思考の実体のなさ

今回は、頂いたご質問にお返事いたします♪ ご質問ありがとうございます!

思考は個人からではなく(個人はいないから)全体から沸いてくると。。。 全体から沸いているけど、思考を信じない。。。何故?全体からなのに? 日常で推測、判断をしないといけない場合は何を信じればいいのでしょうか。

私の前回の記事の書き方→「ある意味、たんにどの思考も信じないということなんです。」が誤解を招いたかなと思いますが、思考を信じないようにしましょう~と提案しているのではないんです。

また、判断はしなければいけないのではなく、判断は勝手に起きてしまうものですね。(←自己の不在) 判断しないようにしようとしても出てきてしまいませんか? また、思いは信じられてしまうことで唯一パワーを持ちます。 

で、信じてしまう理由は、思いが何か重要なことを言っている、正確なことを言っている、真実を語っていると思っているからです。

全体からなのに?という意味がいまいち分かりませんので、ごめんなさい、とりあえずスルーさせて頂きます。(全体=高次元みたいな捉え方をしているとか?)

で、ここでの本当のポイントは、「思考は何一つ真実を言い現していない」です。ムージーが「99%の思考はゴミだ、そして残りの1%もゴミ」と言っていますね。ゴミとまで言わないまでも、真実を語っている思考などというものはないし、また思考に真実は分からないんです。

ただ、これを実際に理解することは、私にとっては非常に難しいことでした。たとえば、病気で苦しんでいる家族というのは、私にとって明らかに事実であって、「家族は病気だ」という思いが、真実を言っていないという意味がなかなか理解できませんでした。

思考は、「家族が病気だ」という思いが真実でないのなら、家族は病気じゃないの?という発想に陥ってしまいがちだからです。

また、バイロン・ケイティが株で一億ドル損失したという人に、“それは本当?”と聞いていたのにもびっくりしてしまいました。それほど分かりやすい事実はないじゃないか!と思ったのです。それを言っている思考に真実がないって、どういうこと???

しかし、なぜ分からなかったのかというと、理由はある意味単純で、それはやっぱり思考から抜けいれていなかったからなんです。あぁ、ただそれだけのこと・・・・。自我とはある意味、イコール思考活動とも言えます。ので、自我が活発に動いている限り、つまり、思考と同化している個の私がいる限り、どうしても世の中をすべて思考のフィルターを通してでしか見られません。

つまり、思考を頼りに世界を把握しているのですから、当然思考の実体のなさなど見抜けるはずがないんです。

でも、自己の不在を通して、思考がただ沸いてきては消えていくものだとはっきり見えてくれば、その思考の意味のなさも見えてくるでしょう。そして、解釈したり、レッテルを貼ったり、定義したりしてきた世界は、その力を失い、「あらゆることがただ起きている」ことが浮き彫りになっていきます。

淡々と一つの出来事、そして次の出来事と起きているんです。

また、このように淡々と・・・と書くと、まるでただ傍観しているだけかのようなイメージを持つ方も多いでしょう。

もちろん、そこには様々な思いや感情が沸いてきます。「あらゆること」のうちには思いや感情など現れるものはすべて含まれます。

例えば、悲しいという感情、そこに付随してくる思い、それらも同化されることもなく、でも慣れ親しんだものとして、そこにあることが完全に許されているんです。すべてが、現象のダンスの一部なんですね。(分離していない一部)

そして、真の「わたし」(I AM、純粋意識、気づいている意識、etc)は、これらの観察者でもあるけど、同時に観察されるものでもあります。(=非二元)

つまり、これらの浮かんでくる思い、感情、ストーリーもすべて「わたし」なんです。(と、同時にそのどれでもない)

これを頭で考え始めると、いくらでも疑問、質問は生まれてくるかもしれません。でも、それはおそらく徒労に終わってしまうでしょう。

なので、頭で理解しようとするより、まずは「真の私は何か?」を見ていくほうが早道だと思うのです。それがしっかり体験的に深く理解されていくほど、現れては去っていくものが、いかに実体がなく、空っぽであるかが自然と見えてくるはずです。

ということで、まず変化するものはすべて自分ではないという観察をしてみたらいかがでしょうか? 自分の経験の中で唯一変化せず、ずっとあり続けているものに着目するだけです。

正確に言えば、着目するという言葉もあっていませんが、妥協させてください。私たちは、ずっと見過ごし続けていますので。というのも、ある意味唯一観察できないものだからです。とはいえ、疑いようがなくあるものですね♪

さて、いつの間にか私のブログが質問箱のようになってきました。(笑)

ので、次々に記事でお返事していきます!

 

★★★ お知らせ ★★★

記事で告知をする前に東京と大阪のミーティングは満席となりました。ありがとうございます!!

ブログの記事での告知があるだろうと思っていた皆さん、ごめんなさい。<(_ _)> 私もそんなに早く満席になるとは思っていませんでした。東京のミーティングの部屋を変更いたしましたので、10月12日までのキャンセル待ちの皆様、ほぼご参加頂けます。対応に2,3日かかってしまい、ご迷惑をおかけいたしますが、少々お待ちくださいませ。

名古屋は近日中に募集を始めます♪

お申し込みの皆様、直接にお会いしてやりとりできますことを楽しみにしております♪

 

 

 

 

 

思考の実体のなさ」への19件のフィードバック

  1. ひとみ

    こんばんは。 いつも、いつも、ありがとうございます。

    どうしようかなぁ と思ったのですが
    どうしても書かせて頂きたくなりました。

    癒しについて 大嶋信頼さんの遺伝子をOFFにするお話が
    「わたし」には、大変助けになりました。
    たしかに遺伝子をOFFにする言葉を言っていると
    スーーっと 思考や感情や気分が 波が去っていくかのように
    鎮まり
    なにもない けど 満たされている
    本来の自分にかえれます。
    もちろん 思考 気分 感情 は 浮かんできますが
    落ち着いて余裕で見ていられるように
    「わたし」は なっているように感じます。
    いつか 大嶋先生と、あゆかさんがコラボされる機会があったら嬉しいな〜と
    勝手に 嬉しがっています。

    まったく記事に関係のない話で 申し訳ありません。

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  2. 匿名

    確かに思考は観察すると泡の様に次から次へと湧いては消え、決して掴んではいられません。
    それは五感も含まれるものですか?例えばフィーリング的な感覚。
    風に吹かれて、ただ、あ〜気持ちい〜と感じたり、夕陽を見て意味もなく涙が出たり、
    それさえも思考から来るもので、気づいている意識側ではないのでしょうか?
    気づいている意識とは、思考が湧いてくる前の事を指しているのでしょうか?
    それともその思考さえも、気づいている意識なのでしょうか?
    また、全てはひとつの意味とは、机も人もパソコンもただの素粒子の集まり、
    という量子物理学の話しをしているのでしょうか?
    分からない内はどうしても頭で追いかけようとしてしまいます。
    すいません。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは!

      ご質問をありがとうございます☆

      >それは五感も含まれるものですか?例えばフィーリング的な感覚。
      風に吹かれて、ただ、あ〜気持ちい〜と感じたり、夕陽を見て意味もなく涙が出たり、
      それさえも思考から来るもので、気づいている意識側ではないのでしょうか?

      これは、ご自分で観察すると分かるはずですよ~♪ 思考から感情が生まれてくる?? 思考や感情が湧いてきたことがなぜ分かるのでしょうか? それは、それ以前に純粋意識があるからですよね。あらゆるすべての前にあり、いつもあり、同時にそれらそのものでもある、です。

      すべてが一つとは、主体と客体の二つ、観察者と観察されるものという二つがあるわけではない、という意味です。そうすると、すべては一切分離のない世界となりますね♪

      最後のほうに書いた提案(まず変化するものはすべて自分ではないという観察)をちょっと試してみてはいかがでしょうか?

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  3. Kumi

    この前、あ~思考は本当に私のものじゃなかった!と思う体験がありました。
    娘が朝、学校に行く準備をしていました。
    私は朝食の食器を片づけをしていたのですが、本当に突然不意に
    「そういえば、今日は部活が無いからコンタクトは付けていかなくていいんじゃない?」
    と口をついていました。
    その、思考も、声をかける行動も、気が付いたらそうしていたように、私が「考えて行動している」感がなく、オートマティックな感じでした。
    ああ、私が「考えて」「行動を決めている」んじゃないんだな、と感じた一件でした。

    思考や感情と自分が一体化してしまうコトはまだあるのですが、おかげさまで「あ、また一体化してたな」と気付くコトが増えました。
    思考と一体化していようがいまいが、気づきに気付いていようがいまいが、この「今」は勝手に展開してゆくのだと腑に落ちてきました。まだ100%ではないですが。
    なので、なるべく思考や今に展開されるものごとを見守るスタンスを楽しんでいます。
    私にあらわれる思考、感情、行動を、気づきと同じ視点から軽い感じで見守るという感じでしょうか。
    そうすると、私の思考が自然と顕れて、そこに私の行動が生まれて、私のことなのに本当に「勝手に展開してゆく」のが感じられます。
    絶対避けたいと思う嫌なことも、それほど「大変」ではなく過ぎていきます。
    肩の荷が下りたような、軽くてとっても楽な感じです。
    気づきの視点から、「今」を探求することが、マイブームになっています(笑)

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  4. ゆき

    こんにちは!

    地下鉄でこの記事を見かけたのですが、地下鉄の中でも、記事、すごく分かりやすいです。

    どうもありがとうございます!

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  5. ゆき

    こんにちは!たびたび、スミマセン。

    どこが分かりやすいかというと、いろいろあるんですが、

    とくに、

    「また、判断はしなければいけないのではなく、判断は勝手に起きてしまうものですね。(←自己の不在) 判断しないようにしようとしても出てきてしまいませんか? また、思いは信じられてしまうことで唯一パワーを持ちます」

    今日、判断が勝手に起きてしまう、ということに気づいて、とっても気分がいいです。

    判断が勝手に起きてしまう、ことに気づくと、判断や誤解、思考の中にいても、慈悲深い空間ができますね!

    それに、思考には、思考のはたらきがあることが分かって、連休中も休まず、働いてもらい、ありがとう!って気になります。

    ほんとうに、ありがとうございます。

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  6. 匿名

    ご返答ありがとうございます。
    唯一変わらずにあり続けるものとは「私がいる」です。
    もしかするとこれは肉体が滅びてもずっとあり続けるものなんですか?
    また、この「私がある」という感覚はもしかして他の人の中にも当然あるであろうものと全く同じだったりするのですか?
    何と言えばいいのか、例えば娘にも当然「私は」というものがあるはずですが、
    その「わたし」と私自身が感じている「わたし」はまさか同一人物?
    同一人物という表現もちょっとピンと来ませんが、、、
    それともそれぞれ個性のある私という感覚があるのでしょうか?
    すいません、うまく説明できなくて。言葉にすると難しいですね。
    何となく理解して頂ければ幸いです。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは☆

      >唯一変わらずにあり続けるものとは「私がいる」です。
      もしかするとこれは肉体が滅びてもずっとあり続けるものなんですか?

      そうですね。この「わたしがいる」が、英語では「I AM that I AM」で表現されている、大いなる私です。それが以前の記事に書きました、

      「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。」
      The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.

      なんです。良かったらお読みになってくださいね。

      わたしは、わたしを探している?

      >何と言えばいいのか、例えば娘にも当然「私は」というものがあるはずですが、
      その「わたし」と私自身が感じている「わたし」はまさか同一人物?

      で、今度は、「私はある」を大海に、自分や娘さんを「波」に例えたら、 自分も娘さんも大海だということです。波はいろいろな個性を見せますが、大海は大海のままですね。

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  7. サトシ

    あゆかさん、こんにちは。

    僕は哲学書などもよく読むのですが、思考に実体がないということは、哲学的思索で自我や現実の幻想性を論理的に追求しても、それは結局、頭の理解で終わるのが限界なんでしょうか?
    僕は、哲学的思索で悟りに至れる?可能性があるのではないかと考えていますが、いかがでしょう。
    ちなみに、ここで言っている哲学書は主に西洋哲学です。
    つまり、理詰めで悟りに至れるのならば、非二元の教えで困惑している人も、悟りを理解する可能性があるのではないかと考えています。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      サトシさん、こんにちは☆

      毎度のことですが、私の言葉は鵜呑みにしないでくださいね。と、断っておいてから・・・・、理論的な追及で悟りに至るか?ですが、「絶対に」無理かなと。真実に近づけば近づくほど、理性はまったく黙るしかないでしょう。空と色が二つではない、という瞬間から、もう思考はついていけないですよね。そして、思考は現れては消えていくものですから、思考が現れる前にある、常なるもの(空)を知りません。現象(色)を把握する(しかも、それが正しいわけでもない)のが精いっぱいでしょう。また、最終的に「ぜんぶ分かった!」という誰かがまた存在しないですね。

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  8. サトシ

    ありがとうございます。

    やはり…それが道理でしょうねf^_^;)
    理詰めでギリギリまで煮詰めると、ポンっとジャンプが起きるような気もしてたんですが、そんか計算通りにはいきませんね。

    ありがとうございました。

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  9. 南国

    あゆかさんの記事毎回ためになります(^-^)
    ちょっと今回の記事と関係ない質問になりますが
    あゆかさんのご意見を伺いたいので書かせてください。

    以前、とある非二元スピーカーの方が
    「人を助けたいという思いは、
    自分の苦しみをなんとかしたいという投影にすぎない」
    というようなことを話していました。
    「自分のストーリーを世界に投影しているだけ」
    というようなお話しだったと思います。

    「そう言われてしまうと、ヒーラーやカウンセラーなど
    人の苦しみを軽くしたいと活動されている方達はどうなるのかな?」
    とモヤモヤしてしまいました。

    しかし最近読んだアジャシャンティの本で
    次のような文章を読みました。

    「真に悟った存在はしばしば、自分の人生を他人の幸福のために
    完全に捧げている人たちです。
    (中略)
    理由は、彼らが絶対的見方に執着していないからではないか、
    リアリティそれ自体に内在する慈悲を認識しているのです」
                  (『あなたの世界の終わり』より)

    これを読んで
    なんだかホッとさせられました(笑)

    あゆかさんのご意見を伺えたら嬉しいです(^-^)

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    1. ayukablog 投稿作成者

      南国さん、こんにちは☆

      そういった意見をたまに見かけますね。ある程度はその通りだけど、いつも必ずとは言えないと思いますよ。東北でのメンタルケアのボランティア活動をしていても、自分のトラウマを本当は癒したくて、ボランティアをしている人なども見かけます。

      宣伝になってしまいますが、なので私とイギリスのカレッジが主催しているカウンセラー養成講座は、「自分を癒してはじめて、他者を癒せる」がモットーなんです。

      もちろん、まるまるすべて癒し切るという意味ではなく、少なくとも自分の未処理な心の傷に気が付いていることがとても大切です。気がついていないと相手に投影してしまうからです。

      でも、自分の内面と対峙し、癒され、見えていなかった自分の中の愛を経験していくうちにつれ、人を助けたいという思いは、愛を分かち合いたい、愛を思い出して欲しい、単純に楽しい、嬉しいというものに変わっていくと思います。

      たとえば、震災以来、一切海を見ることができなくなった消防士さんなど、私(たち)は、震災のショックとトラウマによってできた心の緊張をぜひ解放したいとただ単純に思ったりします。また、世の中にセラピストもヒーラーもそれぞれに役割があると私は思っています。

      とはいえ、押しかけてやりたいとも思いませんので、今年も東北へ行きますが、ご本人がセラピーを受けたくなければ、それはそれで良いんです♪

      本業の話なのでつい長くなりましたが、私もそのアジャシャンティの言葉に大賛成です。(*^_^*)

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      返信
      1. 南風

        あゆかさん
        ありがとうございました(^-^)

        あゆかさんの仰る通り、自分のトラウマの投影から人助けをする人も
        たしかにいますね。

        >>私とイギリスのカレッジが主催しているカウンセラー養成講座は、「自分を癒してはじめて、他者を癒せる」がモットーなんです。

        すばらしいですね♪

        >>自分の内面と対峙し、癒され、見えていなかった自分の中の愛を経験していくうちにつれ、人を助けたいという思いは、愛を分かち合いたい、愛を思い出して欲しい、単純に楽しい、嬉しいというものに変わっていくと思います。

        そうですよね!
        それを私も漠然と感じていたのですが
        その非二元スピーカーの方の話しを聞いたときは
        自分のなかで言葉にできずモヤモヤしてしまいました。

        あゆかさんの仰るように
        投影や補償行為からではなく、
        「愛をわかちあいたいから、嬉しいから、楽しいから」
        そういう思いから活動されている方も多勢いますよね♪

        あゆかさん、ありがとうございました!
        スッキリしました(笑)

        P.S.
        ハンドルネームを間違えて「南国」にしてしまいましたが
        ホントは「南風」です(笑)

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  10. アガピ

    あゆかさん 質問を今回の記事でお返事して頂きありがとうございました!

    ここ暫く観察していて思考は確かに当てにならないということがよくわかります。
    現れては去りの繰り返しで、その瞬間には重要そうに思えても受け流して見ていると
    5分前に考えていた事をよく思い出せないくらいだったり、
    勝手にやって来てはそのうち消えて行きます。
    前は湧いてくるある特定の思考に引っかかって引きずって、その思考にパワーを持たせてたと
    思います。傷つくような事を言ったり言われたりの人間関係のストーリーの最中では特に。

    ただあゆかさんの書かれていた「家族が病気だ」についてですが、これも思考で
    そう認識することですが、目の前の事実だったとしたら
    「これは真実ではない」というのが未だよくわかりません。^_^
    そこ付いてくる苦しみがあるとしたら、苦しみは思考の中というのはわかります。
    「病気だ」についてはあゆかさんの通った、え!?これ以上の真実はないじゃないの、
    という位置にいます。
    しばらく前に冷蔵庫が故障して買い換えましたが、
    真っ先に思ったのは「冷蔵庫が壊れた あ~あ 困る」でした。
    これは事実、リアリティではないのでしょうか。「あーあ困る」というのは
    思考、自我ですが、「壊れた」という出来事は思考活動で把握しているにせよ、
    結果信じざるおえない事実なんですが、どうなんでしょうか。
    事実=真実ではない ということかなとまた考えを巡らせております。(笑)
    ただ起きていることに、「壊れた」と解釈しているに過ぎない。。となるのでしょうか。

    思考を信じない。。全体からなのに?と質問したのは
    思考は真実でなく実体のない煙のようなものだけど
    それさえも,気付いている意識(または全体)からというかその一部であるなら、
    その瞬間における
    完璧ではないのかな?と思ったからです。勘違いかもしれませんが、
    たとえ真実ではなくても、その思いは
    認める,問題はないのでは、という意味で聞きました。
    「信じる」ということとはまた別ですね。私の聞き方が意味を成してなかったと思います。

    お忙しいしい中、ご誠意いっぱいのお返事を本当にありがとうございました☆

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  11. 秀峰

    あゆかさん はじめまして

    少し前になりますが、スピTVでの、じゅんころさんとのセッション、最高でした。
    今度のイベントには参加できず、残念です。

    さて、思考についてですが、何かの本で読んだのだと思いますが、同じ思考でも、
    「単なる事実認識」と「考えごと(憶測・後悔など)」は、別物で、前者は日常生活を
    送る上で不可欠だし、人畜無害・無色透明だと思いました。

    何か的外れなことを書いているとしたら、お許しください。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      秀峰 さん、こんにちは☆

      >同じ思考でも、「単なる事実認識」と「考えごと(憶測・後悔など)」は、別物で、前者は日常生活を
      送る上で不可欠だし、人畜無害・無色透明だと思いました。

      いえいえ、とても良い点をついていると思います。実はこれはカウンセリングのコースやインテグレイテッド心理学のエクササイズでやるものなんです。すっごく面白い上に、思考の妄想から抜け出すためにはかなり役に立ちます。

      ただ、事実認識さえからも抜け出せるというか、やっぱり実体なきものであると分かると、さらに自由に軽くなりますよ♪

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  12. ゆめのなか

    あゆかさん
    いつもありがとうございます。

    よくある質問かと思いますがお尋ねします。

    「輪廻、前世、カルマもストーリーです。
    真実に時間がないので因果もありません。」
    というスピーカーの話を聞きます。
    また、「前世はあっても、ひとつの魂が続くのではなく、小波の寄せ集めのように、いろいろな人の前世の情報が合わさって、それが今はあなたに現れています。」というのも聞きました。

    どなたかが、「あゆかさんはひとつの連続した前世のつながりもあると思う」とどこかで言っていたように思う、と言っていたのも聞きました。これは勘違いかも。すみません。セラピーで出てくる体験などからどのように思われますか?

    また、もう生まれたくないから悟りたいと言うのが仏教やインド、ヨガの輪廻思想にありますがが、「解脱」(輪廻から出る)と悟りは違いますか?悟ってもまた来世がある?ACIMでは連続したものに終わりがあるように表現されていたような、、。

    真実を見たとき、どのように捉えられましたでしょうか。
    もしよろしければお応えくださいm(__)m

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    返信
  13. みんみん

    あゆかさん、いつもありがとうございます!

    ▷自己の不在を通して、思考がただ沸いてきては消えていくも▷のだとはっきり見えてくれば、その思考の意味のなさも見え▷てくるでしょう。そして、解釈したり、レッテルを貼ったさり、定義したりしてきた世界は、その力を失い、「あらゆるこ▷とがただ起きている」ことが浮き彫りになっていきます。

    思考がただ沸いてくるとすれば、
    「思考を観察しよう」と思考したり、ただ湧いてくる思考を深掘りしようと思考してることも、すべて沸いてくるということですか?
    だとすると、為すすべは何もなくて、例えば「意識を身体に向けよう」とすることも、自動で湧かなければそこへは向かえないのでしょうか?それとも思考と意思は違うものなのでしょうか??

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