非二元~開かれた秘密♪~

真実は言葉で表せない、のだけど、今日は、非二元(ノンデュアリティー)という言葉にこだわってみたいと思います。

まず、その意味はご存知の通り、

“二つではない”。終わり。

ノン(no)、デュアリティー(dual=two)=二つではない。
アド(no)、ヴァイタ(two)=二つではない。

たまに非二次元という思い違い?書き間違い?を見つけますが、次元は英語では、ダイメンション(dimension)ですね。

非二元のメッセージとして、「私はいない(no self、 no doer)」がそれなりに浸透し始めてきたと思います。

もちろん間違いなく、それが非二元のコアメッセージの一つではありますが、そればかり一人歩きしている感がなくもありません。

なので、出発点に戻って、

“二つではない”という、地味でシンプルな言葉を深く見ていきたいのです。

つまり、主体と客体は二つではない、私と世界は二つではない。

じゃぁ、ワンネスで良いんじゃないの?と思考は、さっとまとめてしまうかもしれません。
そこをぐぐっと立ち止まって、なぜわざわざ、“二つではない”と言っているか?をもう少し見ていきたいのです。

なぜなら、そこにトニー・パーソンがいう「オープン・シークレット(開かれた秘密)」が秘められているから。

あまりに地味で日常で見過ごし続けているけど、でもそれに気づけば、パラダイムがひっくり変える秘密です。全員が知っているのに、気づいていない秘密。真の私は何かという秘密。

話を戻して、

“私が音楽を聴いている”場合、私と音楽は二つではない、ですね。

これが意味していることは、シンプルだけど、ものすごく深いんです。
ですから、ぱっと頭で判断せず、よ~く観察してみて見ると・・・・・・・、
(個人的にはダイレクトパスがお薦め)

それはまず、音楽を聴こうと決めた人がいない、行動の選択者がいないということ!

音楽を聴こうという思いが沸き、体が動き、音が奏でられ、聞くということが起きます。主体なしに、見事に一連の現象が起きるんです。

そして、思いも、体も、音楽も、聴くという経験も、よく観察すれば、すべて気づきの意識のなかで起きています。

そして、さらによ~~く観察すれば、気づきの意識の中で起きている事象に、一切距離や空間がないことが分かるはずです。

つまり、“二つではない”が意味すること、それは時間や空間もないということ。

ここもあそこも、この世もあの世も、低次元も高次元もなく、だから、高次元に目覚めるというのも、まだ夢の中です。

過去も未来も、過去生も今世もなく、だから、自分が今自分の人生を生きているというのも夢。

時空や次元がある話、変化がある話は、すべて壮大な神の遊戯、夢の物語です。

でも、この偉大かつ、驚異的な神の遊戯(夢)の中に生まれる、時間と空間、宇宙や人類の歴史、さまざまな次元、そしてあなたと私、すべては同時に不変不朽である気づきの意識そのものです。

スクリーン(空)と、映像(色)が分けられないように、空即是色であるように、ないとある、夢と実存、変化と不変は、決して分けられないですね。

だから、夢も真実であって、どっちが大切とか、どっちがより神聖かなどともいえません。

逆に言えば、最もつまらない日常、自我が次元が低いと判断するものも、すべて神聖なんです。

頭で判断しようとしないほうが良いでしょう。

それよりも、この地味でシンプルな“二つではない”というメッセージを徹底的に見つめてみると良いかもしれません。

そこには、頭では把握できないけど、自明で開かれた、そして深い秘密が隠されているから♪

非二元~開かれた秘密♪~」への11件のフィードバック

  1. ひとみ

    いつも、いつも、ありがとうございます。
    いつも、いつも
    とーっても気持ち良くなります。
    ほんとうにありがとうございます。

    この「二つではない」とは「距離が無い」と、すぐに感じ
    目をつぶって、自分の内を見ると
    自分の外と内に距離がなく
    宇宙と自分に距離がなく
    この瞬間しかないことまで感じます。
    地球がまわっている音とも距離がないような
    壮大さを感じます。

    「二つではない」
    「距離はない」

    ありがとうございます。

    いいね: 2人

    返信
  2. ひとみ

    すみません。
    新しい投稿のお知らせのアドレスを
    変えますので、申し訳ありませんが
    新しいアドレスのほうにお願いします。
    お手数おかけし申し訳ありません。
    どうぞ宜しくお願いします。

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとみさん、こんにちは! コメントをありがとうございます☆
      リアルタイムでPCの前におりました。イギリスは朝8時です♪
      実は、購読の登録などは、ワードプレスのテンプレートについている
      自動機能となっており、私は登録のプロセスに関与していないんです。
      しかも、パソコン音痴で、どうしたら良いか分かりません。

      ですので、もし可能でしたら、ご面倒ですが一度購読をキャンセルし、
      再登録をしていただけますでしょうか?

      今後とも宜しくお願いいたします。

      いいね

      返信
  3. ひとみ

    早速、ありがとうございます。
    そうさせていただきます。

    いつも楽しみに拝読させていただいてます。

    まったく距離がない0の隙間しかなかった。
    探していた私もいない
    探されるものもない
    0の隙間だったから。

    気づかせて頂きました。
    ありがとうございます。
    ありがとうございます。
    ありがとうございます。

    いいね

    返信
  4. koron

    はじめまして。
    非二元に興味があり、あゆかさんの動画も拝見させてもらいました。
    しかし頭でいろいろ理解しただけで、いまいち「ダイレクトパス」の効果がわかりません。

    今日の記事の中の、「音楽を聴こうと決めた人がいない」ですが、
    「音楽を聴こう」という思いがわき、そのあとそれを選択することはできるように思います。
    つまり「行為者」が「音楽を聴く」か「聴かない」かの選択はできるのではないでしょうか。

    このコメントを書き込むのも「自分が選択した」と思うのですが違いますかね。

    これからもブログ楽しみにしています。

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Koronさん、ご質問ありがとうございます。

      ブログではダイレクトパスについてあまり書いていないので、分かりにくいと思います。(書くというタイプのものではないため)

      さてその後、何かを選択する思いが、自分が起こしたのか、勝手に出てきたのか?しつこく観察してみると良いかと思いますよ。つまり、思いというものが勝手に浮かんできているのかどうか、よく見てみるんです。最初はよく見ないと、自分が選択者のように感じてしまうと思います。(そうやってずっと生きてきましたので)

      コーヒーをもう一杯飲もうかな?どうしようかな?、もう一杯飲んじゃおうお、みたいなとき、その思いが勝手に沸いてきたのかどうか? それとも、その思いを作り出している誰かがいるのか? 

      なんだか、面白くなってしまいましたので、次回かいつかの記事にもう少し書いてみますね♪

      いいね: 1人

      返信
  5. koron

    返信ありがとうございます。

    やはりよくわかりません。。
    どうしても「自分」が選択しているように思えます。

    もうすこし観察してみたいと思います。
    次回の記事も楽しみにしています。

    いいね

    返信
  6. ダダ

    お世話になります。少し教えて下さい。
    どうして選択かどうかとか、選択者が自分か勝手かとか、そこだけ分けるんですか?
    この手の話には、私は無いとか、全ては私だとか、捉え方がありますが、
    >ここもあそこも、この世もあの世も、低次元も高次元もなく
    しかし、選択者かそうでないかの区別はあるのですね?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      タダさん、こんにちは☆

      さぁ、お返事しようとしたら、そこだけ分かるという意味が、ごめんなさい分かりませんでした。

      で、二つ目のご質問ですが、あの世とこの世、高次元と低次元は、二極的な対比ですが、選択者がいるかどうかは、区別?対比?というより、例えば、あの世はあるかどうか、みたいな類の問いだと思います。

      でも、おっしゃるように「ない」だけではなく、「選択者はいる」(現象として)というのもあるレベルでは真実とも言えると思います。なにしろ、非二元(悟り)のメッセージは、黒白はっきりさせることは不可能で、頭ではとうてい捉えられないですね。

      いいね

      返信
  7. ダダ

    お答えいただき、ありがとうございます。
    えっと、「そこだけ分かる」ではなくて「そこだけ分ける」です。

    > ここもあそこも、この世もあの世も、低次元も高次元もなく、
    は、その両極が存在しないのではなくて、区別というか境が無いのですね。
    対して、選択者の有無は文字通り有るか無いかなので境の問題ではないという事ですね。

    > ないとある、夢と実存、変化と不変は、決して分けられないですね。
    ここの「ないとある」は有無というものが何かについての存在を問うた結果の観念なので、分けられないって意味でしょう?
    また「夢と実存」は全く異質のものに思えますが、それもコインの裏表のように同じものの両極なのは、実存も意識が捉えているものを実際にそれ自体として存在すると判定しているだけで、夢と同じく意識内のものだという事ですね?

    以上から考えまするに、選択している私がいるかいないかという問いも「そうハッキリ言えるの?」と思った訳なんです。

    > 「選択者はいる」(現象として)というのもあるレベルでは真実とも言えると思います。

    「私が音楽を聴く」や「私がコーヒーを飲む」ので、意識内に音楽やコーヒーと同じレベルで私がいるけど、その意識をそのレベルの私が操作しているわけではない、ということでしょうか?
    だとしたら仰ることが解るような気がします。意識を操作している私はコーヒーを飲む私ではなく幻想に過ぎないってことですね?
    でもkoronさんの仰ることも否定できませんよね。夢と実存が区別できないのですし、白黒はっきりさせるのが不可能なんですから。
    コーヒーと同じように知覚されている私、その私と意識が別に有るのではないという知覚(感覚?)は夢と実存程の大差は無いような気がしますしね。

    いいね: 1人

    返信

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