シンプルな観察から真実を見よう♪

数年前、フランシス・ルシールが、「“(個の)私はいる”という思いがなければ、自分がどこにいるのか分からない」というのを聞いて、目からうろこが落ちまくったことがあります。

なぜなら、“(個の)私はいる”が単なる思考だなんて考えてもみなかったからです。

もちろん、地球上のほとんどの人がそう思っているでしょう。こんな話を普通にしたら、まったく通じないか、頭がおかしいと思われるかもしれません。

でも、思考をできるだけ取り去って、よくよく自分の直接の体験を見つめてみると、本当にここにあるのは、体の感覚や音や思考といった経験があるだけでした。

でも、「経験者(わたし)」はいないんです。

感じるという経験(体の感覚)
聞くという経験(自分の呼吸の音、人の声、車の音など)
見るという経験(自分の体、風景)
考えるという経験(思考、“私はいる”など)

これらがあるのみ。(簡単に書いていますが、じっくり丁寧にやってみてください。)

そして、経験の中で感覚や音や思考が沸いては消えていき、そのどれ一つも起こす主体が見当たらないまま、すべてがただ起きています。

外から聞こえる音、家の中の音という思考をはずすと、その二つの音に距離がないことが明白になってきます。

また、

体の感覚と車の音も、体(近い)、外(遠い)という思考を横に置いて経験に寄り添うと、そこには距離がまったくありません。つまり空間のないところ(←言葉の限界)で、あらゆる経験は起きているんですね。

では、それらの経験と気づいている意識の間には距離はあるでしょうか?
ないですよね? つまり、経験(色)=気づきの意識(空)ということです。

沸いてくる思考を含めて、あらゆることがただ起きて、起き続けています。

そして、同時にまったく変化しない気づきの意識がすべてに浸透しています。

変化と不変が同時にある神秘

でもこの非二元のメッセージ、例えば“すべてはただ起きている”を世界を理解する概念として捉えてしまわないようにして欲しいなぁと思うのです。

シンプルでダイレクトな観察で体験的にちゃんと理解できるんです。(ダイレクトパス)

もちろん、真実を見る手がかりとして、ある程度の思考の理解は助けになるでしょう。
でも、ものごとをいつも分かりやすく頭で捉えようとする癖を少し手放してみませんか?

頭で捉えて理解したものは、必ずどこかが歪曲していたり、妥協があります。

そして、その部分に言葉に表せない大いなる神秘と真実、愛が隠されているんです。

それを決して見失わないように。

すべての鍵は、いまここに♪

※フランシス・ルシール(Francis Lucille)は、ルパート・スパイラの先生です。

 

☆☆☆お知らせ☆☆☆

地球ひろしさんのearth-TVに6月20日(土)夜9時より出演します!
当日質問をしたい方は、アフリカTVの無料アカウントで入るか、
FB、ツイッターでチャットに入れるそうです。

シンプルな観察から真実を見よう♪」への5件のフィードバック

  1. Kumi

    あゆかさん。
    たびたびコメントさせて頂いています。

    実は昨日、やっとあゆかさんが言ってたことがわかりました。
    わたしは、いないんですね。

    気づきの意識に気付いていながらも、私は
    私がいる、という事が思考だと
    これっぽっちも考えてなかった。
    まさに、灯台下暗しでした。

    ずっと、違和感があったんです。
    プレゼンス、に気付いていても、私はいました。
    それを思考でむりやり私=全体
    にしてたけど、その時もやはり「私」はいました。
    だから、昨日お風呂で
    あゆかさんはああいうけど、私はやっぱりいるよな~
    って、疑問に思ったんです。
    自分に意識をむけて、その感覚を確かめた時
    なんと、
    私にぴったり同化していた気づきの意識が
    ぱっと、私から離れたんです。
    そのとたん、わたしはいませんでした。

    これだったのか!あゆかさんが言ってたのは!
    って思いました。
    わたしはいなくて、在るのは全体だけでした。
    私はその全体の一部にすぎなかった。
    その時確かに、この全体は幻なんだ、って感じました。

    ほんの一瞬の出来事でした。
    笑いだすこともなかったし
    今も気が付くと私はいるので(笑)
    一瞥体験じゃないのだろうけど
    世界がひっくりかえったみたいで面白かったです。
    あゆかさんが、繰り返し、くり返し伝えてくれたおかげですね。
    言葉にしにくい世界を、こうして伝えてくださって感謝しています。

    そんな私にとてもタイムリーな記事でした。

    ながながすみません^^;

    いいね: 1人

    返信
  2. ユーミン

    経験をみていくとき、どの感覚を皮切りにしても鳩尾の辺りに意識がくる感じがします。

    慢性的な腰痛があるのですが、その経験をみていくと、身体感覚が無くなっていくと同時に痛みはお腹の真ん中に溶けて無くなっていくようです。

    鳩尾やハートは、身体がなくてもやはり主軸なのでしょうか。

    それとも主体としての在り方の片鱗なのでしょうか。

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      みぞおちってそういう漢字だったのですね。さて、良い感じで見ていらっしゃると思います。あともう一つ転換が必要です。まだ、意識が客体(状態)のほうへ向いていますね。とりあえず、これはこれで良いのですが、次は、何があるか、どんなふうか、どうなるかなどではなくて、“経験そのもの”に意識を向けてみてください。感じるという経験そのものです。

      いいね

      返信
      1. ユーミン

        あっ!本当だ(汗)

        思いっきり対象を追っていますね。。

        足場が無くて、気づけばつい対象に見入っている気がします。

        経験の方、今一度みつめてみます!

        アドバイスありがとうございます*\(^o^)/*

        いいね: 1人

  3. ゆき

    地球ひろしさんがアップされたYoutubeを拝見させていただきました。

    溝口さんのお話、非二元について、分かりやすかったです。

    とくに、最後のお話は、とても伝わりました。

    それは、どこにでもあって、とってもシンプルなんですね!

    ありがとうございます!

    いいね: 1人

    返信

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