エゴがエゴをなくそうとする矛盾

さ~て、「私はいない」は、スピ界隈(ってどこだ?)では、昨年の流行語大賞と言えるかもしれませんね。

ちなみに、英語では「no self」とか「no doer」などと表現されています。で、皆さん、もうよくお分かりかと思いますが、これは「行為者」がいないという意味です。

つまり、コントロールしている主体がいない、何か物事を決めたり、選択している主体がいないということですね。

ということで、自分が思考を作り出していないということをよ~く見つめてみると良いかもしれません。常に思考は自動的に沸いて来ているだけ。そこに思考をコントロールしている主体は見つからないはず。

私は真実がどうしても知りたかったので、これをしつこ~く見ていきました。とはいえ単純に細かく観察しただけです。

するとどんなに見ても、すべては勝手に現われ、その直後に思考がコメントをしているだけなんです。そこに何かを選択したり、生み出したりしている主体はどしても見当たりません。

多くの人が「私はいる」と強く感じていますよね、というか、それを疑いもしていないでしょう。でも、それもよ~く観察すると、「私がいる」という思いとその感覚があるだけで、それ以外には何もないんです。

空っぽ。

イギリスでのリトリートでも、また日本でも最近見かけるのが、この「主体はいない」ということをきちんと腑に落とさずに、目覚め、真実を求めているケースです。

そうすると、どうしても“自分がいつか分かる”、“自分がいつかシフトする”というように、無意識のうちに「自分」が頑張ってしまいます。

または、自分そのものがまるごとエゴ(自我=自分)なのに、エゴ(自分)がエゴをなくそうとする、エゴがエゴと同化しないように頑張るという不可能な作業をしてしまいがちです。

というのも、「主体がいない」ことが腑に落ちていないと、あたかも自分のなかにエゴがある、または自分がエゴを持っているかのように感じてしまうんですね。

ということで、私たちは普段、

私の体
私の思い
私の感情

と、「私の~~」と言っていますが、そのそれらの所有者である私、個別の私がどこに一体いるのか?じっくり見てみるのはいかがでしょうか?

また、思考の主がいないことを見抜けてくると、思考にあまり囚われなくなるでしょう。なぜなら、思考はただ沸いて来る実体のないもので、まったくもって頼りにならないことが見えてくるからです。

で、思考が一切当てにないことが分かると、残されたものは、皆目検討もつかない、分からない世界、「ただある」ことだけがある。

でも、そこに恐れはなく(恐れは思考が作るから)、

何も分からないことが、これほど安心で自由だったとは・・・。うふ♪

 

エゴがエゴをなくそうとする矛盾」への33件のフィードバック

  1. きゅー

    質問です!

    〉「私の~~」と言っていますが、そのそれらの所有者である私、個別の私がどこに一体いるのか?じっくり見てみるのはいかがでしょうか?

    とありますが、
    そもそも行為者がいないのに、
    どうやってじっくり見てみればいいのでしょうか・・・。
    行為者がいないということは
    いまにあるすべては
    コントロールが不可能ということですよね。
    非二元でいうと
    この「私がじっくりみてみて、個別の私はいないことを確かめる」という行為も、勝手に現れるということでしょうか。
    この辺が、「行為者がいない」という真実を分かりにくくしていると思います(^^;
    あゆかさんの見解を教えてください。
    (この質問も、「きゅーが質問を書いて送信している」とエゴは認識していますが、ほんとは自動的にいまに現れているのでしょうね。)

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    1. ayukablog 投稿作成者

      きゅ~さん、こんにちは☆

      はい、その通りです♪ でもきっと、多くの人が同じ疑問を抱いているかもしれませんね。

      例えば、“右手を挙げてください”と言われたら、できますよね? で、ご質問は、行為者がいないのに、どうやって右手を挙げたら良いのでしょうか?と言っているのとある意味同じです。

      さて、右手を挙げた場合、思考は、自分が言葉を理解して右手を挙げたと思うわけです。

      でも、そうではなく、主体なしに言葉と思考の反応が起きただけですね。

      もし、この記事を読んで、じゃぁやってみようという興味がわいたら(自動的にそういう反応が起きたら)、やるという行為も続いて起きるかもしれません。(または起きないかもしれません。)

      すべて全自動です♪ これで答えになっているでしょうか?

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      返信
      1. 匿名

        あゆかさん、
        ありがとうございます。
        なってます‼

        そうかー!!って、納得している私が
        自動的に現れています。
        自動的に起きることが、
        あたかも自分がコントロールするかのように
        調和的に現れてくることが
        とても神秘的ですね。
        もう少し、
        主体がいない感じによりそって
        感じ続けてみます。
        ありがとうございました(*^-^*)

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  2. ゆき

    素朴な疑問です。

    そもそも、私はいないのに、どうして自我は、死んだり、忘れられたりすることを、恐れるのでしょうか。

    しかも、形のない静けさの方は、元々いない主体も実体のない思考も、毎瞬毎瞬、愛し、一時だって、忘れたことはないのに。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆきさん、こんにちは☆

      たぶん、自分がいなくなることへの恐怖が自分の中にあるかどうか? あれば、それはなぜか?を見つめていくと、答えは見えてくると思いますよ。たくさん答えはあると思います。また、基本的に自我は自分がいると深く信じていることはお忘れずに~。

      いいね

      返信
      1. ゆき

        あゆかさん、こんにちは!

        お返事をありがとうございます。

        〉基本的に自我は自分がいると深く信じていることはお忘れずに~。

        そっかあ、そうなんですね~~♪

        どうりで、元々あなた(私)はいない、というスタンスで、自我とお話し合いをしようとすると、反発が来るんですね。私の場合は、からだに痛みとして感じることも多いです。

        先日のコメントを出した時も、数時間して、子宮が痛くなって、日帰り旅行中だったのですが、子宮の辺りの痛みだったので女性性の思いなのかと観てみたら、それだけでなく、子宮に投影された、男性性の、私の名を忘れられたくないという感情を発見しましたよ。

        あと、たくさんの過去から来た、感情と恐れと、たくさんのパーソナリティー。どれも、過去から来た、今ある思い。

        ただ、思いが今あった、だけです。

        それに、先日のコメント自体が、自我が発言していますね。恐れと不満足から来た思いがコメントしているような気がします。

        自我が怖いんです。ほんとうに、無意識の自我が怖い。

        あっ、でも今、そうコメントしたら、自我ではなく、ほんとうは、否定的なエネルギーがただ、怖いだけだと気づきました!

        否定的なエネルギーが怖い。ほんとうに、怖い。

        って感じようとしたら、そんなに、じつは、怖くないです。。

        怖いって思いは、ただ、観てみたら、なくなるものですね。笑。

        よく分かんないような気もしますけれども。あはは。

        ありがとうございます!

        いいね: 1人

  3. Mana

    あゆかさん、先日は質問を解説下さりありがとうございました!
    お陰様で、ここ数年のモヤモヤがスッキリしましたo(^^)o

    思考の主がいないということは、同じ内容の考え(過去のストーリーとか)が何度もアタマをグルグル巡っているのは、
    その考えを回している主はいないのに、グルグル巡り続けているということですよね・・・
    この意味が理解できる時が来る時を願って、あゆかさんの動画を拝見した影響で、
    「その思いに気付いているのは誰か?」という観察を日々練習中ですo(^o^)o

    追伸:ルパートさん、ホントに井上順さんに似てますね~(^^)!

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    1. ayukablog 投稿作成者

      Manaさん、こんにちは☆

      数年のモヤモヤが解消されて良かったです。

      そうなんです。主なしにすべてが起きているんですよね。最大のミステリー。

      あはは!ほんと似ていますよね~。イギリス人とこの面白さが分かち合えないのが残念。

      いいね

      返信
      1. Mana

        あゆかさん、こんにちわ♩
        早速のお返事ありがとうございました(*^0^*)
        なるほど~、そこは最大のミステリーとしか言いようがない訳ですね(≧▽≦)
        全体の、意識が 「わたしが行為者だ」と 決して主張することが無いのをいい事に、
        自分の手柄が欲しいエゴは「自分がやったんだ」と主張したくなる気持ちも分かるような…(^^>>

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  4. ふっきー

    あゆかさん、はじめまして。
    私は物心ついた時から、はっきりとした、私というアイデンティティみたいなものが無くて(周りのみんなにはあるように見えました)、自分という定義がコロコロ変わってしまうことがとても恥ずかしいことだと感じてました。
    みんなみたいに私という個性を確立しないといけないんだと思い込んで、私を作るために?長い間もがいていたので、苦しかったです。
    なので、個の私というのは、単なる概念の寄せ集めみたいなもので、確固たる私という存在が、この体の中にあるわけではないんだと知って、あ〜良かった、そうだったんだと安心しました。
    そもそも無いものを見つけようとしたり、無いものを確立しようとしてたんだ、と思うと、今まで何を頑張ってたんだろう?と。
    なんだか遠回りをしたような、元に戻されたような、不思議な感じがしています。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      ふっきーさん、こんにちは☆

      そうですね。無理なアイデンティティ作りをやめたときに、ありのままの自分らしいエネルギーがそのまま現われるなぁと感じています。そして、子供は実は大人より真実に近いですよね。

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      返信
  5. トマト

    こんにちは。
    主体がいないと腑に落とすのもエゴで、エゴも主体がなく空っぽなのですよね?空っぽが空っぽを無くそうとしたり、空っぽが私の体〜!と頑張ったりしてるということですか?

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      トマトさん、こんにちは☆

      ~~が~~をする、という発想自体を落としてしまったほうが良いかもしれません。どうしても、人は主体を想定してしまいがちです。エゴじゃないなら、空がやっている・・・というような。

      ということで、とりあえず、私の体~!と頑張っているのは、何なのか、そこに何があるのか、よ~く見てみてみませんか? おそらく、思考と感覚があるだけですね。体験を見つめて答えを出すのが一番ですね。

      で、それは気づいている意識(=空)の中に沸いてきて、そして、思いと感覚は空から切り離せないですよね。なので、空っぽだけどあらゆることで満ちているんです。

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      返信
  6. 菜々

    あゆかさん、こんにちわ!
    私も質問があります。

    数年前から現在まで割と真面目に悩んでいることがあります。
    それは、スピ系でいわれるグラウンディングについてです。

    私はこれまで、「菜々さんは意識が肉体から外に出てしまってかい離気味になっている」「グラウンディングができていない」などと指摘されることが多く、どうすればいいのか悩んでいます。

    幼い頃からあまりにも辛いことの繰り返しで、幼少期から自分自身や自分の人生に起こる出来事をかなり俯瞰する癖があります。(そのせいで感情を感じにくくしたり抑圧してきたところもかなりあります)

    確かにラピストさんに言われるように、ふわふわした感覚になることがあったり
    いつまでも夢を見ているかのような、TVドラマをみているような・・・現実味がない感覚があったりしていて
    現実面で動きがなく、ずっと同じ状態(悩み)が続いていたりしています。

    非二次元、真理でいえば、肉体も意識もすべてが誰のものでもなくただの全体の現れであり
    肉体から意識が離れてしまっているとか、グラウンディングしているしていないなどという概念はないのだと思いますが
    たった今も自我を感じ、ストーリーを感じながら生きていると感じているこの「私」が生きるには(ストーリーとしては)やはり、意識を肉体にしっかり留めておくグラウンディングというものは必要で大事なことなのでしょうか?

    以前あゆかさんの非二次元とセラピーの関係の動画を拝見した際に
    非二次元という知識や概念そのもので癒されたりラクになろうとするよりも、実際に辛ければセラピーを受けたほうがいいというようなアドバイスがあり
    私自身も同感し、自分がラクになれるようにセラピーを受けたりしているのですが
    どうしても度々グラウンディング(肉体に意識を留めること)を指摘されるので
    それをどう解釈し、取り入れればいいのか迷っています。

    そもそも非二次元を知る前も、これについていろいろと疑問ではあったのですが
    あゆかさんのブログや動画などで非二次元を知れば知るほどますますこの件についてこんがらがっています。

    セラピーを受け続け変化していくうちに、だんだんと自然にグラウンディングできるようになるのでしょうか?
    また、シンプルに結論でいえば、(ストーリーとして)意識が肉体から離れてようがどうであろうが、一切気にせず淡々と起きることを生きていればいいだけということでしょうか?

    質問がわかりづらかったらすみません。。お返事いただけるとうれしいです。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      菜々さん、こんにちは☆

      始めに、非二次元ではなく、非二元です。まじめなご質問なのに、非二次元と何度も書かれているのを読んでいるうちに笑い出してしまいました。あはは!(失礼~!)とにかく、次元とはなんの関係もありませんので。

      さて、まじめにお返事いたしますね。とはいえ、会ったことがない方の状態をこの短い文で判断するのは非常に難しいですので、ものすごく間違っているかもしれないという前提にお返事させてください。

      まず、自分が求めていることは何か?真実を知りたいのか?それともグラウンディングができていないという状態をどうにかしたいのか?それをクリアにしたほうが良いかもしれません。また、他の人が指摘するからどうにかしたいのか、自分自身で困っているのか?もよく見てみてくださいね。

      で、小さいことから辛いことが多かったということですが、心のしくみとしてあり得るのは、トラウマになっている部分を切り離してしまっていることです。乖離(かいり)と言いますが、これはあまりに辛いためにその部分の意識をフリーズさせ、通常の意識から完全に切り離してしまうことです。これをすると、その部分だけではなく、自分の実際の感情とも切り離されてしまうので、ふわふわしたり、現実味がなかったり、傍観者のように感じられたりします。(超短く、簡単にまとめています)

      お会いしていないので分かりませんが、非二元とは一度切り離して、小さい頃のトラウマや辛かった記憶を癒してみる価値があるかなと感じます。

      非二元は生き方を説いているものではなく、シンプルに真実はなにかを描写しているだけです。ので、自分がどう生きたらいいの?ということでしたら、セラピーのほうが私はお薦めです♪

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      返信
  7. popo

    あゆかさん、いつも読ませていただきありがとうございます。

    疑問が湧いてしまったので質問させてください。
    アルコールや煙草など、習慣性のあるものに嵌ってしまっている場合、
    呑みたい吸いたいって思考が湧くのも(というより思う前にしてる気がする)、
    単に湧いてきたものと解釈していいのでしょうか?
    よく聞く、酩酊状態の波動は低いとか、フォーカスレベルが低位の囚われ領域にあるとか言われますが、
    酩酊状態での失態を後悔したり(バカですね)するのも、ただその思考や感情が湧いてるだけでコントロールできるものはないと?いうことでしょうか?
    それともやはり喫煙や、殊に飲酒は何とかして(コントロールして?)止めるべきなのでしょうか?

    変な質問ですみません。よろしければ教えてください。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      popoさん、こんにちは!

      ご質問をありがとうございます。次回かどうかわかりませんが、記事のほうでお返事させて頂きますね。

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  8. 菜々

    あゆかさん、お返事ありがとうございます。

    非二元が非二次元になっていたタイプミスに自分でもびっくりしてしまいました。
    アニメ好きでもないのに変換機能で二次元が出てきたのようで、気づかずそのままになってしまいした。。すみません(汗

    あゆかさんのメッセージをみて、大事な軸の部分を見失っていたことに気づきました。
    で、自分はどうしたいのか?というところを、あらためて感じてみたいと思います。

    あまりにも頻繁にグラウンディングできていないと指摘されてきたので
    へんに過剰にそこを気にしていた部分もあったと思いました。

    うまく言葉がまとまりませんが、たくさんの気づきをどうもありがとうございました。

    いいね: 1人

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  9. kari

    こんにちは。最近立て続けにあゆかさんのお話を動画で拝見させていただきましたが、そのとてもわかりやすい説明に、非二元のことが段々と腑におちてきました。どうもありがとうございます。

    私事で申し訳ないのですが、あれはどういうことだったのかなぁという経験がありましたので、もしよろしければご意見いただきたいなと思って、コメントさせていただきました。

    昨夜のことなのですが、夜中にふっと目が覚めて、見ていた夢からこの現実へと意識が戻ってくると、ベッドの脇に置いてある加湿器がシュッシュッと音を立てていることに気がつき、なぜかその音に意識がぐぐぐーっと開かれるような感じになりました。その音がとてもリアルで、生き生きとした音のように感じられたのです。そしてなぜか、すごーく懐かしいような気持ち?がこみ上げてくるような気がしたのです。何かを思い出しそうな。

    その次の瞬間、たぶん自分が赤ちゃんだった時の記憶?なのかわかりませんが、多分そうだと思われる視界が目の前に広がっていました。(たぶん、暗闇の中で、目は閉じていたと思います。)実家の部屋の天井と壁、タンス…そして覗き込んでくる父と母。その視界は、たぶん私のものだったとは思うのですが、そこに私はおらず、ただ見ている経験だけがありました。音もなくて、見えていたものに特に区切りがなく(ラベルがなく)、ただ一続きの一枚の絵のように見えていました。そして、穏やかなのに、とても瑞々しいというか、とても愛おしく感じました。そしてなによりも懐かしかったです。(といってもその時は私はいなかったので、これはあとでそう認識して言葉をつけたものです。)

    「あぁ、これかぁ。。。。!」と思った瞬間現実に戻ったのですが、そのとき(か、その直前なのかもしれません)身体中にものすごい違和感を感じました。何かのエネルギーのようなものがうごめいて、中心から末端に向かって抜けていくような衝撃で、とても恐ろしくなりました。そしてなぜだか過去の記憶を思い出し、それが特にいい思い出ではなかったのにも関わらず、「この人生が全部嘘だったなんてそんなの嫌だ!」と強く思い、そのエネルギーの動きに断固抵抗したらそれは収まり、いつもの現実に戻ってきました。

    あれは、もしかしたら個人の凝縮したエネルギーが抜けていくところだったのかな。。などと思うのです。そしてそのエゴが、自分が消えるのをすごく恐れて拒んだように感じました。エゴって、消滅させられるのをすっごく恐れているんだ。。。と、その後心臓をドキドキさせながら思いました。この現象は少し前にも一度、それも夜中に起きた時に起こりました。

    ちなみに、赤ちゃんの頃の視界から見ていた景色は、本当に懐かしく、同時に、あれ、こんなに普通のことだったのか。。。!という、ちょっと拍子抜けする感じもありました(笑)
    それと同じような感じを、加湿器の音を聞いた時にも感じました。

    この体験は、非二元を少し垣間見た(という表現は適切ではないかもしれませんが)と思ってもいいものなのでしょうか。
    最近、あゆかさんのブログを参考にしながら、経験に寄り添っていくことを試みているので、その体験がその入り口だったのかな?と思ってコメントをしてみました。
    長くなってしまい、申し訳ありません。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      kariさん、こんにちは☆

      私が偉そうに判断できる立場じゃないと思いますが、でも判断しちゃうと(笑)、いわゆる一瞥体験ぽい感じがとってもしますね。主体が存在しないにも関わらず、これだけ自分が存在すると深く信じ、多くの信念や執着(夢は愛する人、ものなど)のエネルギーを今まで大切に集積(=自我)してきていますから、それが消えることへの反発もすごく出ることがあります。(私もありました)

      でも、なんだかとても良い感じですね♪ なんか嬉しいです。ふふ。

      ただ、kariさんはそんなことしないかもしれませんが、念のためその“状態”が続くことが非二元の具現化ではないんです。(私はしっかりはまって、それを求めてしまいました)

      「穏やかなのに、とても瑞々しいというか、とても愛おしく感じました。そしてなによりも懐かしかったです。」

      いつもこれが自分であるとはっきり疑いようがなく“体験的に”分かっていれば良いですよね。これはいつも呼吸より近いところにありますよね?

      また、勢いで聞かれていないことも書いてしまいますが、個人の凝縮したエネルギーが突然なくなることもあれば、徐々にシフトしていく場合、アジャシャンティが言うように、マインド、ハート、ガッツのレベルのシフトが順不同にあったり、シフトのパターンもいろいろです。

      恩寵が自然にどう現われていくのか、今後の展開が楽しみですね♪ 

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      返信
  10. kari

    あゆかさん、お忙しい中、私一個人(個人はいないとしても。。!)の体験に対してご意見をくださって、本当にありがとうございます。

    なるほど…やっぱりあれは何かそんなような体験だったと思って良いのですね。
    あの時、エゴの抵抗が凄まじくて本当に怖かったことと、同時に「なーんだ、私(エゴ)は結構自分のことや自分の人生が好きなんだ」ということに気がつき、「今までの何もかもが別にあれで良かったし、そのまんまでいいんだ」というような気持ちにもなったので、何だかもう目覚めなくてもいいかなぁという気分にもなってしまいました。

    そして、今日ボケーっと散歩している時にふとあの抵抗感を思い出し、自分ってものすごくエゴの強い人間なんだなぁ…と思ったのですが、「あれ?でもそんなにエゴが強くない状態のときの自分もいるよね?…そうか、エゴっていうものが存在するわけじゃないし、エゴってつまり”私”のことだし、エゴが私の中にあるわけじゃない。つまり私のものでは有り得ない。エゴもただ湧いては消える現象に過ぎないんだ。。」という気づきがきて、なんだかすごく軽〜くなりました。
    よく考えてみれば、あゆかさんのこのブログのエントリーに書いてあることそのものですよね。頭ではわかっていたつもりだったのに、今日やっと腑に落ちました。

    あゆかさんのおっしゃってくださったように、あの体験した状態をまた求めてそこに留まることを目指さずに、あの世界がいつもここにあること。。それが自分であることを知りながら、日々の中で、思いついた時には経験に寄り添うことを続けて行ってみようと思います。

    私は実はまだアジャシャンティさんの本なども読んだことがないのですが、そういった方々の本などもこれから読んで少しずつ勉強もしてみようと思います。

    返信も長くなってしまい、申し訳ありません!本当にありがとうございました。
    あゆかさんのご活躍を応援しています☆

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  11. popo

    popoです。
    何度もすみません。
    酩酊状態での失態(←と思考がレッテルを貼って、後悔の感情が湧いているものとでもいいましょうか)
    についてとか・・・・・あれこれ考えているうちに、

    あれれ???
    思考・感情・行動が単に湧いてくるものであるなら、
    どかからどこまでの思考が自我の囁きになるのかしら?
    というか、単に湧いてくるものならばそもそも自我の囁きってあるのかしら?

    っていう疑問に突き当たってしまいました。

    う~ん、分らんけど・・・もしかしたら途中駅みたいに自我経由で瞬時に湧く思考もあるのかな?
    今までは、例えば自分のしたことを後悔して「バカな奴」って言ってくるのが自我の声(?)みたいな解釈していたような気がします。

    この件についても、機会があれば教えてもらえると嬉しいです。
    ありがとうございます。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      popoさん、こんにちは☆

      ごめんなさい!いまいちご質問がよく分かりません。どこまでが自我で、どこからが自我ではないと知りたい?とかそんな感じでしょうか? あともう一つ、疑問が解けて何がクリアになれば良いのでしょうか? 自我とは単に感情や思いの集積です。で、その所有者は存在しませんね。

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      返信
      1. popo

        改めて私は自我のなんたるかが全く解かってないってことが分り(汗)、顎が地面に落ちた感じです。

        続けて的ハズレな質問になるであろうことお許しください。

        自分=自我であり、主体がないのだから自分がエゴを持っているわけはない。
        と書かれているにもかかわらず、
        あゆかさんの仰る通り、私は自分の頭に沸く思考のどこまでが自我で、どこからが自我ではないのかという感じのことを知りたかったのです。矛盾もいいところですね(笑)。

        長年、自分が自我というものを自分の中にある得体の知れないやっかいなものとして理解してきたからこんな変な質問になってしまっているのかもしれません。

        主体はなく「ただある」。
        だから、自我についても腑に落ちたらいいのにと思いつつ、
        自我の所有者はいないとなると、正直ちんぷんかんぷんになってしまうのです。

        自我は感情や思いの集積とのこと。
        それがある意味個性を創りアイデンティティを形成するとか思っていましたし、それらの集積から推測したり反応・判断したりすることもあるように思っていたのですが・・・
        それらの感情や思いの集積は「ただある」にあり、個の量子フィールドの中にあるわけではない。ということでしょうか?

        また質問がボケてしまいました。もっとも知りたいことは、
        <思考も感情も衝動・行動も単に沸くものであり、自我(=自分)が創る思考などはない。>
        であってますか?です。

        非二元初心者ゆえトンチンカンな質問ですみません。

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  12. りょうこ

    あゆかさん、はじめまして!
    以前からこちらのブログや、YouTubeで拝見させていただいておりました。
    あたたかくわかりやすく優しいお言葉にいつも癒やされています。ありがとうございます。。。
    今回の記事にある
    >「私がいる」という思いとその感覚があるだけで、それ以外には何もないんです。

    その思いと感覚でじゅうぶん「私はいる」という証拠になってしまってる自分がいます(なんか文が変ですね…笑)
    自分以外の思いや感覚も味わうことがあれば、いろんな思いや何やらがこの空っぽな体に入っては消えてるんだな~、って思えるんですが。(「思える」という言葉がもう、ずれてる気がしますが)

    他にも本当は何も分離してないというのも?ですし、
    今在るものしかない?例えば後ろ、見えてない部分はない、というのも(これはあゆかさんが仰っていたものではないですが)切りがないくらい疑問が…。

    しかもそれらはもうすでに明らかで、気づくことじゃない、得られることでもない…
    ますますわかりません!(笑)
    すみません、初めてなのにこんなに書いてしまって(>_<)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      りょうこさん、ありがとうございます☆

      最初はすごく混乱と???の山に埋まってしまうと思います。私もほんとうに多くの疑問、混乱がありました。といっても、もちろんすべてが分かったわけでもなく、逆に何も分からないということがよくわかってきました。あはは!ご自分から沸いて来る好奇心、探究心のまま動いていれば、少しづつ真実が見えてくるかも知れませんね♪ (ただ、理解が思いにはまっているのか、ちゃんと経験に基づいているのかは、見ておいたほうが良いかもしれません。)

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      返信
  13. ayukablog 投稿作成者

    popoさん、こんにちは☆

    いえいえ、非二元は、話すほうも質問するほうもけっこう支離滅裂な日本語になりがちですので、まったく大丈夫です。

    >それがある意味個性を創りアイデンティティを形成するとか思っていましたし、それらの集積から推測したり反応・判断したりすることもあるように思っていたのですが・・・
    それらの感情や思いの集積は「ただある」にあり、個の量子フィールドの中にあるわけではない。ということでしょうか?

    個性やアイデンティティも分解すれば、やっぱり思いや感情、感覚ですね。自分は外交的、自分は内気だというのも、よく観察してみれば、思いや感覚、感情でできていると思います。

    また、「ただある」と個の量子フィールドは分けられないですよね? 大海と波が分けられないように。(これは例えであって、そういう風になっているという意味ではありません)

    非二元のたぶんもっとも難しいところは、これはこれ、というように理論的に割り切って説明できないところでしょう。自我自体も空と色の非二元であって、空の観点からすれば、気づきの意識そのもの、分離のない、現われては消えていく実体のないものです。でも、色の観点から見れば、明らかに個性をもった人(現われ)がいて、そこに個人のフィールドがあります。ただ、それでも主体はやっぱり不在ですが。

    長くなりました。今日はこのへんで、失礼しますね♪

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    返信
    1. popo

      お返事ありがとございます。書いてくださったこと凄く解り易かったです。
      私もあゆかさんのように、自分の思考や感覚感情などをじーっと観察しながら少しずつ理解を深めていきたいと思います。ありがとうございました。

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      返信
  14. Coco

    あゆかさん、いつもありがとうございます。
    このブログでは、わかりづらい部分を言葉を尽くして説明してくださってとても感謝しています。

    で、私の質問なんですが、「魂のケア」の方で書かれた「自分ワールド」のお話についてです。
    話が非二元になりそうなので、こちらにコメントさせていただいてます。

    >中立した世界が自分と分離して存在しているという錯覚をみんなシェアしているんです。でももし、中立した世界があるとしたら、観察者が一人もいなくても、地球がくるくる回っていないといけません。

    >で、自分ワールドがあるだけなんですが、分離はないんです。幻想です。自我の目線で捉えるか、全体の目線で捉えるかなんです。

    ということは、自分ワールドと分離した世界はないので、観察者が一人もいなければ、地球が回っていることはない、ってことですか?
    観察者がいない、ということは、全体だけがある、ということだと思うのですか、そうだとしたら、「全体の目線」では、「世界」も「くるくる回る地球」もない、ということになりますか?それが「空」と表現されているものですか?深い眠りについているときは「自我」が消え「世界」も「肉体」も存在しないと言われるのは、そういうことなのでしょうか?

    また、今目の前で起こっていること、知覚(見たり、聞いたり、感じたり)していることだけがすべてで、他はすべてイメージだっていうようなことも聞きますが、この場合、例えば、前方から歩いてきた人が自分の横を通り過ぎて自分の視界から消えたら、その人は存在しない、ということなのでしょうか?あるいは、私が家でテレビを見たり家事をしている間、会社で仕事をしている夫は存在しない、ということなのでしょうか?例え、私が知覚していなくても、実際に、夫はその時間会社で仕事をしているはずだ(後から確かめたらやはりそうだった)と思うのですが、それも自分ワールドが創り出している「イメージ」ということなのでしょうか?

    こういうことは体現しない限り絶対にわからないことだということは「わかっています」が(笑)、なんとか理解したいという自我の欲望を抑えきれません(苦笑)。
    おそらく、随分的外れな質問だとは思うのですが、何かコメントいただければ幸いです。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Cocoさん、こんにちは☆

      優しいお言葉をありがとうございます!さて、ご質問のほうですが、これはコメント欄でお返事をするのはちょっと大変といいつつ書いてしまおう。

      >ということは、自分ワールドと分離した世界はないので、観察者が一人もいなければ、地球が回っていることはない、ってことですか?

      お分かりかもしれませんが念のため、観察者と書きましたが、“者”ではありません。観察意識があるだけですね。そして、地球にしろ何にしろ、現象はすべてこの意識の中に現われてきますよね。この気づいている意識、純粋意識、全体なんと呼んでも良いですが、これの外に何か存在するか?とどんなに考えても、考えの域を超えることはできません。

      そして、観察意識と観察されるものは分けることができませんので、中立した世界というものはどこにもありません。独立した中立の世界を経験している人は一人もいないです。主体と客体が分かれていて始めて、中立の世界ができるわけですね。

      ここが腑に落ちないとどうしても二元的な発想で考えてしまうかと思います。

      で、

      これは一瞥体験しないと分からないよね~みたな話ではなく、思考を通さずにきちんと自分の経験を見ていけば、見えてくるはずなんです。

      >私が家でテレビを見たり家事をしている間、会社で仕事をしている夫は存在しない、ということなのでしょうか?

      これは、ちょっと上の話とはまた違う観点になります。まず、個の私を軸に考えないほうが良いかなと思います。そうしてしまうと、唯我論に陥る可能性があるからです。(個の私の思い、見えているものがすべてだ)また、個の自分を軸にしていると時間と空間があることが前提になってしまいます。

      なので、気づいている意識(←これが認識されていないとまずいけないのですが)を軸にして、その中に現われるものだけに意識を持っていきます。例えば、目をつぶると体や部屋の様子は見えません。でも「体がある」「部屋にいる」という記憶と思いが沸いてくるでしょう。でも、思考がいうことではなく、起きている経験だけに集中してみます。もし、それらの思考がなければ、自分に体があるとか、自分がどこにいるのかさっぱり分からないはずです。そこには体も部屋もありませんね。

      存在するしないよりも、思考を通さずに直接の体験を通して起きていることだけがある、という見方からはじめてみてはいかがでしょうか?

      しかし、個人的にはこういう話よりも、やっぱり「自分は何か?」を先にしっかり認識したほうが良いのになぁと思いま~す♪

      いいね

      返信
      1. Coco

        あゆかさん、丁寧なレスポンスをありがとうございます。

        おかげさまで、なんとなく、わかってきました。
        いえ、真実がわかったのではなく、なぜ自分がこういう質問をするのかがわかってきたということです(笑)。

        思えば、私の質問に対する答えは、すでに、あゆかさんのブログやコメント欄で何度も繰り返されてきたものですよね。でも、何度でも聞きたくなるし、何度でも答えて頂きたいです(笑)。困ったもんですが、非二元のメッセージって身もふたもないですから・・・(笑)。

        「思考を通さずに直接の体験を通して起きていることだけがある、という見方」、そして「『自分は何か?』を認識すること」、これに尽きるな、と思いました。ただ、「自分は何か」と知りたがっている「これ(としか言いようがない)」がどこにいるのか探してみても(探しているのは誰だ?)どこにも見つからない(本当に見つからない。体の中にも頭の中にも、外側にも「自分」っていないんです!)ので、いつもここで止まってしまうんです。で、その正体をなんとか頭で理解したい、と思うわけです。

        でも、なんかスッキリしました。とりあえず、ダイレクトパス、やってみます。そこにある純粋意識。「気づき」と「気づかれているもの」に分離はない、ですね。あ、わかったって気になったわけではありませんよ。スッキリした、ってことです。何かわかればそれでよし、何もわからなくてもそれもよしって、感じかな。

        あゆかさん、ホント感謝です(*^_^*)

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  15. ひとみ

    不幸でありつづけようとしている

    それが自分だ!と気付きました!

    ヒヤッホゥ〜!です。( ´ ▽ ` )ノ

    いいね

    返信

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