思考や感情が常に起きているけど、
その感情や思いを隣の人は知らない。
ポジティブな思いが浮かべば、わくわくする感覚がしたり、
ネガティブな思いが浮かべば、胸が締め付けられるような感覚がするかもしれない。
自分だけにしか知らない思いや感情、そしてそれに反応する体。
これらは、自分は分離しているという勘違いが生まれるには充分な証拠だ。
体の数だけ違う思い、感情、そこに流れているストーリーがある。
ある意味それは「神の遊戯」の醍醐味。あざやかなトリック。
でも、その遊戯を見ている目はたった一つ。
その遊戯に気づいている意識は、たった一つ。
「わたし」の後につく言葉はすべて、遊戯に属し、それらはすべて変化する。体も、思いも感情も。
でも、「わたし(I AM)」は常にそこにあって、どんな属性も持たず、動かず、変化せず、だから時間や空間も知らない。
じっとそこに居続けてみよう。
そして、ちょっとダイレクトパスなんかをやってみても良いかもしれない。
(※ダイレクトパスとは、思考を通さずに直接体験を見ていくこと)
エアコンの音と
お湯が沸いている音
外から聞こえてくる音に間に距離はある?
エアコンはあそこ、台所はあっち、家の外に道がある、といった記憶(思考)取り除き、ただ、今現れていることに意識を持って行ってみよう。
もう一度、音と音の間に距離はある?
次に体の感覚に意識を持っていってみる。
どこかにくすぐったいという感覚があるかもしれない。
そして、体があるという記憶(思考)を横に置いてみる。
くすぐったい感覚と音には距離がある?
思考は、感覚は自分のもので、音は自分のものではない、と言うだろう。
でも、その思いを取り去ってみたら、
感覚も音も現われているすべては、どこで起きている?
気づきの意識の中ですべてが現れている。いつも、いつも。
そして、気づいている意識と現われているすべての間にも距離はなく、それらは決して二つに分けられない(二つではない=ノン・デュアリティ)。
そして、その全体が真のわたし。
空っぽで、そして満ちている。
もう一度言おう。
遊戯を見ている目はたった一つ。
探求者は、その目を通して真実を探し続ける。
いつの日か、常にあるその目が探し物だったと気づくまで。
そこに居続けようとしていた“探求者”は、探している主体ではなく、
その目が見つめる客体であったと気づくまで♪ (=探求者はいない)
(※探し物に気づくこと。それは決してゴールではなく、真実が現われ出てくるほんの始まり。)
こんにちは。初めてコメントします。
ブログを拝見させていただき、救われたり、癒されたりしております。
ありがとうございます。
非二元について教えてください。
よく「気づきの意識」とありますが、気づいている意識とは何ですか?
「私」という感覚や思考も気づくことができる対象で、「知覚(経験)されるもの」という意味で外の「世界」も「私」も同じものだということは理解できます。「私」という分離感は、あらゆる対象(知覚)のうちの一部分(私)に基準を置いているということでしょうか。
しかし気づいている側?はどうやって気づくことができるのですか?私(思考や感覚)は気づかれる側なので気づくことはできませんね。かといって、世界や私があることに気づいているのだから、気づいている側があるはずだ、という想定はまた対象ですね。そもそも「気づきの意識」と、「気づかれている対象」と分けると二元になってしまいます。では気づく側、気づかれる側ではなく、気づきの意識とは知覚(経験)そのもの、なのでしょうか?
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soraさん、こんにちは☆
ご質問をありがとうございます。これは多くの人から受けるご質問ですが、答えは非常にシンプルです。
>気づいている側?はどうやって気づくことができるのですか?私(思考や感覚)は気づかれる側なので気づくことはできませんね。
↑
その通りです。それが気づいている意識です。決して捉えることができず、決して対象化できないものです。今、自分が存在していることは分かっていますね? その分かっている意識です。とってもシンプルです。
多くの人は、その分かっている(気づいている)意識が、個人のものだと錯覚していますね~というのを今回の記事に書いてみました。
“私”の経験のなかで、唯一常にあるもの、決して変化しないもの、そして唯一捉えられないもの、それが気づいている意識です。ご自分の経験から分かるはずです。(考えずに!)
そして一見、気づいている意識と気づかれている対象物があるように見えますが、深く体験を見つめていけば、それらは決して分けられないことも分かるはずなんです。(^○^)
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お返事ありがとうございます。
>今、自分が存在していることは分かっていますね? その分かっている意識です。とってもシンプルです。
このお言葉から、なんとなくこれのことかなと感じるものがありました。
なにか分からないが自分が存在している、世界が存在している、存在していると気づいている。考えではなく、存在自体が気づきそのものという感じです。
溝口さんが経験しておられる世界(知覚)と、私が経験している世界は違いますよね?それでも気づきの意識はひとつ(同じ?)なのでしょうか?
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あゆかさん、初めまして♩
あゆかさんの著書や動画を片っ端から拝見させて頂き、たくさんの気づきをいただいており感謝です(*^^*)
さて、今回の記事の最初に書かれていた 感情 に関して、意外でした。
普段、例えば目の前の人が、何かの拍子に 感情を抑圧した瞬間、
その感情に気づいているわたし(個としての私?それとも、全体としてのわたし?なのか、よく分かりませんが)がいるので、
ある意味、そこに分離がないから、気づいてしまうのかなぁと思っていました(^^>>
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Manaさん、こんにちは☆
片っ端からご覧になっていただき、大変ありがとうございます!ヽ(*^^*)ノ
はい、分離はありませんので、敏感な方は隣の人の感情を強く感じたりしますよね。でも、ここでの記事は、夜中に自分がこっそり考えていることは、自分しか分からない・・・とか、そういう意味の自分にしか分からないです。
そして、おっしゃる通り、分離がないから個の私が、個の別人の感情に気づくのではないですね。気づいている意識は一つだけ。でも、コメントをしているのは思考です。(あっ、あの人感情を抑えた・・とか)
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あゆかさん、こんにちは☆
お返事を下さり、感謝感激ですっ\(*^O^*)/
なるほど、なるほど~♩♩
誰のものでもない感情に気付いているのは意識だけれども、瞬時に、思考でコメントを走らせていた、のですね(^^;
そして、今回の記事に書いて下さっていたのは、密やかな思いや感情の方だったのですね…
失礼しました(^^>
湧いてきては その都度スムーズに抜けていく感情も、密やかに自分が握り締めている感情も、他者によって抑圧されていると思っていた感情も、そこに違いは無くて
思考によってカテゴリー分けしていただけ、だったりするのでしょうか・・・あゆかさんのブログの記事を、何度も読み返しさせていただきまーすo(^^)o
お返事、ありがとうございましたm(__)m
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あゆかさん、こんにちは!
気づきのダンス、年明けのこの記事、とっても励みになります。
スピリット(生命/愛)がスピリット(生命/愛)に話しかけて、スピリット(生命/愛)がスピリット(生命/愛)に耳を傾けている感じがして、とっても心地いいです~♪
昨年末から、私は、
ダイレクトパス、私はマスターしました!という気持ちになったので、こういう時は何もしないで、安静にしていよう、と、しばらく、ダイレクトパスをするのを控えていたのですが、
休日にたまたま、この記事を読んで、ダイレクトパス、いいよね~面白そう♪と感じて、また、始めました。
ところで、お伺いしたいのですが、
〉探求者はいない
というのは、
何かをとても集中して観察しているときに、観察者のほうを観察してみると、観察者はいないことと同じですか?
(動詞は、違うけれども)
先ほど、とても魅力的な情景とリズムが、目の前にあって、じっと観ていたら、ふと、あっ今、ダイレクトパスをしてみよう!と思い立って、見ている目のほうを観てみたら、観察者はいなかった。。。です。
ただ、ダイレクトパスをしているときに、目にしたものでも、音でも何でも、「欲しい!」という気持ちになると、とたんに、距離が生まれますね。
向こう岸にあるものは、私は、何でも欲しいんだ!っていうことに、気づいて、とっても面白いです。
今、観察者なき観察、ということを明らかにしたくて、探求しているんです。
観察と内省を、日常にしたい。
あと、様々な場面でダイレクトパスを試して、どういうときにダイレクトパスができないのか?どういうときに分離が生まれるのか?ということも探求しています/笑。
ありがとうございます!
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ゆきさん、こんにちは☆
>スピリット(生命/愛)がスピリット(生命/愛)に話しかけて、スピリット(生命/愛)がスピリット(生命/愛)に耳を傾けている感じがして、とっても心地いいです~♪
↑
素敵な表現ですね♪ なんかうっとりしてしまいました。(笑)
観察者なき観察の観察者が個人を指していらっしゃるのか、気づいている意識を指しているのか、ちょっと分かりにくいのですが、いずれにせよ、個人というものはいなくて、観察者(者じゃないけど)と観察されるものは分けられない、のシンプルなところで良いかなと思いますよ。
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あゆかさん、こんばんは!
さっそくのお返事、ありがとうございます。
〉個人というものはいなくて、観察者(者じゃないけど)と観察されるものは分けられない
すごく分かりやすいです!とってもシンプルですね!
表現がストレートに響きます。
たしかに、者じゃない。
と感じました。ありがとうございます!!
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たびたび、スミマセン。
質問のことばを、改めました。
〉探求者はいない
というのは、
何かをとても集中して観察しているときに、観察者のほうを観察してみると、
観察している「人」はいなくて、形のない無限の、気づきがただ観察していて、観察されているほうも、気づきの現れで、というのと同じですか?
(動詞は、違うけれども)
という質問でした。
観察でのノンデュアリティ(非二元)の要は、観察と観察されるものは分けられない。ですね?
Haaaaa~ことばにしたら、コメント、自分で読み返しても私は、思考のスイッチでは全然、意味が分かりません。。苦笑。
人間も、エネルギーや愛だけで会話できたら、めっちゃ楽でいいなと感じます。
あゆかさん、
言葉は、ポインター(指差すもの)でしかないですけれども、
言葉もたいせつ~ことばの表現も、奥深いですね♪
ありがとうございます☆
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ゆきさん、こんにちは☆
言葉はほんとうに難しいですね。シンプルなことがややこしくなるというか・・・。
>観察している「人」はいなくて、形のない無限の、気づきがただ観察していて、観察されているほうも、気づきの現れで、というのと同じですか?
↑
たぶん、捉えていらっしゃるこの感じで良いのかなと思います。ただ、集中して観察していなくても良いかも?
非二元の要は何か?と聞かれたら、私が何であるか、はっきり疑いようもなく分かっていることと答えるかもしれません。そうすれば、自ずと主体客体(観察と観察されるもの)、時間と空間の錯覚が落ち、非二元の現実が明白になるというか。
ただ、もちろん正しい答えなどなく、どの答えもある意味たいして意味がないです。あはは!
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「悟りについて語ろう会」のユーチューブ内でも言われている事ですが、
“きずいている意識は身体と一緒に
動かない。動かないという事はそこに時間が無いという事。時間が無いという事は空間が無い。”。
動かない=そこには時間が無い=そこには空間が無い
、、、この言われている事の説明をもう少ししていただけませんか?
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あるがさん、こんにちは☆
こちらのご質問を見逃していました。気づいている意識が動いているかどうかをまず見つめてみられるといいかもしれません。あらゆるものは変化しますね。でも、気づいている意識はその変化には気づいていますが、一緒に変化しているでしょうか? 一つの思いが去ったときに、気づいている意識も一緒に去っていってしまうでしょうか? それとも、去ったということにただ気づいているだけでしょうか?
そのへんをよく体験的に認識し、そこに留まっていると、距離も時間もないことが自明になってくるはずです。(時間と距離は動きがあるところにしか存在できないですよね)
かなり端よって書いてしまいましたが、見つめてからまたご質問くださいませ♪
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