今回はご質問にお返事をしたいと思います。
気づいている側がこっち側(意識?)だと思うのですが、それに寄り添い・・・となると、なにか位置の決まらない漠然と広がった透明の「気づき意識」をイメージしてしまうのですが、それではないですよね?それ(イメージとかも含め)を意識しているこっち側にとどまる、って感じで続ければよいのでしょうか?
イメージは思考ですので、そうです、確かにそれではありません。こっち側という言葉がちょっと分からないのですが、たぶんそれだと思います。(笑)
アジャシャンティの話の中によく出てくる、14世紀ドイツの神学者、マイスター・エックハルトの言葉の中で大好きな言葉があります。それは、
「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。」
The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.
最初に聞いたとき、私の中で何かが崩壊し、がん泣きしてしまいました。
すべての人が持っているこの「私」という感覚。これが「神、気づいている意識、純粋意識、それ、真我、etc」なんです。
自我の勘違いは、この私という感覚が、体や思い、感情にくっついていて、個別のものだと思いこんでいることです。
現代科学では、脳が意識を持ち、脳が死んだら意識もなくなるという考えがベースとなっていますよね。つまり、まぁ物質主義です。ただ、じゃぁ、無機質な物質である粒子が、どの段階で意識を持ち始めるのか、という点は仮説があるだけで、まったく研究されていないそうです。(参考:Why materialism is so balony by Bernardo Kastrup)
一方、科学と非二元の国際会議では、量子学者などが、脳が意識を持っているのではなく、実は統一された意識があるのでは?みたいな話がされています。
科学は私の門外漢なので話を戻すと、「私という感覚」が思考や感情、体に属していると錯覚すれば、沸いて来る思いや感情を「私の思い」、「私の感情」と当然思ってしまいますよね。
私しか知らない思い、私しか感じない感覚・・・、だから「私」は個であると。ここからたぶん思考が追いつけなくなると思うのですが、全体と個が決して分けることができず、同時に起きているんです。
でも、「私」は、全体の私と個の私があるわけではなく、全体である私しかないんです。
もちろん、「私」も「私はある」も言葉であって、実際にそういった意識を持っているわけではありません。もっと言えば、私感覚もない、ほんとうに純粋に空の意識、意識ともいえなくて・・・・、言葉は不可能ですね。
ルパート・スパイラもときどき、気づいている意識(awareness)のことを、「I(私)」と言っています。最初聞いたときは、あれっ、「私はいない」んじゃなかったけ?と一瞬混乱しましたが、いわゆる「私はいない」の私は、個人としての私、個としての主体はいないという意味です。
私が8~9歳ぐらいのときだったか、夜布団の中で、目を閉じても暗闇の模様が様々にまだ見えることに不思議さを感じていました。そしてふと、考えている私と、それを知っている私の二人がいる、あっ、でも、知っている私を知っている私がいる、どこまで行くんだろう?
と思ったことがありました。また、病気をして横になっているとき、様々な音や匂いが通り過ぎ、小さな子供でしたが、私はこのすべてが去っていく感覚をずっと太古の昔から知っていると感じたりもしていました。
きっと、多くの人が何かの瞬間にふと“永遠”を知っている感覚になったことがあると思います。
思考を通らないアートなども、ときどき私たちの中の永遠に触れますよね。
この8歳のとき、私が分からなかったことは、考えている私も知っている私も同じ一つの「私(I AM)」だったことです。ただ、考えている私はいなくて、考えだけが現われていただけでした。
思い、感覚、感情は現れては去り、歩く感覚、流れる景色、聞こえてくる音、すべては去っていきます。
たった一つだけいつもあるのが、この「私(I AM)」です。決して、観察することができず、透明で位置づけることもできず、まったく静かで、変化することなく、なんの努力をしなくとも常にあるもの。
この私を個の私だと勘違いして、神(真理)を探し求めていたけれど、私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものだったんです。
☆もうすでにご覧頂いたと思いますが、スピリチュアルTVに出演しました♪
こんにちは
先回のコメントを見ると、思ったことを書かれているので、適当に気楽に書きます。
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「私が神を見ている目と、神が私は見ている目は同じものある。」
The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.
最初に聞いたとき、私の中で何かが崩壊し、がん泣きしてしまいました。
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あゆかさんは地球ひろしさんとのyoutubeのコメントなどから、過去世で修道院で過ごされ、それば不愉快な経験だったと、感じていました。
目覚めが起きると、自分の過去世が見えてくると仏典やアジャシャンティ自身の体験として書かれていますね。 すると、それが目覚めの必要条件と決め付ける人がいるのかも知れませんね。
過去世の出来事を思い出すと全てが解決すると思っている方が多いようですが、それを解くのは今しかないのです。
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とても丁寧なご説明素晴らしいです。
あゆかさんは、とてもお優しい方ですね(^.^)
いつもありがとうございます。
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質問の解答を記事にしていただき、ありがとうございます。感激です。
先日はこっち側と感じましたが、今は、どこなのかがよく分からず、
注目すれば離れる感じがあるので、気づいていることを分かっている状態に
とりあえず慣れてみることにしました。
動画を見て改めて思いましたが、やはり言葉の使われ方がとても丁寧ですね。
ニュアンスを外したら勘違いしそうな所を、繊細に選びながら言語化されているのを見て、
「言葉なんて所詮は概念にすぎない」とひとまとめにしてた自分を反省しました(笑)
いいですね。
こういう思いやり、優しい世界がいいと、素直に思えます。
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あゆかさんのユーチューブの般若心経の講話のビデオで、「気づいている意識」は実感できた
つもりでいました。その後の解説でも、これでいいのだと思っています。ありがとうございま
した。こういう思いやり、やさしい世界がいいとのqtaroさんとまったく同じ感想です。
qtaroさんには、とても親しみを感じます。すぐ判断反応がでてしまうなど・・・。
これは、気づいている意識ではなく、観察できますので、いわゆる意識だと思われます。
これは考えとして、単に浮かんでくるもののようにお話されていますが、どうもある程度
コントロールできる気がしてなりません。カメラのズーム機能のように、自在に焦点
を変えられる気がしますが。前に注意君といってたやつです。一般にはこれの取り扱い
が問題のような気もしますが。ま、自己流瞑想(迷走?)で対応してはいますけど。
いきなり、究極ではなく、この辺のお話もお伺いしたいものです。
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すべての人が持っているこの「私」という感覚。これが「神、気づいている意識、純粋意識、それ、真我、etc」なんです。
自我の勘違いは、この私という感覚が、体や思い、感情にくっついていて、個別のものだと思いこんでいることです。
あゆかさん
とっても とってーーーーーも 解りやすいです
有難う御座います
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初めまして。
スピリチュアルTVでの、あゆかさんによる非二元の解説を、横になってスマホで見ていたら、スマホと僕の間に意識が移動したような感じになり、そこから静かにスマホとスマホを見る僕に気づいているような状態になりました。
そのうち、なんだか少し怖いような、高揚するような感じになり、日常の意識状態に戻した(戻れた?)んですが、これは単なる変性意識状態のようなものでしょうか?
怖いような、高揚するような感じ以外は、特に何の感慨もなかったのですが、非二元の本などを読んでいるときも、時々、このような感じになります。
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サトシさん、こんにちは☆
それが何なのかは、たぶんサトシさんしか分からないのだろうと思いますが、なんとなく気づいている意識にシフトしているように聞こえます。あまりそれが何かを気にせずにいれば、そのうち、きっとご自分で分かる日がくるかと思いますよ♪
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>あゆかさん。
ありがとうございます。
初めての投稿で、挨拶もそこそこに不躾な質問をしてしまいました。
申し訳ありません。
動画を見ながら、あのような感覚になったのは初めてで、さらに、いつもより少し感覚が強かったもので、なんとか言葉にして投稿してしまいました。
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実にわかりやすい解説に感動しました。
特に次の文章は目からウロコが落ちました。
・・「私」は、全体の私と個の私があるわけではなく、全体である私しかないんです。・・
わたしはいない・・という表現も小我から観ればその通りなのですが、むしろ積極的に大我のみがあるんだ・・唯一つの心しかないんだ・・と表現した方が生き生きとしてきますね。
空海であれば、宇宙全体である大日如来しかない・・となるでしょう。そして大日如来しかないとすれば、自分自身も大日如来の分身となり、ここに即身成仏の理論的根拠があるわけですね。
ちなみに途中、「私が神を見ている目と、神が私は見ている目は同じものある」とある箇所は、「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものである」でよろしいでしょうか。
いずれにしろ、この一つの目しかない・・という言葉も心に革命を起こす力がありますね。
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無限さん、コメントをありがとうございます☆
そして、はい、それは誤字です。ご指摘して頂きありがとうございます!!修正しておきました~!。皆様、失礼いたしました。
>いずれにしろ、この一つの目しかない・・という言葉も心に革命を起こす力がありますね。
↑
そうなんです。さらっと読まないで、ほんとうに腑に落ちれば、心の革命(←この言葉良いですね。これから使わせてもらおうかな。笑)が起きると思います。一番感じてもらいたいところを感じてもらえ、大変嬉しく思います☆
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あゆかさん
こんにちは☆
昨夜、何度も何度も目が覚めてしまい、胸にモヤモヤがあって、あまり心地よくない思考がたくさん流れて来て、モヤモヤにずっとここにいてもいいよ〜。と癒したり、見つめてみたり色んなことをしていました。
目が覚める瞬間、胸のあたりに薄黒いものがヒョイと入ってきて、目が覚めるということが起きました。それがモヤモヤのようなのですが、同じことが連続で2回起きがけに起きて、今の何だったんだろう?という思いで。
目が覚める一瞬前に意識があって、薄黒いものが胸に入ってくる瞬間を目撃してて、入った瞬間、目が覚めたというのがはっきりと分かりました。
これはただの体験の一つなのでしょうか?
胸のあたりにズーンと重いものが、来て起きてしまうということは過去にも何度も経験し
ていて、ノンデュアリティを知らない頃はあーまただ。嫌だなぁと思っていました。見えて来たということは浄化がうまく進んでいるということなのでしょうか?
何か分かることございましたら、回答頂けますと幸いです。
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ともさん、こんにちは☆
このご質問の答えは、たぶん誰も分からないかも・・・と思います。反対に、それは~~である、と断言する人にはついていかないほうが(いかないと思いますが)良いような気がします。
ただ、こういった系の質問はよく頂きます。それで目覚めたとか、寝起きに~~というところも共通していますね。睡眠中にエネルギーの状態がオープンになるのでしょうか??? 分かりません。
過去の経験からすると、ご質問する方は、エネルギーにとても敏感な方が多いようです。あまり気にせず、これは非二元というより、セラピーの観点ですが、今自分が苦しく感じること、ひっかかってしまうこと、などを見つめていかれるほうが良いかもしれません。
単にご参考までにしてくださいね。
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あゆかさん、ご回答ありがとうございます。
セラピーの観点なんですね。
確かに不安が大きい時に、こういう状態になっているかもしれません。
寝起きなのではっきりした意識でもなく、半分夢なのかもしれません。
やりたくないけど、やらなきゃという強迫観念を持ってしまっていたからかもしれません。
昨夜のようになるとセラピーが必要かもと思います。
酷い時期もありましたが、だいぶ、良くなってあまりなくなってきたので、セラピーは未経験です。
ご丁寧な回答、ありがとうございます。
少し安心しました。
今年のカウンセラー講座は間に合わなかったので、いつか、あゆかさんのセラピーを受けられるといいです。
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