「ある」と「ない」を生きる♪

自我は、自分がいて、世界があって、人生があって、自分が何かして・・・という「存在の世界」だけしか知りません。

なので、最近流行り(?)の「私はいない」というメッセージは、多分とても分かりにくいはずです。自我にとっては、とにかく「まず自分がいる」というのがすべての前提ですから。

私自身も奇跡のコースのメッセージである「この世には誰もいない」という言葉を聞いたとき、なぜかそれが真実だ!とは直感しましたが、意味はさっぱり分かりませんでした。

でも、それだけにこのメッセージは、ある意味とても大切です。「私はいない」「物事は起きていない」「世界は幻想であって、実在していない」という「ない」の側面を知ることで、私たちは一歩大きく真実へ躍進できると思うからです。

さて、悟りや非二元に興味がある人は、一見頭がおかしいのでは?と世間一般的には思われそうなこれらのメッセージにも、オープンに耳を澄ましてくれます。

とはいえ、自我にとってすべてはリアルで、明らかに様々なことが起きていて、とても“起きていない”とは感じられないはずです。(正確には、“あらゆることが起きていて、そして何も起きていない”です)

大切なのは、メッセージを頭で理解して“本当はそうなんだな・・・”と考え込むのではなく、自分がほんとうにそう見えているかどうか、徹底的に正直になることでしょう。

そうやって自分に正直になって始めて、ほんとうの質問が生まれてくるからです。

今まで頭から出てくる質問はたくさん頂きましたが、体験から出てくる質問はとても少ないんです。

自分がいるように感じるなら、それは一体何?感覚?それとも思考?

物事が起きているようにしか感じないのなら、“非二元的には、戦争も幻想なんですよね?”と聞く前に、自分は何を見過ごしているの?何がもっと見えてきたら良いの?

などと真剣に問いかけていくことです。

さて、これらの問いかけのすべての鍵、そしてすべての答えは、「いまここ」にあります。たった今、あらゆることが起きていて、そして何も起きていないんです。今まさにここに。

自我は、「ある」しか知らないというお話をしましたね。思いや感情、そして体の動きは充分に知っているし、ある出来事が始まって、終わっていく、人がA地点からB地点へ移動していく、といった現象もよく知っています。

今ここで、あらゆることが起きているということは、自我は充分に理解しているでしょう。

では、今ここで「わたしはいない」「何も起きていない」の側面に目を向けるには?

それが、「気づきの意識」(純粋意識、真我、それ、空、etc)にしっかりより沿うことなんです。

あらゆることが変化していくなかで、唯一常にあって、唯一観察することができなくて、唯一変化しないものは何?

それは、すべてに気づいている意識ですね。それがなければ、なにがあるとかないとか、変化したとか、一切何も分かりません。

気づきの意識は、またルパート・スパイラの例えを借りると、映画のスクリーンのようなものです。

スクリーンは真っ白だから、あらゆる色や動きを映し出せます。そして、スクリーンの中では時が経過し、キャラクターがA地点からB地点へ移動しますが、スクリーンも一緒に移動することはありませんね。

気づきの意識も同じで、気づいているだけなんです。

なので、気づきの意識にしっかり寄り添い、そっちのほうが自分であるということが、しっかり理解できれば、思い、感情、感覚、体は捉えることができるもの、変化するもの、つまり、起きている出来事のほうであって主体ではなく、そこに持ち主がいないことが自ずと見えてくるはずです。

そしてまた、気づきに意識は常にあって変化しないことが感じられたら、そこに時間と空間がないことも見えてくるでしょう。

ものごとが起きるというのは、時間と空間があるところだけですね。出来事とは、始まりがあり、終わりがあり、空間が必要です。

でも繰り返しますが、変化することなく、常にある気づきの意識に深く寄り添い、それが「私」であるとしっかり分かれば、時間と空間も幻想、ストーリーであることが見えてきます。

そうすれば、時空のないところで起きたかのように見えるあらゆる出来事も、実体のないものだと感じ取られてくるでしょう。

そして、「何も起きていない」ことが深く感じられたとき、そこには愛と受容しかないことがよく分かるはずです。

愛と受容の中で、あたかもあらゆることが起きているかのように神の遊戯が行われているんですね。

これをまずしっかり知ることが大切だと思うのです。そしてその上で「ある」に戻ったとき、自分がいて、世界があって、そこではあらゆることが起きています。

でも、もうその「私」は、個の私ではなく、気づきの意識の「私」なんです。

気づきの意識の「私」の視点に立って、個の私という現象を生きること。それが英語でいうembodiment(真実を体現する)という意味なのでしょう。

あらゆる出来事を深く感じながら、同時にすべてが救われていることを知っている。世界にある嘆きと真実の愛を両方同時に抱きしめながら、人間の深さと真実の深さをかみしめていく。

これがある意味、本当の人生なのかもしれませんね♪

「ある」と「ない」を生きる♪」への16件のフィードバック

  1. ひとみ

    すばらしい!です。
    これ以上の表現があるでしょうか!
    ほんとうに、ほんとうに、素晴らしい!
    感謝の気持ちで胸が一杯になりました。
    まるで自分が融けて消えそうなくらい有難かったです。

    「わたしはいない」
    たしかに、わたしがいなければ、時間・空間・距離感・分離感もないです。
    すべては繋がっていて1つだと わかります。
    ここが、しっかりわかりました。体感しました。
    あゆかさんのおかげです。

    人生はコントロールする必要がなく
    他者に責任はなく
    とんでもなく自由で とんでもなく有難くて
    これ以上なにもありません。
    御心のままにとは、こういうことだったのかと
    御心しか存在していなかった!
    これそのものしかなかったことを感じることができました。

    「なので、気づきの意識にしっかり寄り添い、そっちのほうが自分であるということが、しっかり理解できれば、思い、感情、感覚、体は捉えることができるもの、変化するもの、つまり、起きている出来事のほうであって主体ではなく、そこに持ち主がいないことが自ずと見えてくるはずです。」

    はい。その通りでした。これはとても嬉しいことでした。
    解放そのものでした。
    なぜなら「私」は「私が嫌い」でしたから
    余計に嬉しく有難いことでした。

    ちょうど、昨日、あゆかさんが昨年書いてくださっていた「悟りよもや話」を拝読させて頂いていました。

    「しかし、今になってみれば、自我の目線で自我の働きを知ろうとするよりも、気づきの意識の視点から自我を眺めた方がよっぽど分かるなぁということが分かります。」

    という文章と

    「いずれのパスにせよ、共通点はどちらも自分の経験を深く見つめるということです。」

    「自分を見つめずに、悟りのテクニックや理解に走ってしまった人々にもそれなりに会いますが、自分の思考を観察しきれていないため、逆に自分の「悟り論」に振り回されているなぁと思います。」

    これは↑まさしく!私でした。なので痛いほどわかります。

    私の人生物語では、信仰という「プログレッシブパス」から始まり、途中で「ダイレクト・パス」に出会わせて頂き「なにをもって、これが自分だ!と言えるのか?」を徹底的にさせて頂き(これはとてもきつく、途中体調を崩しながらでした )ました。
    これらすべてが恩寵だった!と気付かせて頂きました。

    とにかく「私があり過ぎた私」は、とんでもなく苦しみましたが
    その苦しみに 今は感謝しています。
    すべては無駄ではなかった!と、心から感謝しています。
    そして、こうやってあゆかさんが今までの私物語を整理してくれているようで
    また今後の私物語の主軸をくださっていて
    (気づきの意識にしっかり寄り添い、そっちのほうが自分であるということが、しっかり理解できれば、)
    ほんとうに、ほんとうに有難いです。

    これからも、どうぞ、どうぞ宜しくお願い致します。

    感謝

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとみさん、嬉しいコメントをありがとうございます☆

      ブログの記事だけで腑に落ちたというのは素晴らしいです!プログレッシブパスで下地ができていたのかもしれませんね。私も少し違いますが、自己の癒しというプログレッシブパスに長い間いました。目覚めはいつ起きるか、何がきっかけになるか、またはただふと訪れるか分かりませんが、本当にすべてに無駄はないと私もつくづく思います。

      いいね: 1人

      返信
      1. ひとみ

        あゆかさん
        嬉しいお便りありがとうございます。

        日々「わたしはいない」まま
        自分の経験を深くみつめています。

        これが、あらあらまあまあ・・・と
        こんな感覚に引っかかっていたんだー!と驚いてみたり
        微笑ましいものだったりと
        なんだか毎日が宝探しのようで
        うっとりしてしまいます。
        かといって安心ばかりでもありません。
        ハンドルを手放したままの運転ですから 笑
        スリル満点のときもあります。
        やはり色は残りますね ♪

        それにもまして嬉しいのは
        これそのもので在れることです。
        ただただ満々と満ちた湖のごとく
        永遠に湧き出ずる泉のごとく
        これは表現のしようがありません。

        いいね: 1人

  2. marikyon

    「気づきが私だ」という二元に捕らわれます。
    そうではないと知るのは、そうではない体験しか無いのかと思います。

    いいね

    返信
  3. アオタ ママ

    本当に本当に 素晴らしいです
    ただただ お礼を言いたい
    あゆかさんにたどり着けてよかった
    有難うございます

    いいね: 1人

    返信
  4. かいりきまーちゃん

    翻訳の問題もありますね。

    こちらの解説のように、気づきの意識を、気づいている意識と訳せば、あっという間に

    わかる人も出てくる気がします。気づきと気づくは違う訳ですが、普通の日本の語では

    気づくの名詞形の気がします。なんか気づかなくていけないみたいな強迫感、気づかないより

    気づいた方が、一般には上等みたいな、勝手な思い込みもありますね。気づくのは自分

    注意君ですから。まだ残念?ながら、ありありと自分かいるという感じがあります。

    こりゃどうしょうもないので、これでいいのだと確信しています。始末に負えませんね(笑)。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは!

      翻訳もそうですが、ほんとうに言葉は、すべて妥協になってしまいますね。いつもありがとうございます☆

      いいね

      返信
  5. とも

    あゆかさん

    いつもありがとうございます。

    今日の記事は、少しシフトが起きたようにすっと、入ってきました。

    ものすごく分かりやすい記事をありがとうございます。

    これからもよろしくお願い致します。

    いいね: 1人

    返信
  6. AQU@

    はじめまして、一冊のご著書と一冊の翻訳本を読ませて頂き、ここはリーラブログのコメに紹介されていましたので、何度か来させて頂いております。
    >それは、すべてに気づいている意識ですね。
    私も そんな風に思います。何も無い 意識の上に 何があるのか?
    この問に 沿って 日常にいます。あるものの総ては 創造物であり
    総てを 取り払った自意識が 本来の自分であると認識します。
    あるものが 見えなかったり みないふりしていたり 全く意識上にのぼらなかったりすると
    私自身は 創造物と同化しているのでは ないでしょうか(笑)

    >私があり過ぎた私・・・も 苦しみを たくさん抱えました(爆)
    創造物を体験することは、喜びも多いのですが 苦しみも 超えないといけないって
    思って、私 超えました(笑)

    読みやすくて 優しいメッセージを ありがとう。ございます。。。

    いいね: 1人

    返信
  7. ひとみ

    なんども、すみません。

    どうしてもお礼が言いたくなりました。

    【 ポイントは「私はいなかった」と気付いている意識のほうです 】

    気付いている意識そのもの これが真の私

    ほんとうにありがとうございます。

    感謝

    いいね: 1人

    返信
  8. nabona

    “気づきの意識の私”
    菜穂さんは、私という視点がある限り、それはストーリーに過ぎない、と言いますが、これは言葉のあやなのでしょうか。どんなワークも探求を強めてるだけで、遠ざかるとも言います。

    自我がしっかりとあり、思い込みの世界で生きてる私には、さらなる混乱が生じてます。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      「個の私が~~する」というのは、おっしゃわれる通りストーリーです。現われては、消えていく、ある意味はかないものです。とはいえ、「ストーリーに過ぎない」という言葉を、だから真実ではない、真実より劣ると取ってしまうと、ちょっと違うかと思います。ワークに関しましては、記事でお返事させて頂きますね。

      いいね

      返信
  9. qtaro

    初めまして。数日前にこちらのブログを知り、
    説明のされかた(読者の勘違いを防ぐための言い回し)に、惚れました。
    非常に理解しやすくて、かゆいところに手が届くとは、こういう事ですね。
    ありがとうございます。

    さて、質問なのですが
    わたし、自分、これ、などと聞いているのに気づいている側が
    こっち側(意識?)だと思うのですが、それに寄り添い・・・となると
    なにか位置の決まらない漠然と広がった透明の「気づき意識」を
    イメージしてしまうのですが、それではないですよね?
    それ(イメージとかも含め)を意識しているこっち側にとどまる、って感じで
    続ければよいのでしょうか?

    質問は以上です。
    日々のご活躍を応援いたしております。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは☆ お褒めの言葉ありがとうございます。で、おぉ、とても良い質問ですね。次の次ぐらいに記事でお返事させてください。(次回の記事今書き終わってしまったので)

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      返信
      1. qtaro

        お返事をいただけて光栄です。
        どこに留まるのかすこし分かった気がします。
        今朝、外境や思いを対象として、気づいて(の状態であろうとして)いたのですが、
        判断と選択決定が自動的に?行われている感じが少しだけありました。
        (性能が良いのか悪いのか、思考が速すぎて細かくは分かりませんが)
        気づいている意識ってこういう事でしょうか。
        (これを書いてる今はドップリ浸かってますが・・・汗)

        いいね

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