悟りの境地の幻想

ときどき、悟りの境地とか、自我が完全に滅した状態とか、そういった言葉を耳にします。
私も随分長い間、“私が悟った状態になる”のだと思っていました。
ティーチャーに状態じゃないと言われても、ついうっかりすると悟った状態を探していたものです。

しかし、状態とか境地とは、必ず変化していくものですね。また、「(個の)私」も変化していくものです。変化していくものが、状態という変化していくものに留まり続けるというのは、幻想なんです。

誰かが悟りたいというとき、“悟りのイメージ”を追っかけていることがとても多いです。
で、その場合、欲しいもの、求めているものは、そのイメージのほうなんです。

または、悟りとは~~であるとか、悟った状態とはこういうものである・・・という概念かもしれません。

イメージや概念化された悟りや真実は、たいてい自我によってを客体化され、得るもの、到達するものになってしまいます。思考を完全にコントロールできる状態になる、自分の波動を仏陀の意識まで高める、エネルギーのシフトを起こすなどなど。

そして、それができている誰かがいるというストーリーが生まれます。

ストーリーは、ストーリーとしてまったく問題ありません。それがストーリーであって、求めるものではないと分かっている限り。

もし、あなたが求めているものが究極の真実であるのなら、自分の中にある悟り、覚醒、非二元のイメージ、概念を捨ててしまったほうが良いと思うのです。それらに振り回されないように。

そして、何もかも捨てて、真実だけ知りたいと思ったとき、あなたはそれがどんなものかさっぱり分からないはずです。

何も分からないところへ身を委ねたとき、思考は静まり、謙虚さや脆さが覆ってくるかもしれません。

でも、それに呼応するかのように真実も静かに静かに姿を現してきます。なにもしなくても、常にここにあった真実が。

真実とは、境地でも状態でもなく、誰か個人がそこに留まっていたり、所有できるものでもありません。

得るものではなく、それはあなたそのものです。

概念やイメージや何かを追っかけるのをやめて、ただ静かに座ったとき、聞こえてくる音、目に映る風景、それらがすべてあなたなんです。

移り変わっていくすべてが。

そして、そこに常にある気づいている意識。

不変と変化。

あらゆることが起きているけど、何も起きていない、

あるとない。

これらの言葉を超えた神秘のすべて。

それをあなたが感じるのではなく、それがあなたなんです。

悟りの境地の幻想」への1件のフィードバック

  1. Mothe

    気楽にダイレクトパスを試しています。
    一度試して終わりではなく、なんども行うと効果も違ってきました。
    そのときの自分(観察者)のシフト、消滅?も、大分変わるものですね。

    見る経験よりも聞く経験が入りやすいですが、見る経験の場合、見る経験と聞く経験を
    合わせて行うと、見る対象そのものから離れ易くなると思いました。

    何が起きるのか、聞く、見る、以外の経験も試してみようと思います。

    これは、自分の中の肉体的、精神的な痛みを見つめる(受け入れる)ということにも、
    どのように使えるのか試してみます。

    見つめるのは観察者で、その経験に寄り添うということでしょうか。
    文字で表現すると限界がありそうで、体験してみます。

    いいね: 1人

    返信

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中