を置いても私でないものは何一つなく、
すべては昔から知っている親しみに包まれている

空も雲も星たちも、
すべては私から生まれ、そして私の中に消えていく

だから、探すよりも立ち止まってみよう

一番身近な「わたし(I am)」を見つめてみよう

思考が沸いてくる前にすでに「わたし(I am)」はいて
思考が去っていた後もいつもわたし(I am)」いる

“でも、深く寝ているときは「わたし」はいない”、
“それに生まれる前も「わたし」はいなかったよ”

思考がそう問いかけてくる

思考はいつも対象物が必要で、「ただある」という状態を知らないから
深い眠りや死によって世界が消えたとき、すべてがなくなると思っている
実際なくなったのは世界ではなくて、思考なのに。

でも、「わたし(I am)」によく寄り添ってごらん

あらゆるすべてが変化するなかで唯一変化しない「わたし(I am)」に

そして、唯一決して対象化できない「わたし(I am)」に

深く深く寄り添ってみよう、

そうすれば

「わたし(I am)」は、永遠に“ただある”「わたし(I am that I am)」だったことが
きっと見えてくるだろう。

私は今世界を眺めていて、
世界は私の中にある

 

世界は私の中にある」への10件のフィードバック

    1. ayukablog 投稿作成者

      あはは!確かに言葉遊びのようですね。「わたしはいない」の「わたし」は、分離した個人のわたしで、「わたしがある」のわたしは、生命である「わたし」です。多くの人が見過ごしてしまうのは、いつもある身近な「わたし」感覚は、生命のわたしではなく、体や思いといった個人の私に属していると思っているからですね。

      いいね

      返信
  1. トマト

    すみません。
    思考が出てきたら、それは本当の私である生命エネルギーの言葉ではないのですね?
    それから、思考が出てきたとき、あえて、よい思考に切り替えようと、よい思考を選択してるのは誰ですか?本当の私である生命エネルギーですか?

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ご質問ありがとうございます☆

      とりあえず、本当の私とそうでない私がいるのではありませんよ。生命のエネルギー、気づきの意識、純粋意識(呼び名はどうでも)しかないということです。言葉は、すべてただ沸いてくるもので、誰?とか誰の?というものもありません。主体はどこにもいないんです。選択するという思考が沸いているだけですね。

      いいね

      返信
  2. トマト

    選択するという思考が沸いているのですか!目からウロコです。
    私の主体は魂で、魂と気づきの純粋意識は同じものだと思ってました。そしてそれが脳をコントロールしているのだと思ってました。
    いろいろと不思議で面白いです。ありがとうございました。

    いいね

    返信
  3. Mothe

    深い眠りに入っても、知らないうちに眠りが浅くなり、朝には目が覚める。
    脳はコントロールしていないですね。

    いいね

    返信
  4. ユーミン

    「禅とダイレクトパスの共通点」動画を拝見しました。五蘊の中の、consciousness(意識)とはこの場合何を指しているのでしょうか。対象物を認識する、分離した鑑賞意識のような事かなと思いましたが少し困惑してしまいました。感覚の経験をみていった時に残る気づいている意識(ひとつである意識)とは絶妙に違いますよね。自己観察を実践していた時期が長く、どうしても観察が入ってしまう気がします。

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ご質問をありがとうございます。

      私も分かりにくいなと思いました。なぜconsciousnessと訳しているのか、誰が訳したのか、そのへんはわかりません。が、五蘊はすべて変化していくものですから、この場合は、変化する意識の作用だと私は捉えています。つまり、気づきの意識ではなく、通常私たちが“意識的にやろう”などと使う意識、または、衝動などもそうかもしれません。

      大切なことは、実体としてあると感じていた体と精神作用は、すべて気づきの意識でできていて、見る、聞く、感じる、考えるなどの経験の集積であると見抜くことかと思います。(そこに主体はいない、だから、客体もない)

      ちなみに自己観察をなさっていたのは、とても良いことだと思います。観察が入ってしまうということですが、観察しようといった意識のないもの、一切の言葉がない観察している意識にただあることは、最高の瞑想ですね♪

      いいね

      返信
      1. ユーミン

        さっそくのご返答ありがとうございます!

        なるほど〜♪変化する意識と捉えるとわかり易いです^ ^

        今までの自己観察に、時々身体が緊張するような違和感があったのは(聞きたくない想いが出てくると特に(笑))、

        まさに観察しようとする主体意識が入りこんでいたのかもと思いました。

        すでにここにあるのは明らかなので目指す必要がないのは一番の救いですが、

        個の感覚に慣れ親しんでいた分、気づいている意識である事を見抜いていく上では、

        言葉が適切かわかりませんが、数稽古のところもあるのかもしれませんね。

        構えていた力が抜け、ハートの視界が開けた気分です♪

        わかり易いご説明、誠にありがとうございました。

        いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中