今回もご質問にお返事いたします♪ というか、頂いたご質問をネタにさせて頂きます、のほうが正しいかも。(*^_^*) ご質問をありがとうございます!
”私はいない”と徹底的に発信してるメッセンジャー達は空に同化していて、それ以外の体と思考を私と思っている人達は色だけに同化していて、でもこの世は空即是色 色即是空 でしたね。<中略>何に同化しようともみんな同じなんですよね。どっちか一方に(空or色)疑うことができず同化してるのも間違ってるわけではなく、ただそのように現れてるいるだけなんですね。
まず、ご質問の方も分かっている上で使っていらっしゃるだろう・・・と思いつつ、念のため。
自分という存在があって、何かに同化しているわけではありませんね。
私も「同化」という言葉を使いますし、エックハルト・トーレも「identification(同化)という言葉を使っていますが、いわゆる言葉の限界というもので、正確には同化しているわけではありません。
同化するためには、何かに同化する存在がいないといけませんよね。でも、その存在そのものは不在なんです。空っぽ。
体、思い、感情が「自分である」という思考があるだけです。
そして、非二元のメッセージは、「空と色は二つではない(観察者と観察されるものは二つではない)」ですから、どちらか一方だけに同化するということも不可能です。無理。
ただ、どちらか一方を見過ごしてしまうことは可能です。というか、それは起きていますよね。自我は完全に「空」(=純粋意識、気づいている意識、それ、全体)を見逃していますから。
なので、“私はいない”を発信しているメッセンジャーたちは、「空」の側面を強調しているということです。
また、「色」(=現象)は常に変化し、現れては消えるのに対し、「空」は一切変化せず、時空もなく、常にあり、何ごとにも影響を受けず、すべてを受け入れる無条件の愛です。
なので、そちらを「真の私(真我)」とも言えるでしょう。そういう意味で、自我が「空」に憧れるのも分かるし、「空」のメッセージ自体もとても貴重だと思います。
ところが繰り返しになりますが、「空」と「色」は決して分けられないですから、「空」である一方で「色」である自我もどうしても同時に存在し、二つを分けることはできないんです。
しかし、自我は存在しても「主体」はどこにも存在しないので、やはりすべては創造主なしにただ起きているんです。
溝口さんは思いに寄り添うということを言われますが(←私は思いではなく、感情に寄り添うとお話しています)、いわゆる私がいないと言っている人たちもそれができるのですか?たとえそれができたとしても、それができるというより、それが起こるほうが表現として正しいですか?アジャシャンティさんもシャドウの話をされていますよね。でも、それはそういうことが起きないとできないのに矛盾していませんか?彼の話を読んでいると、あたかも行為者がいるように感じられます。
これは、良い点をついていると同時に陥りやすい点を含んだご質問です。
まず、はい、“それが起こっている”のほうがより正確な表現です。また、あたかも行為者がいるかのように感じられるという観点?も素晴らしいですね。と、同時にある意味落とし穴なんです。(笑)
念のため、“~~と言っている人たちもできるのか?”というように、その人が・・・という発想をしている限り、操作できる主体、実体を持った存在がいることが常に前提になってしまい、メッセージを誤解し続けてしまいます。
なので、できるだけベースを「そういうものは存在しない」にして非二元のメッセージを聞いてみたほうが良いかもしれません。
と、同時にここからがある意味真理の深い部分になるかと思いますが、とはいえ決して分けることができない、「色」の側面を完全に無視することはできないですね。(色即是空)
欧米では、真空の側面だけが悟りだという考えに陥っている人たちを「非二元原理主義」と呼んでいたりします。
例えば、思考にとらわれ過ぎていている人には、マインドフルネス的な瞑想も役に立つでしょう。なので、ある非二元のティーチャーは、それをその人に薦めるかもしれません。
しかし、非二元原理主義に陥っていると、“あのティーチャーはあたかも行為者がいるように話をしている、悟っていないのだ”と思ってしまったりします。
ちなみに、ここに「非二元のデートシーン」・・というジョーク動画(英語)があります。非二元原理主義的になった人が、ある女性をデートに誘うシーンですが、“もし、食後に僕のマンションに来てもらえたらと考えているんだけど、じゃなくて、そういう考えがただ起きたら・・・・”などと言ったり、かなり笑える。
とにかく「空」だけが悟りだと思ってしまうと、それは非二元ではなくなります。アジャシャンティも、「私はいない」だけがすべてだと思っている人たちに、まだその先があるのだと導くのはとても難しいと言っています。
その先とは、「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセスです。
もしかするとその現れが、“相手”に寄り添い、「あたかも行為者がいる」かのように話し、その人に一番必要なことを「あたかもその人が何かができる」かのように提案することかもしれません。
非二元原理主義に陥っている人などは、それを真理とは違うと言うでしょう。ある意味その通りです。でも、私はそれを「愛」、「親切」と呼んでいるんです♪
☆☆☆ ミーティング ☆☆☆
お陰様で東京と大阪のミーティングは満員となりました。両方とも広い会場へ変更いたしましたので、12日ぐらいまでにキャンセル待ちのフォームを申し込んでくださった方々は全員お席が確保できます。それ以降にお申し込みの方も、それなりにキャンセルはでますので、気長にお待ちくださいませ♪ 名古屋はまだ少しお席がございます。
なるほど。仏教の高僧たちは、真理は一時留保して、親切に働きかけているんですね。
この世に生きてる限り、親切はありがたく、身に沁みます。働きかけはただ起こってるだけ
と定義されるよりうれしいです。
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>「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセス
なるほど。
私が知りたかったことはここでした。
いつもあゆかさんは発信してくれていたのかもしれませんが、今回初めて目に留まりました。
なんだか、力が抜けて自分が広がる気分です。
神が私を見ている眼は、私が髪を見ている眼
その意味がより実感できました・・・。
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あゆかさんこんにちは! 5期生のえびです。
なかなか言葉に表現できないでいたものが表現されていて、すごくうれしく、わかりやすくてよかったです。
質問させてください!
「分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき」はその一瞬てゆう捉え方であっているのでしょうか?
つい、状態を保っているときの様にとって、そうすると思考や感情や自我(?)も見つけているときがあって…。
「自我が完全に降伏してない」のに気付いている瞬間も空の視点からの体現となるのでしょうか?
また、「分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき」の自我って、思考や感情を自分と思っている思考でしょうか? また別のなにかでしょうか?
最近、「自我」という言葉への自分の感覚があやふやで理解しきれてなくて見直したいなと思っています。
よかったら教えてください♪
質問をするために疑問を文章にするのにも四苦八苦しました。なかなかぴったりくる様に書けなくて…ほんとうにいつもすごいなあと思いながら読んでます。
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おぉ、えびちゃん、こんにちは!
>「自我が完全に降伏してない」のに気付いている瞬間も空の視点からの体現となるのでしょうか?
↑
完全に降伏していないとわかっているのは自我です。また、降伏は自然と起きていくプロセスなんです。
>「分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき」の自我って、思考や感情を自分と思っている思考でしょうか? また別のなにかでしょうか?
↑
上と同じようなご質問かと思いますが、いいえ、別の何かではなく、同じ自我です。ただ、やはり同じようなことですが、そこに主体はなく、自然に起きることなんです。完全な降伏が自然に起きるというか。
降伏が起きると、自我意識が一切消滅するということではないんです。まず、体がありますし、性格や趣味嗜好もそのままありますし、思いや感情も湧いてきます。ただ、コントロールしよう、何かしようというエネルギーや緊張した守りのエネルギーなどが落ちていくんです。(*^_^*)
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あゆかさん、どうもありがとうございます!
> 降伏が起きると、自我意識が一切消滅するということではないんです。まず、体がありますし、性格や趣味嗜好もそのままありますし、思いや感情も湧いてきます。ただ、コントロールしよう、何かしようというエネルギーや緊張した守りのエネルギーなどが落ちていくんです。(*^_^*)
すごくよくわかります!
わたしの一瞥体験で一番印象的だったのは2011年の6月で、その時の感じってすごく鮮やかでかつ明晰夢をみているような自覚みたいなのがあったんです。
で、その後も、ちょこちょこ身体がわたしであるという意識がなくなったり(正確には身体=自分という認識を持っていた自我がいるなという観察してる自我?意識?を見てるかんじです。おこってる、おこってる、という認識みたいな)ということがあったり、もともとすべてが愛だ…!という実感や、「空」であり「色」である体感のあとに、でもそれでいたら思考や感情という表れてるものを味わいきれないじゃないかっていう悲しみやなど、それへの自我の抵抗がすごく大きくあって…
その根っこにあるコントロール欲がこの間降伏するということが起きて、「コントロールしよう、何かしようというエネルギーや緊張した守りのエネルギーなどが落ち」たところ、非二元について表現されたものへの情熱がたかまっています。
その体験の中での
1一瞥体験中鮮やかで明晰な生命の躍動の感じ
2おきてると気付いている状態(1の一瞥体験の時より鮮やかさがなくてもっと静謐なかすかな躍動感みたいな感じ)
3もっと活発に親密に思考や感情や体を体験してる感じ。かつ、それが起きてるだけ、という過去の体感と知識とその起きているだけのことへの感動はあり、たまに2に近い体感 ※完全降伏してない自我の部分もある、という思考に気付いてる
の違いってなんだろう?という疑問がわいて、3は「自我が完全に降伏してない」というのにあたるのだろうか?ということを考えわからなくて質問していました。
>「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセスです。
「空」への抵抗が体現された「色」を味わい、その抵抗への降伏が表れて、「空」の視点から「色」をどう体現していくかのプロセス・現象の私を通して生命の表れてるのを楽しむ在り方に変化し日々ハッピーで(自我と思考とそれによる感情…悲しみとかも愛しくてたまらない…そこにおきてるすべてに静謐な躍動を感じるみたいな)、いろんなことで「ただ起こってる! すごい!!!」と感じているのと同時に、もっと「空」の視点から「色」を体現してる人のプロセスや表現を知りたいという衝動が出て、こんがらがっています。。笑
体感を言葉でも理解したくて、非二元原理主義的な言い回しとかになってる様に自分を感じて、おかしくてもどかしくてたまらないです!笑
あゆかさんを通してもっと非二元について見ていきたいなあ♪と感じ、わたしの疑問も「いくつもの思考と感情と同時にただ起きているだけ」、という認識と「だから聞いてどうするの?」とゆう思考が同時に起きてますが、あゆかさんだったらどんな風に語ってくださるだろう?という興味がわいてもっと聞きたい♪という気持ちに従ってみています。
ブログ、いつもありがとうございます。これからも楽しみです!
生命って、表現ってすごいですね♡
非常に長くなってしまいました!
非二元について直接会話できる機会も、とーっても楽しみにしております♪
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いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
先ほど、この文章を読んだ瞬間、大きな気づきがあって、泣いてしまいました。
>「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセスです。
私はつい昨日、「気づき」つまり「空」しかないなら、その中で感情を感じる事も無意味なんじゃないか、と思って虚無感を感じていた所だったのです。
しかし、、そうではない。
この「なにもない」所に、・・・言葉で表現するなら「ワタシ」という立ち位置の視点を通して、そこに与えられたフィルタを通して様々な表現が起こる。
五感で感じる世界、思考、感情という表現が・・・
「個々人の、様々なフィルター」である「自我」すらも、空が起こした奇跡のフィルター。
それを通して様々な表現があるがままに現れ、ダンスしているというこの凄さ。
愛です。。。。。。
ちなみに私がそれに気づいたきっかけは、自己流でMRしていたときに、
ホントはMRは対象の人物そのものになってはいけませんが、
あえて、その人物そのものになってみた時の事です。
空想上のどの人物になりきってみても、その個人個人の、思考、感情、そして五感で観ているものが違う、ということに気づき、では「共通しているものは何か」と思って「違うもの」を取り払って行った時に・・・、残ったのは、ただ個々人の五感と思考と感情を「経験している」気づきの視点、ただそれだけでした。その「空想世界」の全てを認識し、気づいているもの、ただそれだけだったのです。という事は「現実」つまり肉体を持った自分自身もそうだと気づいたのです。その瞬間、「気づき」だけだとわかりました。
「気づき」はとても簡単で身近なものですが、知識がないと理解が起こらないので、この溝口さんのブログに出会った事は、本当に恩寵だと思います。
それも「ただ起こっている事」なのですが!
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ぽこぽこさん、こんにちは☆
もう、本当に素晴らしい!! コメント大賞(笑)を差し上げたいぐらいです。
>「共通しているものは何か」と思って「違うもの」を取り払って行った時に・・・、残ったのは、ただ個々人の五感と思考と感情を「経験している」気づきの視点、ただそれだけでした
↑
その通りです。ものすご~~く、シンプルですよね。思考の迷路に行かずに、ダイレクトにシンプルに経験を見つめて頂いて、私もなんだかとても嬉しいです♪
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こんにちは。
最近非二元の話しに興味が出てきた者です。
非二元原理主義について教えていただいてありがとうございます。
「非二元を教えていただいて、気持ちが楽になりました」と言ったら、「そのあなたはいません」と言われそうでちょっとビビってたので安心しました。(笑)
質問ですが、
主体や創造主は、空(純粋意識、気づいてる意識・・・)だと思っていたのですが、そういう意味ではないのですか?
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inoさん、こんにちは☆
>質問ですが、
主体や創造主は、空(純粋意識、気づいてる意識・・・)だと思っていたのですが、そういう意味ではないのですか?
↑
はい、そのようなイメージを持っている方がものすごく多いですね。でも、もし、~~(主体)が~~(客体)を作った、という考えであれば、ぜんぜん違います。空が現象世界を生み出した、みたいな。これだと、空と現象世界が分離して存在しないと、無理ですよね。でも、この二つは決して分けられないんです。観察者と観察されるものは、二つではない、なんです☆
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あゆかさん
ご紹介の非二元ジョーク動画見ました。パート1と2もあるんですね。
大笑いしました!!
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アガピさん、ですよね!あははは! 本当にこういう人がいたらかなり痛いかも。(*^_^*)
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お答えありがとうございました。
よく分かったことは、体現しないとなにも分からない、でした。
でも、それが今ここにある思考なんですね。
前回も、毎回も、アドバイスにあるように、ここにあるものを、みて、よりそってみます。
愛と親切受けとりました。ありがとうございます。
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タマキさん、こんにちは☆
こちらこそ、感謝のお言葉をたくさんありがとうございました。心より感謝いたします。(*^_^*)
>ここにあるものを、みて、よりそってみます。
↑
はい、こっちのほうが近道かと。とくに最初は、いまここに現れている経験の中で、唯一変化せず、唯一観察できないものを見ていくと良いですね♪
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いつも愛に溢れた言葉が見に染みています。
ありがとうございます。
初めてコメントいたします。
私は色々と思考で非二元を理解しようとしていましたが(自我がしっかりとあるので)、最近感じるのは、すべての現象は空の現れで自我の崩壊も起きるときには起きるし起こらないのであれば起こらない。ならば、難しい事は考えずこの今をハートに沿って生きています。
起きてくることは自我の想像を越えてきます(笑)とても楽しい。
現象は全て空からの現れであり愛であるのなら自我も愛おしい。感謝の気持ちが溢れてきます。
今ここに自分として存在すること自体が奇跡に思えてきて込み上げてくるものがあります。
この一瞬、今を無条件に受け入れてると自然と判断が緩くなりハートがあたたかさで満ちてきます。
そんな時我を忘れて、ハッとします(笑)
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あゆかさん、こんにちは(#^.^#)
今回はフェイスブックではなく、
こちらにコメントさせていただきます。
あゆかさんのブログや、皆さんのコメントや、それに答えられるあゆかさんのコメントを読ませていただいて、いつも何かしらの気づきがあります。
ありがとうございます(⌒▽⌒)
今ここに現れている経験のなかで唯一変化せず、唯一観察できないものを見ていってるのですが、ついつい思考が現れると、その中に入ってしまいます。
そしてまた、はつ、と気づいて、見ることに戻るのですが、これも現れなので仕方ないのでしょうか?
何かをしようとしない方がいいと非二元のお話しをされる方々はおっしゃいますので、自然に変化しないものを見ることが起きるまで、気づいたら見るを繰り返すだけでいいのでしょうか?
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Sayuriさん、こんにちは☆
言葉って難しいですね。私も間違っているなぁと思いながら使ってしまったりします。
>自然に変化しないものを見ることが起きるまで、
↑
本当は、観察できないものを見ることはできないので、見る努力、寄り添う努力をして、ある一定の状態を保ち続ける必要ないかと思います。
それより、意識の中心が自我からそちらへシフトすれば良いというか・・・・。また、シフトへのプロセスも人それぞれあるかと思います。
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あゆかさん、ありがとうございます(o^^o)
あゆかさんのお返事を
なんども読んでます。
思考で理解しようとせず、
感じようと思います。
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あゆかさん、いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
なんとなくもやもやしていたことが分かりました。
11月のコラボ講演、お伺いできず残念ですが、
遠くから応援しています。
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こんにちは!
コメントにコメントをするのは、本当に憚れるのですが、
奇跡のフィルターということに、本当にそうだ!と感じて感動したので、コメントさせてください。
〉「個々人の、様々なフィルター」である「自我」すらも、空が起こした奇跡のフィルター。
それを通して様々な表現があるがままに現れ、ダンスしているというこの凄さ。
今日一日、奇跡のフィルターを通しての様々な表現、を意識して一日を過ごしてみたのですが、
ほんとうに、一人として同じフィルターはないし、生命を表現していないフィルターは、一瞬だって存在していない、と感じました。
生命は、生命自身のフィルターを通して、生命を生きてほしい、生きたがっている、溢れてしまう脈動が、ただ、ただ存在するのですね。
だから、ただ、ただ生きていてほしい、
存在しているだけで、誰かを助けているし、誰一人として欠けることのない誰かをいつも、助けているのだから、と思いました。
〉その先とは、「空」の視点から「色」をどう体現していくかということです。つまり、自分の中心が空っぽで、分離をどこにも見ず、自我が完全に降伏したとき、生命=愛が“現象の私”を通してどう現れるのかというプロセスです。
生命=愛は、現象の私を通して、自由自在に表現していることは、それが、どの奇跡のフィルターを通すかということは、全然たいしたことではなく、
生命=愛が、現象の私を通して表現していること自体が、奇跡的だな、と
生命現象は移ろいゆくけれども、
生命は壊れたことがなくて、すごいなと、日々、感じるのですが、
あゆかさん、
家や車や、洗濯機は壊れたりするけれども、
生命は、一瞬だって壊れたことがないですよね?
それが事実なのか真実なのかということは、私にとっては、よく分かりません。
ただ、今日一日、奇跡のフィルターを通して、今日一日を経験できて、よかったなと。
ありがとうございます!
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ゆきさん☆
>家や車や、洗濯機は壊れたりするけれども、
生命は、一瞬だって壊れたことがないですよね?
↑
わぁ、この表現とっても素敵です!!
生命はまた尽きることもなく、自我が分離の幻想のために欠如感を抱いているだけなんですよね。(*^_^*)
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なんどもすみません。
これそのもののときって フィルターさへもまったくなくなっていて
とにかく発酵(発光)しっぱなしで
満足している!のではなく満ち満ちていて
野にも山にも花を咲かせる
花咲おばさんそのものになっている気がします。
とにかく満ち満ちているので
求めるものは一つもなく
与えるという意識もなく
ただただ こぼれおちている!感じ
では ないでしょうか?
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お返事ありがとうございました。
空が現象世界を創造しているのではなく、空と現象世界は分けられなくて、表裏一体ということですね。お忙しいところありがとうございました!
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あゆかさん、
お返事、ありがとうございます。
たしかに、生命は尽きることもないですね!
今日、仕事の前に、
心の底で、生命エネルギーが枯渇してしまったら、どうしよう~~という怖れ、不安、誤解を、抱いていることに気づいて、
ああ、たしかに、生命は尽きることがないのに、生命エネルギーは限りあるものだと思い込んでいたことで、とてもエネルギーを消耗していたことに気づきました!
生命が尽きることもなければ、生命エネルギーは自分のものでもないし、自分がやっています!という幻想から覚めれば、生命の水が限りなく、溢れ出ていることに気づきますね♪
それに、これはエネルギーの話だけでなく、たぶん、ふだん実際の生活にもよくあることで、
たとえば、
10人で旅に出かけました、だけど、あいにく車には、5人しか乗れません。
という場合、ああ、席がない、席は限られている、と思い込んでしまいがちなんですが、実際は、席にも限りがなくて、
10人いたら、10人が乗れるバスがちゃんと、いつ、どこにいても与えられて、用意されているものだな、ということは、よくありました。
生命は尽きることがない、ってことを信じていたわけでは、決してないのですけれども。
いいねいいね
いつも ありがとうございます。
アジャシャンティさんが書いてくださっていた
「今を見失うと苦しみます」
という言葉の意味が
どれほどのものかが、実体験でわかりました。
いつも 本当に ありがとうございます。
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