ストーリーが消えたところにあるもの♪

非二元とは、ストーリーがない人間味のない世界である、という誤解がなくもないようですね。

すべては幻想だし、起きることは起きるだけ・・・傍観、みたいな。

自我はストーリーしか知らないので、ストーリーがないと聞くと、自分が知っているすべてのものがない、人間味やドラマといったものがない、なんだか荒涼とした世界を思い浮かべてしまうようです。

でも、ストーリーがないということは、ある意味、たんにどの思考も信じないということなんです。つまり、思考による推測や判断、レッテル貼り、投影などがないということです。

そうすると、あらゆるものが、生命や自然や出来事のすべてが思考の枠から解放され、ありのままの姿を現してくるんです。

つまり、なにもなくなってしまうどころか、生命の息吹や人間ドラマの神秘さがクローズアップしてくるんです。静かに、でも生き生きと。

例えば私の体も、「私の」という思いから解放され、本質のエネルギーに溶け込み、慈しまれ、受け入れられ、自由となります。

私とあなたも、「私とあなた」という思考から解放され、私とあなたは同じもの、本質そのものであることが見えるんです。

そのとき、分離で縮こまっていたハートは開き始め、すべてを呼吸し始めます。優しくシンプルに。

そして、自分がどんなに嫌いだと思う人でも、思考が消え去れば、その人の目の奥に必ず「私」がいるんです。本質のエネルギーがそこに、美しく、純粋なまま。

般若心経が伝えるように、空(本質)と色(現象、ストーリー)は決して分けられず、観察者(主体)と観察されるもの(客体)も決して分けることができません。

つまり、本質である私(I am that I am)は、静であり、動であり、空であり、ドラマであり、あらゆるすべてです。

私が人生のドラマを体験しているのではなく、私は人生のドラマそのものなんです。私はこのとき、動となり、変化、発展し、生命のあふれかえる発露です。

そして、同時に私はなにものでもなく、何も起きていないことを知っています。このとき私は、静であり、平和であり、大いなる癒しなんです。

非二元の真実をこうなのか、ああなのかと思考で閉じ込めてしまう前に、あまりに当たり前の事実からよく観察してみると良いかもしれません。

当たり前の事実とは、なんの努力も一切していないのに、見ること、聞くこと、考えること、すべてが勝手に起きているということ。

そこにそれらを起こそうとしている誰か(主体)がいるのかどうかということ。

もし、どうしても見つからなかったら、そうやって探している自分は一体なんなのでしょう?

という中途半端さで今日は終わりにしちゃおう。(笑)

☆いくつかお問い合わせを頂いておりますが、12月に「ノンデュアリティと癒しのカフェ」と題したミーティングを開催します。詳細は近日中に記載いたします♪

ストーリーが消えたところにあるもの♪」への43件のフィードバック

  1. ぽこぽこ

    はじめまして。
    昔、溝口さんの本は読んだ事があったのですが、その時はあまりピンと来ず、
    たまたま今年の5月頃に「魂のケア」を見つけて、最初はよく理解できませんでしたが
    その後、ハートサークルの何人かのセラピストさんにEFTやMRを受けつつ
    よく「魂のケア」を読んでいたら突然、すごく理解できるようになってきて、
    何となく最近、「気づきのダンス」も読んでみようと思って読み始めたら
    なんか凄くよくわかるというか、コレが気づきかな、と何となくわかるようになりました。
    ついでに最近、アジャシャンティさんの本も読んでみたら凄く納得で理解できて
    ついでに去年は読んでも全く理解不能だったデビット・バーセリさんの本(TRE)も
    今、再び読んでみたらビックリするほど納得でよくわかるので、
    毎日TREやるようになりました。
    それもこれも発端は、「魂のケア」で溝口さんが口を酸っぱくして
    「受容が大事」と言ってたからかなぁと。
    ネガティブな事や起こる事、自分の内面のどんな感情も直視して行こうという事ですね。

    悟り系は色んなブログがありますが、溝口さんのブログが私には一番分かり易いです。
    それにしても最初は自分の心を何とかしたくて「魂のケア」を読んでたのに、
    まさか「悟り」の方も何となくわかるようになるとはビックリです。
    「人の心理」と「悟り」は全く別だと思っている人は多いと思うので、
    この垣根を繋げる事ってホントに大事だなぁと思います。
    こんな凄いブログを無料公開している溝口さんに感謝です。

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ものすご~く嬉しいコメントをありがとうございます☆

      もちろん、ご自身の自力で理解が突然スピードアップしたに違いありませんが、EFTやMRはその変化が体感できますので、お腹の理解を助けてくれたかも?しれませんね。ぜんぜん間違っているかもしれませんが。個人的には、癒しが進むにつれて、愛ってなんだ?みたいなことも自然に分かってきました。

      こちらこそ、ハートサークルともどもコメントに感謝いたします☆

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      返信
      1. ぽこぽこ

        遅ればせつつ、こちらこそお返事ありがとうございました。
        ちなみにその後も続けてセッションやEFT、MR、TRE、バイロン・ケイティさんのワーク等を続けていた所・・・
        つい昨日、自分が愛を受け取る事を拒否していた事に気づいてショックを受けまして(汗)

        「愛の無い世界で自分は戦って頑張るのだ!」と言っている自我の抵抗を発見・・・。

        こ、これはショックであります。
        今までずっと「愛の無い世界」で頑張ってきたストーリーにドップリ漬かってそれに伴う強い感情を感じて来た自我は、なかなかなかなかそれを手放せないのであります(汗)
        「だって今までこんなに苦しんで来たんだもん!」

        しかしながら、大海の流れは「もう、それを手放そうよ!」と問答無用の「現実」を起こしてきました。
        そしてハートサークルの、とあるセラピストさんは、セッションにて自我の深い所まで突っ込んで下さいました。クライアントに迎合しないというか、境界線を保ちながら相手の重要な部分をつつくといいますか・・・「愛が無い」と言いたい「私」に対して、「でも現実には(現実の行動を見れば)、愛はありますよね?」と!

        がーん・・・。

        ちなみに昨日、数年ぶりにエックハルト・トールさんの「ニューアース」を読んだら、まるで以前読んだ時とは全く違う別の本を読んだような感じでした。
        「こ、こんな事が書いてあったとは!」

        人の心と言いますか、自我の性質を身を持って体験している今日この頃です。
        溝口さんの仰ったとおり、確かに癒しの旅が進んだら、「愛って何だ?」という事が自然に分かってきてしまいました・・・!(^^;;

        いいね: 1人

  2. 匿名

    あゆかさん。初めまして。毎回読んでいます。
    そしていつも丁寧なご説明で参考にさせてもらっています。
    でもまたまたわからなくなってしまいました。

    質問させてください。
    ここで言われるあゆかさんの気ずきの意識とはイコール=全体 (大和田菜穂さんの仰しゃる)
    ということなのでしょうか。

    もう一つはストーリーは自我の思い込みのようなものなので今日のブログ
    であゆかさんの言われる ” 単にどの思考も信じない ” というのはストーリー仕立てには
    当てはまるなと自分を振り返ってそう思うのです。
    ただここで混乱してしまうのが
    思考は個人からではなく(個人はいないから)全体から沸いてくると。。。
    全体から沸いているけど、思考を信じない。。。何故?全体からなのに?
    日常で推測、判断をしないといけない場合は何を信じればいいのでしょうか。

    お忙しいことかと存じます。
    もしお時間がありましたらで結構です。
    今後ともよろしくお願いいたします。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      匿名さん☆

      ありがとうございます♪

      大和田菜穂さんの仰しゃる全体と気づきの意識は、同じ事を指していると思いますよ。気づきの意識は、最近「気づいている意識」と言い換えていますが、英語ではawarenessです。他にaware presenceとか、beingとか、いろいろ言われていますが、言葉はどれも合っていないですね。(笑)

      これは、誤解を生むかなぁと思いつつ書いてしまいましたが、自分が思考を信じないようにするという意味ではなく、どの思考もなんの真実もまったく現していないことが自然に分かってくるんです。

      なので、結果的に信じなくなるというか・・・。同じようなご質問を下にも頂きましたので、記事でお返事させて頂きますね♪

      いいね

      返信
  3. 匿名

    こんにちわ。
    >そして、自分がどんなに嫌いだと思う人でも、思考が消え去れば、その人の目の奥に必ず「私」がいるんです。本質のエネルギーがそこに、美しく、純粋なまま。

    どんなに自分を蔑まれても、罵倒されても、攻撃されても、
    相手の目の奥にわたしが見えるという事は全てがわたしになるわけですよね?
    ジャッジというものが消え失せるという事でしょうか?
    それはある意味とても危険な事であり、時には自分の身を防御しなければならない事もある。
    確かに全てがありのままある状態になるのなら美しい世界かもしれないけど
    左脳の役割である判断力や洞察力やジャッジ、これら無くしてこの世は渡っていけない様に思います。
    もしこの様な考えは全くの勘違いでしたらどうぞご指摘ください。

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      匿名さん☆

      いえいえ、勘違いというより、多くの方が抱くご質問だと思います。

      すべてが私になるというより、初めからすべては私なんです。ただ、このときの「私」は個人の私ではなくて、気づいている意識であって、本質である私を指しています。

      個である私が、判断しないようにしよう、という話を書いているのではないんですね。そうしようとしても無理ですし。これは記事でお返事させてください。長くなりそうなので。

      相手も自分もまったく同じ本質であると知りながら、嫌なものは嫌と言い、間違いにはノーをつきつける、でも、相手は自分だから、分離はそこにないんです。このへんが、嫌だ=分離、好き=つながり、という発想しかない自我には、難しいところかもしれません。

      とりあえず、記事でもお返事させてくださいね♪

      いいね

      返信
  4. まゆみ

    あゆかさん

    こんばんは。

    >もし、どうしても見つからなかったら、そうやって探している自分は一体なんなのでしょう?

    そうは言ってもこの「自分」という感覚だけは無くならないや、と思った瞬間「あー、この「自分」という感覚さえも現象の一部なんだ〜」と目が覚めた思いです。今日は仕事が超忙しく昼休み以外自分がここに居るなんて一度も意識しませんでした。その間は「自分」という感覚が現象として現れて無かったということですか?

    この「自分」という感覚に気付いているものが居る?在るはずなのに全くつかみどころがなく、場所を特定できません。

    本当に何もかも分からなくなってしまいました。

    何か一言アドバイスを頂けますか?

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      まゆみさん☆

      とっても良い感じですね♪

      >この「自分」という感覚に気付いているものが居る?在るはずなのに全くつかみどころがなく、場所を特定できません。

      そうそう、そうです。このつかみどころがなく、場所が特定できない、でも、常にありませんか?変化することなく。「それ」です。

      自分という感覚がなくならなくても良いんです。それが感覚にすぎず、自分じゃないと分かっていれば、だんだんその感覚(エネルギー)に支配されなくなりますよ。

      いいね

      返信
  5. アガピ

    あゆかさん
    記事でお返事してくださるそうでありがとうございます。
    楽しみに待っています。♬
    ハンドルネームを入れるの前回忘れました。
    ぽこぽこさんの次に質問した者です。

    よろしくお願いします。
    (^^)

    いいね: 1人

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  6. まゆみ

    あゆかさん

    ありがとうございます。

    今朝起きて、あゆかさんからのメッセージを余読んで、今まで「わたし」と思っていたこのの個人はただの「感覚」でしかなかったの?と、もう何かもする手が止まって呆然です。

    あゆかさんの著書やyou tubeで、様々な知覚の検証をやって、何かわかった気になっていました。でもそれはこの「自分」が理解して一歩進んだ気になっていた。いつこの「自分」が中心となって何か行動を起こし考え理解していたこの「わたし」は、ただの感覚でしかなかったんですか?

    足元から崩れそうです。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      まゆみさん☆

      ご本人はそんな気持ちじゃないかもしれませんが、とても近づいていますよ。その通りなんです。だから、五蘊皆空(「私」を構成していたものは、すべて空である)と般若心経でも言っていますよね。私は空っぽなんです。そこになにもありません。

      自我にとっては自分と世界の崩壊です。そのとき恐れと悲しみ、喪失感、愛着などが襲ってくるかもしれません。私はそこを何度も通りました。

      >したら世の中感覚(知覚)しかないじゃないですか

      知覚している誰かはいませんので、世の中は「経験」だけです。見ること、感じること、考えること、匂うこと、聞くこと・・・・。それが「色」ですね。

      そして、経験があることを「ただある」と気づいている意識(空)。

      でも、色と空は分けられず、二つではない(非二元)です。

      あっ、この文章を次の記事にするかもしれません。

      いいね

      返信
      1. ひとみ

        是非!この記事を文章にしてください。
        よろしくお願いします。

        ここ最近ちょうど
        なんだか 重い、だるい、苦しいという感覚がありまして・・
        そして これまたちょうど このコメントへの返信と出会わせて頂きまして

        ん?この重い、だるい、苦しいも幻か?と思った途端に
        大爆笑となりました。

        何度も何度も このエネルギーに支配されています ^ ^

        空っぽが 重い、だるい、苦しいを体験している!だけなのに・・

        はぁ〜〜 笑っちゃいます。

        是非!よろしくお願いします。

        いいね: 1人

  7. sa

    最近、あゆかさんのコメントが1番「あ⁉︎」と感じるというか、ひらめくなぁ…と思って拝見しています。

    自分の不在…
    自分という個の感覚がなくなると、個がないから概念がなくなる…
    ということなんですかね?
    概念がなくなるから、あるけどない世界になるってことですかね?

    でも、それを考えて理解しようとしているのが個人で…
    ここにパラドックスが隠れてるんだろうなぁ…と感じるの個の私です(^_^;)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      saさん☆

      概念はなくなりませんよ。ただ、概念(=思考)が何の意味も持たないことがよく見えてくるんです。主体がいなくなる=すべては空だと見える、そうすると、すべてはあるけどないということが現われでてきます♪

      いいね

      返信
    2. sa

      あゆかさん
      先日はお返事ありがとうございました!

      ちょっと自分でも?びっくりしていますが、なんと…私の不在になってしましました(笑)本当に私もあなたもいない 全ては幻想でただ起きているんですね!
      それを誰かに(笑)確認したい衝動もありますが、多分コレです!ここしかない!コレしかない!
      こんなに近くにあったんですね〜∑(゚Д゚)

      いいね: 1人

      返信
      1. sa

        ちなみに11月の阿部さんと大和田さんとのコラボ講演会に参加する予定です(*^^*)
        お会い出来るのを楽しみにしています♡

        いいね: 1人

  8. 南風

    「自我にとっては自分と世界の崩壊です。そのとき恐れと悲しみ、喪失感、愛着などが襲ってくるかもしれません。私はそこを何度も通りました。」

    まさに最近、自我が崩壊し始めていて
    これまで興味を持ってやってきたことや
    目標としてきたことに興味が持てなくなってしまい
    方向性を見失っている状態です。

    この不安定な状態は自我にとっては、
    とても居心地悪く不安です。

    新たにパッションがわいてくるのを待っているのですが
    ここ数ヶ月、特に何も湧いてきません。。。

    このような状態は、どれくらい続くのでしょうか?
    このような状態のときは
    どのように過ごしたらよいものでしょうか?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      南風さん☆

      ほんと自我は不安定さが大嫌いですよね。よく分かります。私も落ち着きたい!とすごく思いましたので。でも、どのぐらい続くのか?どうしたら良いのか?という思考に乗って行かないことをお勧めします。すべては必ず変化しますので、いつか今とは違う状態が訪れてくると思いますよ。生命を信頼できるといいですね♪

      いいね

      返信
      1. 南風

        あゆかさん
        お返事ありがとうございました(*^_^*)

        そうですね、
        生命を信頼して委ねるしかないですよね。。。

        約10年前くらいに、あゆかさんの著書を数冊読んで
        その優しい語り口とハートに響く内容に癒されたのをおぼえています。
        最近、非二元の本を読むようになったら
        またもやあゆかさんに辿り着いて感激してます♪

        「さとりセラピー」にも癒されましたし
        ブログも楽しみに拝読しています。

        これからも、よろしくお願いします(*^_^*)

        いいね: 1人

  9. ゆき

    いつも楽しくブログを拝見しています。
    なんだか訪れるだけで、ハートが開く感じがします。

    ところで、
    恐れ、についてお伺いしたいのですが、

    ハートが開いていくときや、自我を観ていくとき、また、日常の生活でも、恐れを感じることが私は多いのですが、

    気づいている意識にとっては、恐れは、どういうふうに見えていて、どうに経験されているのでしょうか。

    いろいろ観ていくと結局、恐れが、形を変えているなと感じて、

    内省や観察していると、気づいている意識がただ気づいているだけの時と、気づいている意識に、想念がべったり、くっついている時があるのですが、

    ただ気づいているだけの時も、よく観ていくと、けっこう、恐れがくっついているときがあるので、

    恐れ、に対して、どう観ていくのか、が知りたいです。

    とコメントさせていただいて、

    恐れを観察するよりも、目の前のことをただ経験する、ほうが、恐れには光りが当たって溶けるな、とか、

    ハートを開いたほうが、早いかなぁ、とも思いました。

    恐れを感じるときは、誰が誰の恐れを感じているのでしょうか?

    ただ恐れが、動いているだけなんでしょうか?

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆきさん☆

      これは、実際にお会いしてお伺いしないと適切にはお返事できないなぁと感じます。一言に恐れといっても、どんなストーリーがついていて恐れを生み出しているのか?とか、恐れを生み出すビリーフがあるのか?とか、ただ、恐れを見ていけば良いというほど、単純ではないことが多いんです。

      ということで、恐れについているストーリーやビリーフにも着目してみるのはいかがでしょうか?

      そして、恐れもビリーフも持ち主はいませんね。ただ、そうやって頭で納得してしまう前に、きちんと見つめてみるのが私のお勧めです。

      いいね

      返信
  10. まゆみ

    あゆかさん

    ありがとうございます。

    何かが(上半身)すっごく軽い。でも何も変わらない。自分の中も外もすっごく静かで、鈴虫の声や電車の音が大きく生き生き聞こえる。カーテンが風で膨らむのをいつまでも見ていられる感じ。

    全く昨日と同じなのに、何かが決定的に違って、それが何か分からない。

    いろいろアドバイスありがとうございました。ものすごく貴重な言葉ばかりです。

    ありがとうございました。

    いいね: 1人

    返信
  11. ぱわーさーくる

    あゆかさん、いつもブログ拝見させて頂いております。

    「本当にわかりやすい!」

    数ヶ月まえに人生初めての挫折を味わい、(一応セラピスト医療系なので?)多分思考がちがちのタイプで、おそらくこの思考に偏り過ぎた事も挫折に至った原因の一つと考え、「思考から離れたい」という思いは強くある状態です。

    色々な「心」に関連する何かをすがる思いで探しまくっていた中で『非二元』という言葉を知ったばかりです。まだよくわかってなく、特に感覚的にはさっぱり。。

    「理解し難い。。」と思ってしまって、なかなか頭に入ってこない日々。わかりやすいと評判のエックハルトトールの「超シンプルなさとりかた」でさえ、しっくりこないくらい。。

    でもあゆかさんのブログや本や動画は、繰り返しますが、『本当にわかりやすい!』です!

    本当に救われてます。ありがとうございます!
    (ここ最近はらくちんこ道じゅんころさんにも救われてますwww)

    ここに投稿されていらっしゃる方々のコメントを拝見していると、色々実践されてかなり非二元
    の領域に近づいてらっしゃる方が多いのかもしれないので、僕の質問はかなり浅いかもですが、思い切って質問させてください!

    まずは「思考から離れたい」と思い、あゆかさんの著書にある「思いを眺めるエクササイズ」を実践し、そうすると思考が一応止まります。でもまたすぐ出てきて、また実践して止まります。これを数ヶ月やってるのですが、ここから何にもすすみません。
    また、同じく著書にある「眺めてる意識」は、たまーに、これかな?という感覚があるのですが、持続がとっても難しいです。(あゆかさんの「息をすることよりも簡単」で少し府に落ち、息を止めてみると良く感じる事があります。。でも違うのかな?)

    特に人と話をしたり、何かをしたりすると、注意が散漫になる感じで。。。

    また、強い感情が伴うと思考観察でも止まらず、最近は「感情を解放するエクササイズ」も行い、「感覚」に意識を少し向け始めましたが、これもしている時は何となく楽になれるのですが、その時だけです。

    もしかしたら、「思いを眺めるエクササイズ」も「感情を解放するエクササイズ」も徹底してやれてないのかもしれませんね。。

    とりあえず、非二元の領域までいかなくてもいいと思ってます。
    僕にとって人生初めての挫折、はじめての辛すぎるストーリーに囚われて苦しい毎日から、少しでも前に進めたらと。。。

    このままでいいのか、もっともっと徹底して実践したほうがいいのか。
    それとも今はセラピーを受けたほうがいいのでしょうか?

    かなりの長文になってしまいました。。すみません。。

    *ちなみに一度あるセラピストさんにMRを受けましたが、その時は何となく楽になれましたが、やはり持続しません。。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ぱわーさーくるさん☆

      こんにちは! 
      私でしたら、セラピーを受けるかと思います。非二元は、人間の究極の苦しみ、つまり、分離を癒すことはできるかと思いますが、個人の悩みを癒すものではないんですね。人生初の挫折ということで、今、自分の中に対応できる経験値がないでしょうし、今まで運よく降られてこなかった抑圧された思いや感情にも触れているはずです。そうでないと、辛い状態にはなりませんので。なので、そのへんをきちんと見ていくのが良いかなぁと思います。

      そういう意味で、MRを一回やったというだけでは、残念ながらぜんぜん足りないかも・・・という気がいたします。

      ご自分で探せるかとは思いますが、一応、私のブログに登録しているセラピストさんと私が主催しているボランティア団体の登録セラピストのリンクを貼らせていただきますね。セラピーだけではなく、カウンセリングも両方してくれる方が良いかと思います。

      OAD心理セラピスト

      http://heart-circle.com/therapist/

      どちらにお住まいか、分かりませんが、12月のセミナーにご参加頂き、恥ずかしくなければ、皆さんの前になりますが、私が少しカウンセリングをさせていただいても結構です。

      本当になぜ辛いのかがまだ見えていませんので、今の段階での思考や感情の観察では、あまり楽にならないだろうなぁと思います。もちろん、文章だけで判断しておりますので、間違っているかもしれません。

      最終的にはご自分で惹かれる方向で試されてみてくださいね♪

      いいね

      返信
      1. ぱわーさーくる

        あゆかさん

        お返事ありがとうございます!

        やはり今の僕の状態はセラピーを受けたほうが良いのですね。
        非二元の領域に達するにも、まず登らなければならない段階があるのでしょうか。。
        紹介頂いたセラピストの方に相談させて頂きます。

        12月のセミナー、もし参加することができれば是非お願いします!
        あゆかさんに直接カウンセリングして頂けるなんて、そんな貴重な経験を得る機会はめったにないですね!みんなの前だろうがなんだろうが(笑)

        お忙しい中ありがとうございました!

        いいね

  12. Kumi

    あゆかさんこんにちは。
    私はどうしても、あゆかさんのいう
    「物事はただ勝手に起きているだけ」が
    良くわかりませんでした。
    だって、あゆかさんの記事を読もうとパソコンを操作するのは私の意思ですから。

    そこで半年以上、自分を検証してきました。
    そしたら、こないだ突然わかりました。
    「今夜の夕食は鍋焼きうどんにしよう」っていう意思も
    こんなコメントをあゆかさんに残そう、っていう思考も
    勝手に起きてました(笑)
    私だと思っていたものが、一枚はがれた感じです。
    わたしどこにもいないじゃん(笑)
    いないけど、全部がわたしだった(≧▽≦)
    なんかすっごく肩の荷が下りて、お気楽になりました。

    思考に巻き込まれてあたふたもしますが
    ふと我に返る瞬間を楽しんでいます。

    あゆかさんが、くりかえし、言葉を変えて
    非二元をつたえてくれるおかげさまです。
    本当にありがとうございます(*^_^*)

    この状態もまた変化してゆくのでしょうが
    愉しみたいと思います。

    いいね: 1人

    返信
  13. まゆみ

    あゆかさん

    今回はまゆみからのコメントが多過ぎて嫌になっているかもしれませんが、こんなこと誰にも言えないから言わせて下さい!

    素晴らしい!すごく素晴らしい!素晴らしすぎる!

    これは眼に映る全てが素晴らしいとかそういうことじゃなくて、その眼に映ってるもののもっと手前というか、下というか、「素晴らしい」の中を電車の音が走っていく感じ。

    一方で、エゴというか「自分」というか個人が最後まで離さないアイデンティティーを見つけました。

    “(会社の)山田、頭にくる”という思考が浮上。なんてことはない、すぐに消えていった。でも言葉にしなくても、◯◯◯銀行に勤める、翻訳の仕事をしている、山田が嫌いな「わたし」というのは、キャッチされることなくずっとそこにあって、でも思考も記憶も誰のものでもないということが本当に腑に落ちたとき、私は◯◯◯会社に勤めてないし、そもそも◯◯◯会社も山田もいないし、私はどこにも行ってないし、何もしてない。何者でもなくなっちゃった。えっ?毎日、◯◯◯会社に行ってたよね。もちろんこれも思考だって分かってる。すぐに消えていくことも知っている。でも、今日もこれから行くよ。これも思考だって分かってる。

    私が私であるために、ものすごい勢いであがきが起こってる。どんな隙間にも入り込んで絶対生き残ろうとしている。

    いま、会社に向かっています。素晴らしい!こうとしか思えないんだから、やっぱり素晴らしいんですね。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      わぁ、上手な表現ですね!そうそうそんな感じです☆ 私の生き残りもすごいですよね。どんな角にも隠れているというか(笑)。でも、だんだんそのエネルギーも落ちていくと思いますよ。

      いいね

      返信
  14. よしの

    素晴らしい!

    場違いな発言として受け取られたら謝ります。脳にしがみついている「わたし」が捏造する前の「自分」を生きてますね。この自分は「全て」もしくは「全ての中の自分」であると見ています。

    自分はあるが分離はない
    分離は味わうが完成されている

    全ての体験が
    「完成」からしか始まらない感じ

    おめでとうございます!

    いいね

    返信
  15. さ〜や

    あゆかさん
    はじめましてり
    スピリチュアルTVの非二次元とセラピーのお話はとてもわかりやすかったです。ありがとうございます☆

    今日は質問があります。

    よく、空のエネルギーとか、意識はエネルギーだと言いますね?
    わたし的には感情がエネルギーなのはわかる気がします。でも、思考もエネルギーなのですか?
    そうすると、意識も思考も感情もエネルギーということになりますよね?その区別は?どう違うのでしょうか?

    そもそも、エネルギーって何ですか?

    ここ数日、こんな根本的すぎる問いを巡らせています。

    いいね: 1人

    返信
  16. あみ

    あゆかさんはじめまして。
    去年あゆかさんのことを動画で知ってから密かにこちらも読ませていただいてました。
    いろいろセミナーにもいってノンデュアリティーの話に耳を傾けていましたが、頭で考えようとしてしまうあまり、全然わからなくて。
    もどかしくてもどかしくて、最近は探求に疲れてもうどうでもいいかな、と諦めモードです。
    こんな自分もそのまま放っておけばよいでしょうか。

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  17. さわこ

    あゆかさん、はじめまして。

    私は今年になって無我体験を二度しました。
    その前に5年ほど探求があり、ようやくこれで解放されると思ったのに、二度とも、再び体の重い感覚、胸の痛み、思考や感情が戻ってきて、「また体に閉じ込められた!」といった感じで、以前よりもっと自我がうるさくなり、毎日苦しくて苦しくて、非常に混乱していました。

    映画「マトリックス」で、プラグが抜けた主人公がエージェントから敵扱い?になって執拗に追い回されるシーンがありますが、まさにあんな感じでした。

    「一瞥したのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。おかしい」と悩んだり、もう一度あの体験をすれば次の段階にいけるのかも…などと、自分を毎日、自分を指差したりしていました。(私は一度目はダグラス・ハーディングの指さし実験で一瞥が起こりました)

    数日前に、YouTubeの関連動画から、あゆかさんとじゅんころさんの動画を偶然見る機会があり、それについてのお話をされていて、まさにここ数カ月の自分がどういう状態にあるのか分かって、とてもとても救われました。
    動画の他のお話や、こちらのブログの記事で、色々と自分の中に謝った解釈があったのも分かりました。

    まだ「いつ解放されるんだー!」などという思考や恐怖が、頻繁にこみあげてくるのですが、「これも今起きていること」として距離を置いて付き合っていこうと思います。
    すごくつらい感じもあるのですが、でも、全然影響を受けていない自分というか意識が、常にずっと、ちゃんとある(これまでもずっとあった)んですよね。。
    距離を置くのも苦しいときは、あゆかさんとじゅんころさんの動画を見ると、とても落ち着きます。
    本当にありがとうございます。
    これからも、ご活動を楽しみにしております。

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    1. さわこ

      何度もすみません。
      今、過去の記事のコメントを読んでいて気づいたのですが、
      私は、過去記事のコメント欄で、こちらのブログを批判?されていた方とは別人です。
      念のため。。
      今回がはじめての書きこみでした。
      同じ名前だったので、ちょっと焦りました;

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  18. タマキ

    こんにちは。
    いつも楽しく読ませてもらってます。

    昨日、じゅんころさんとの録画を見ました。
    それでいくつか質問があります。

    このことについての描写の中で、私たちは赤ちゃんの頃は知っていたのに、成長するにつれその感覚を忘れ、自我と同一化して本当の自分(気づきの意識)を忘れてしまい、解放などが起こったのち、その同一化してた自分が居なかったみたいのがありますよね。

    そこでなんですが、それって私たちがそういう風なことが現象として起きてるとどこかで知ってるから起こっているかもしれないという可能性はないと言い切れますか?

    赤ちゃんが周りの環境によって、自分に一番近くに表れてる体や思考に同一化していって自我が生まれるのと、同一化をしていたものがなくなって自分と思っていたものがなくなるのはイコールではないですか?

    どんどん変化をしていくってことは、今言われてるノンデュアリティのメッセージも他のものもいつかは変化する可能性ありますか?

    メッセージを発信してる人達が確信を持って発信してるのは、どうしてそんなに確信があるのでしょうか?それは私が女だと確信してるのと変わらない確信度ですか?

    すみません、質問がとっちらかってるかもしれません。

    あと、溝口さんは思いに寄り添うということを言われますが、いわゆる私がいないと言ってる人たちもそれができるのですか?たとえそれができたとしても、それができるというより、それが起こるほうが表現として正しいですか?アジャシャンティさんもシャドウの話をされてますよね。でも、それはそういうことが起きないと、できないのに、矛盾してませんか?彼の話を読んでると、あたかも行為者がいるように感じられます。

    自分の思いを正直にみるときの見るは誰がおこなうのですか?
    自我が自我をみるのですか?

    ごめんなさい。自分に抵抗しないで質問しまくってます。
    大変迷惑だと分かってるのに、本当にすみません。

    探究本当にすごく楽しいです。

    本当にいつもシェアありがとうございます。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      タマキさん☆

      あはは、抵抗しないでのご質問ありがとうございます。しかし、コメント欄がだんだん、質問箱化してきました(笑)。ご質問は、次回の記事にはなりませんが、記事でお返事させてください。たぶん、ぜんぶを一つの記事では無理だとは思いますが・・・。

      で、もし宜しければ下記の文章が意味がよく分からないので、もう少しお教え頂けますか?

      >それって私たちがそういう風なことが現象として起きてるとどこかで知ってるから起こっているかもしれないという可能性はないと言い切れますか?

      同化するとどこかで知っているから、同化が起こっているかもしれないという意味でしょうか?

      あと、小さな訂正ですが、
      >溝口さんは思いに寄り添うということを言われますが

      思いは寄り添うというより、眺めると良いよ~と言っています。

      そして、

      >自分の思いを正直にみるときの見るは誰がおこなうのですか?
      自我が自我をみるのですか?

      これは、私から答えを導き出すより、実際に自分で見つめてみた方が良いかと思います。自分で見つめずに、誰かに聞いてしまっては、頭の理解にしかなりませんよね。

      思い、感情、体=自我ですから、思いが思いを見れるか?じっくり観察してみてください。そもそもなぜ思いを眺められるのでしょうか?なにが眺めているのでしょう?自我(自分)が自我(自分)を見ることは可能でしょうか?実際に徹底的にやってみてくださいね。一切、思考をはさまず。

      やってみて難しいようでしたら、またご質問くださいませ♪

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      1. タマキ

        答えていただいて本当にありがとうございます。
        感謝が沸き上がってます。

        >それって私たちがそういう風なことが現象として起きてるとどこかで知ってるから起こっているかもしれないという可能性はないと言い切れますか?

        ↑ですが、私たちと書き間違えました。解放が起こったといわれる人達が、そういう解放という現象がどこかで起きてると知ったからそういう事がその人たちに起こったという可能性はありますか?赤ちゃんが身体と思考に同化したように、解放が起きた人も、なんにもないけどあらゆるものに同化したみたいな事を言いたいのですが。同化してるものが他の多くの人とは違うだけみたいな。

        う~ん。アホな質問ですよね。すみません。

        自分でもこれは頭で理解できるようなことではないと分かっています。
        それなのに溝口さん真剣に受け答えてくれるので、本当にありがたく思ってます。
        溝口さんにはその感謝の思いが伝わればいいなとすごく思っています。

        このことに関して色んな思考が沸いてきて、色んな人が言ったことの揚げ足取り的な思考や、矛盾を理解できない事にモヤモヤすることがあるのですが、そんな時にバイロン・ケイティのその思考がなければどうありますか?にとても助けられます。

        思考をはさまず徹底的に観察してみます!

        ありがとうございました。

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      2. タマキ

        何度もすみません。

        さきほどの質問ですが、質問に対する直接的な答えを得たわけではないのですが、違う角度での答えを得て、なんとなく解決しましたのでご報告させてもらいます。(すみません。勝手な報告です。。)
         
        ”私はいない”と徹底的に発信してるメッセンジャー達は空に同化していて、それ以外の体と思考を私と思っている人達は色だけに同化していて、でもこの世は

        空即是色 色即是空 でしたね。

        そして溝口さんはこれを主にメッセージとして説いてましたね。
        (先に空を見たほうがよいと)

        どちらも大事。

        何に同化しようともみんな同じなんですよね。どっちか一方に(空or色)疑うことができず同化してるのも間違ってるわけではなく、ただそのように現れてるいるだけなんですね。

        私の思考がそう解釈したから違うかも。。。

        読んでいただいてありがとうございます。

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  19. かよこ

    あゆかさん

    こんにちは⭐️
    私はまだ、一瞥体験などはないのですが、
    あゆかさんの記事の中によく出てくる、
    色即是空、空即是色の言葉を見るときに、
    何かハッと感じるものがあります。
    空と色は分かれていない、全てはひとつ、
    愛。。。何だか、分かれていないということに、
    愛を感じます。何も否定されるべきものがなく、
    受け入れられているような。

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  20. ゆき

    あゆかさん こんにちは!

    恐れをどう観ていくのか、の質問について、お日にちが経ってしまいましたが、

    お返事を、ありがとうございます!

    今日の、フィードバックをさせてください♪

    今月、
    恐れについて、どう観ていくか?恐れについている信念やストーリーも、恐れと一緒に観ていって、ずっと試してみたのですが、

    ハートが開いていくときに感じる恐れは、そのまま、ハートで受けいれるのが、いいですね!

    安全だし、余分なエネルギーがいらないし、今から離れることがない。

    ハートも開いて、波動も上がって、一石二鳥~♪

    二鳥どころか、これで得るものは何もなかったのですけれども。。シンプルすぎて。

    ただ、そうしたら、
    恐れや、恐れについている物語や信念、それに、自我やアイデンティティーや、ぐちゃぐちゃした思考や不満足、空虚感が、ものすごく、たくさん、

    一瞬で消えていきました♪

    今、感じている恐れも、感じていない恐れも、恐れの投影も、ハートの愛で包んでみて、ハートで聞いて、ハートで観てみるのが、すごく楽でした。

    ハートの愛で包む、というより、感覚的には、
    恐れとともに、ただ在る、ハートから。という感じに近かったです。

    ハートの愛には、意図も行為も、視点もないから。

    まるで、お風呂に入ったときの、水みたいです。

    お風呂が、あったかいんだから~♪という意味ではなくて、

    水は、どんなものに対しても、包もうとしなくても、ただ在るだけで、努力なく、包んでしまう。

    包もうとしなくても、ただ在るだけで、そう。という意味で。

    それに、お風呂の水を観察してみたら、からだも感情も、同じ、水で、できているな、ということに気づきました。

    これと同じで、恐れ自体そのものは、「恐れ」でもなく、ましてや闇や影でもなく、

    恐れこそが、無条件の愛を生む表現で、無条件の愛が、いつも、そばにいるような、

    そんな気がしました。

    気づいている意識は、恐れの感情を、ある視点から観ているわけではないのですね!

    ただ在って、気づいていて、ともに在る。

    気づいている意識は、いつも、どこにいても、ともに在るのだから、

    だから、恐れを基にした世界も案外、居心地悪くないな~、今の世界を受け入れよう

    ありがとうございます!

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  21. ゆき

    先程、途中でコメントを送ってしまいました。。

    だから、恐れを基にした世界も案外、居心地悪くないな~、今の世界を受け入れよう、その信念も含めて、そのまま、ハートで。

    と思いました。

    ほんとうに、ありがとうございます!

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