自分が選択したんじゃないの?

下記のご質問を頂きました。ありがとうございます☆

今日の記事の中の、「音楽を聴こうと決めた人がいない」ですが、「音楽を聴こう」という思いがわき、そのあとそれを選択することはできるように思います。つまり「行為者」が「音楽を聴く」か「聴かない」かの選択はできるのではないでしょうか。このコメントを書き込むのも「自分が選択した」と思うのですが違いますかね。

いろいろな角度からお返事できるなぁと思いますが、たぶん、そもそも「主体がいない」ということがはっきり見えてくれば、当然、行為者がいない、選択者、決定者がいないことも見えてくるでしょう。

まず、体や思いや感情、性格、etcはありますが、「行為者」はいないんです。たぶん、ここが皆さんすごく混乱している点なのかもしれません。

「私はいない」というメッセージを、人そのものがいないと勘違いしていると、えっ、でもあなたいるじゃない、みたいな反応になりますね。

または、体、思い、感情=「わたし」であると考えていると、どう考えても「行為者」がいるように思えるでしょう。

「体、思い、感情」=「わたし」=選択者=行為者というのが、地球上の70億人の感覚だと思います。

が、非二元はシンプルですが、ある意味かなり過激で、それは幻想だよと言っているんです。

私が非二元のセミナーへ行くことに決めた、私が夕食に何を食べるか決めた、私がコメントを書くことにした・・・などなど、物事の選択者、決定者である(個としての)私が決めた、というのがほとんどの人の感覚ですね。

でも、そういう思いが沸いて、体が動いて、セミナーへ行くということが起きたんです。そして、そこに主体はいないんです。

ということで、シンプルな観察から始めてみましょう。

思いは沸いてくるのでしょうか? それとも、“よし、こういう思いにしよう”、とすべての思考の前にいちいち、思考を作っている誰かがいるのでしょうか?

だいたい、“よし、こういう思いにしよう”がすでに思いなので、こういうふうに考えること自体理論が破綻していますね。

ですから、自分は次に沸いて来る思いを知っているのか?を徹底的に見つめて欲しいのです。起きていることの真実を知るには、起きていることをよく見ることです。

でも、普段の私たちは、思いや感情、体にすっかり同化しているので、最初はこの観察、少し難しいかもしれません。なので、まずは思いや感情、感覚の観察からはじめてみるのも良いでしょう。

観察している自分と観察されている自分を意識するんです。ちなみに私の先生のルパート・スパイラは、これを“悟った二元”と呼んでいます。自我にすっかり同化していた状態よりは一歩進んだけど、観察者と観察されるものの二つがまだあるからです。

・・・・で、このへんで記事を終わりにしても良いなぁと思うのですが、もう少し書いちゃおう。

というのも、ほんとうに大切な問いは、「私は何か?」だと思うのです。

私は、体と思いと感情の集積? それとも、私は気づきの意識?

これが明白に認識されれば、繰り返しになりますが、行為者の不在、自由意志の幻想は自ずと明らかになりますね。

「気づきの意識」=「わたし」であるなら、個別の主体はどこにあるのでしょう?

ただ、これを頭だけで理解してしまうと、“自分が決めているんじゃなくて、どうせ起きることが起きるんだから、何やっても無駄~”みたいな、虚無に陥ったやさぐれ自我が生まれてしまうかもしれません。

でも、本当にそれだけだと思いますか? もう少し真実を見たいと思いませんか?
もしそうであれば、静かな「ただある私」(I am that I am)に寄り添ってみませんか?

すべての考えを横において、ほんとうにシンプルに、何かが起きることを期待したり、うまくやろうとせず、ただ、「すべてに気づいている意識」に寄り添ってみるんです。

すると、ありきたりの日常の風景、音、人や自然の動きが、ただ起きていること、でも、それが物言わぬ優しさで満ちていることが感じられるかもしれません。

決して止むことのない生命の躍動、生命のハートの歌♪

昔も今も、これからも、それが「わたし」なんです。みんなずっと知っていたはず。子供の頃には何度も感じていたかもしれません。

そして、自我がこの「全体であるわたし」に完全に降参したとき、“じゃぁ、(現象の)私は人生でどうしたら良いの?”という問いは消えていくでしょう。

なぜなら、自分にとって最も真実と感じる思いを見つけていけば良いと分かるから、そして、起きることへの信頼にあなたは満ちているから♪

 

自分が選択したんじゃないの?」への8件のフィードバック

  1. koron

    質問を記事にしてくださってありがとうございます。

    理解しようということが起こっています。。
    でもわからないという思いが起こっています。

    そういう思いに気づいている、、それが「気づきの意識」でしょうか?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      コメントをありがとうございます☆

      文章のやりとりなので若干判断が難しいのですが、とっても良い感じだと思います。そうです。そういう思いに気づいている意識が、「気づきの意識」です。

      気づきの意識は、思いには気づいていますが、思いは持っているか? 例えば、自分がどんなにパニックっているときでも、自分がパニックっていると分かっていますね。その、分かっている意識は、パニックっているか?などと見ていき、気づいている意識の性質をみようとしてみると、さらに深めていけるかもしれません。

      いいね

      返信
  2. ナオミ

    先日、自分の経験をよ~く見つめてみました そしたら それは「知っている」という思いが沸いてきました(私の場合「気づいている」と言うより「知っている」の方が合っています) これがあゆかさんがおっしゃっている「気づいている」意識なのかな?と思いました それは悟りでもなく一瞥体験でもない ほんの少しだけ感じたものでした
    さらにその「知っている」意識と私は一つで この二元の世界で生きているのは ただ体験をするためなんだ思いも沸いてきました
    これでいいのでしょうか? 

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ナオミさん、コメントをありがとうございす☆

      やはり文章のやりとりなので、いまいち分かりにくいのですが、「思いが沸いて来た」ということであれば、ちょっと違うかもしれません。その思いが沸いて来たことに気づいている意識のほうです。

      いいね

      返信
  3. koron

    返信ありがとうございます。

    「気づきの意識」に寄り添ってみたいと思います。

    これからもブログ楽しみにしています。

    いいね: 1人

    返信
  4. とも

    あゆかさん

    いつもとても分かりやすい説明のメッセージありがとうございます。

    あゆかさんの動画やブログで、分からなかったことが段々と理解でき、ダイレクトパスのおかげで自分が空っぽな感覚や、子供の頃のような感覚が分かるようになりました。

    いつもありがとうございます。
    これからもよろしくお願いします(*^^*)

    いいね: 1人

    返信

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中