“なにものでもない”視点

私のもう一つのブログ「魂のケア」のほうに先日、“自分ワールドがあるだけ”という記事を書きました。(読んでいない方、読んでみてくださいね♪)

今回は、ちょっと関係することを書いてみようかな~と思います。

自我の視点に立てば、自分の思いや感情や分かるけど、電車で隣に座っている人が何を考えているかなど分からない。だから、私と隣の人は分離している。

というのはごく当たり前の結論ですよね。というか、そんなこと考えることもないでしょう。

自分のワールドしか知らない自我の視点というのは、どうしても視野が狭く、孤独なものになりがちです。

また、いつも思考のフィルターを通しているので、ものごとをありのままに見ることを知りません。

“私はそれなりにいけている”、“私は才能がない”、“世界は私の遊び場だ”、“世界は怖いところだ”・・・などのビリーフやセルフイメージはもちろんのこと、

これは椅子だ
私は人間だ
私は男だ

というのも、刷り込まれた知識です。

今、部屋の中を見渡して、瞬時にレッテルを貼っていることに気づくでしょう。カーテン、コンピューター、椅子、机、本棚などなど。概念なしにモノを見ていることは、あったとしてもごく稀なはずです。

あるとき、“みかん”という思いがなくなれば、みかんは存在しないと言い張る人に出会いましたが、それぐらい私たちは“まず概念ありき”が当たり前なんですね。

また、自我の意識は、いつも対象物ばかりに行っています。考えている内容、感じていること、見ているもの、聞いているもの、すべて捉えることができるものばかり。

そして繰り返しますが、それらのすべてにレッテルや意味や解釈がつく。

これが自我の視点ですね。

でも、自我が唯一すっかり忘れているもの。

あまりに見過ごしているから、どんなに指摘されても探し回ってしまうもの。

呼吸より近くにいつもあって一度も消えたことがないもの。

それは、

そもそもそれらのすべてにいつも「気づいている意識」(表現はなんでも)

唯一変化せず、常にあるもの。

色も何もなくまったくどうやってもつかめないもの。(ものじゃないけど)

でも、そちらのほうへ視点がシフトしていったとき、狭い自分ワールドの中には誰もいなくて、時空のない無限の愛の海原だっと知る。

深遠で、底なしに無限。分離なんてまったくもって不可能。

アジャシャンティは、“悟りとは自我の歪曲した視点を通して世界を見ないこと”とも言っています。

思考を通してみる限り、ありのままの現実(分離のない生命の流れ)は、常に歪曲(投影)されてしまいます。

単にいくつかの思い込み、ビリーフ、観念から抜け出すのではなく、私は人間だ、日本人だといった概念もすっかりない、「私はなにものでもない」という視点に立つこと。

そのときはじめて「ありのまま」が顔を出してくるでしょう。

ただこれを頭のレベルの理解でやってしまうと、「私はなにものでもない」という新しいビリーフを作るだけです。単なる新しいフィルター。

でも、「私はなにものでもない」ことが本当に腑に落ちれば、同時に「私はすべてである」という矛盾がすんなりと入ってきます。

空であって、すべてである。

個の私の狭いワールドは、同時に時空のない無限性でもある。

有限と無限がどうして同時にあり得るの?

変化するものと変化しないものが一つって?

常に真実である私(I AM)と真実を深めていく仮の私(self)を同時に生きること。

みごとに矛盾した生命のダンス♪

そして、このプロセスは永遠に終わらない・・・・。

 

 

 

“なにものでもない”視点」への14件のフィードバック

  1. とも

    あゆかさん
    いつもありがとうございます(*^^*)
    毎回とてもわかりやすい的確な表現に脱帽です。
    アジャシャンティの言葉、すごく心に響きました。
    あゆかさんのダイレクトパスでその視点というか気づきの意識を知ることができ、アジャシャンティの言葉も響きます。
    ありがとうございました♡
    これからもよろしくお願い致します。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ともさん、こんにちは☆

      アジャシャンティの言葉に共感してくださって、とても嬉しく思います。

      ありがとうございます♪

      いいね

      返信
  2. ゆうた

    ブログをよく拝見させていただいていますm(_ _)m
    僕は今まで、よく覚醒者と言われる人がコントロールが無いと言うのに、「何もしないでください」や「全てを観照してください」や「「私は在る」に居続けてください」と発言されてるのを見て、それらをするコントロールはあるの?と疑問に思っていました。
    ですがこの前理解が起きました。
    「何もしないこと」も「全てを観照する」ことなども全て起きていることだと理解がありました。「自分」が「何もしない」ようにしたり、「全てを観照する」ようにしたりするのではなく、それらもやはりコントロールの外にあってただ起きることなのだと理解がありました。
    そして結局私は何もしていなかったし、これからも何もしなくていいんだという理解も起こりました。
    そして全てはそれぞれがそれぞれの役割を果たしていて今完全に完璧なんだと理解が起きました。
    もしかしたら間違った理解なのかもしれませんが、そんな理解が起きました。
    これは間違った理解なのでしょうか?
    例え変な理解だったとしても、それもまた完璧という理解が起きているのですが…

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆうたさん、こんにちは☆

      はい、ゆうたさんのような疑問をもたれる方もとても多いかと思います。中には、まるで誰かが何かできるかのように言っているから、あのティーチャーはまだ分かっていない、と言う人もいますね。

      でも、それは“右手を挙げてください”と言っているのとある意味同じことで、それを聞いた人はできるわけです。もっと非二元的に言えば(笑)、“右手を挙げてください”という言葉に反応して、“右手を挙げよう”という思いが瞬時に起こり、右手を挙げるという動きが同じく瞬時に起こったんです。そこにはどこにも主体はなく、思考と思考のダンスが起きたんですね。

      私の先生のルパート・スパイラは、よく“abiding with awareness”と言っていました。気づいている意識に居てください、というような意味です。私はこれをやり続けましたし、ダイレクトパスにもとても導いてもらえたと思っています。

      で、それも主体なしにそういうダンスが起きたんです♪ アジャシャンティの先生は、みんながそれぞれのダンスをする、と話していたそうです。本当にその通りですね。

      長くなりました。これ、次の記事にしちゃおうかな(笑)。

      いいね

      返信
  3. ゆうた

    ご返事ありがとうございますm(_ _)m
    本当に主体の無いダンスですね 笑
    誰が何を言っていても、していても、その人個人がその行為を決定してしているのではなく、全体の神、タオと言われるものが人間だったり動物だったり物質であったり現象の全てを媒体として現れているだけという感じですもんね。

    僕は「◯◯しなさい」というようなメッセージに対して、その自由意志はあるの?という疑問があったのですが、この前なんとなく買ったラメッシ・バルセカールの本を読んでいたら凄く深い理解が起きました。
    ラメッシ・バルセカールは僕が疑問に思っていたことも含めて、結構徹底的に全てにおいて全く自由意志がないということを説いているタイプの人だったので、そんなラメッシが僕にはちょうど良かった感じでした。
    どんなティーチャーも本質は同じことを言っているのですが、それを聞く探求者の肉体精神の個性に合うティーチャーっていうのがあるのかなと思いました。

    もし記事になったらまた楽しく読ませていただきます 笑

    いいね

    返信
  4. ゆか

    初めましてこんにちは。ブログ拝見しました。ずっともやもやしてわだかまっていたのが一掃されて清々しい気持ちでいっぱいです。いつの間にかエゴの罠に捕らえられてしまっていたのでした。今は驚くほど思考がおとなしくなっています。でてきても以前のように躍起になってじたばたすることがなくなりました。もうこのままでいいんだ、何もしなくていいんだと思うことは本当に心から安らげます。本来の自分でいることは楽なことだったんですね。あゆかさんありがとうございました☆話は変わるのですがだんだんと食べるものも意識の変化があるみたいで…。私も肉類、カフェインはうけつけなくなりました。だけど砂糖や乳製品などは好きでたまに食べてしまいます。他にもスピリチュアルでは食べないほうがいいものが色々あって悩んでしまいます。あれもこれもと制限されると自由じゃなくなって窮屈さを感じます。外食も難しくなります。あゆかさんは食生活どうなさってますか?ブログ楽しみにしてますね。ありがとうございました♪

    いいね

    返信
  5. ゆき

    あゆかさん、こんにちは!

    「魂のケア」の記事を久しぶりに拝見して、気づいたのですが、

    カウンセリングの講座やボランティア等をされている、
    ハートサークルは、一般社団法人になったのですね!!

    おめでとうございます♪♪

    法人の新しい名前、カッコイイ~創造性!を感じます。

    空間のどこを切り取っても、溢れてくるような、創造性を感じる。

    ハート~の、ハートの次のことば、レジリエンス?
    新しく、日本語を覚えました!

    ところで、

    “自分ワールドだけがあるということ”

    の記事を拝見していて、以前からずっと不思議に思っていたことで、すごくお伺いしたいことがあったのですが、

    〉なので、み~んな違う世界に住んでいるんですね。つまり、

    〉経験のみでしか世界は把握できない
    〉経験はいつも個人的
    〉よって、
    〉私たちは個人的な世界しか知らない

    この自分ワールドと自分ワールドは、つまり個人と個人は、いったい、どのようにして、お互いに、コミュニケーションしているんでしょうか?

    たぶん、とてもシンプルな。

    このことが解明できて、自我の思考でも分かるように説明できたなら、

    自閉症スペクトラム(ASD)と診断されているお子さんたちを(大人も含めて)、周囲の「病気」や「障害」という視点もすべて包括して、そのまま、みんな違う世界に住んでいる、ってことが、

    日本の社会でも、誰もが、理解できるのにな。

    どうやって、伝えたらいいんだろうか、と思いました。

    たぶん、とてもシンプルなところで、コミュニケーションしているように感じるんですけれども、どうやって、世界と世界は、コミュニケーションしているんでしょうか?

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    返信
    1. エイジ

      あゆかさんでは有りませんが~私の観念を書きたいと想います。

      >たぶん、とてもシンプルなところで、コミュニケーションしているように感じるんですけれども、どうやって、世界と世界は、コミュニケーションしているんでしょうか?

      1・私のワールドの融合は相手を主観的で感じ~自らを客観的に感じる。

      (この世の概念の反対~パラドックス)

      2・なるべく自ら主張~しゃべらないで聴く事だけに専念します。

      このことだけで~意識の共有が出来ます~簡単です。

      ひとつの意識

      これが出来ない人は頭のマインドの観念が外せないで~自我が強く~常にコミュニケーションが取れなく~孤立します。

      聴く事はアート

      愛は理解

      相手をとことん理解することは愛そのもの

      そう感じます

      愛こそすべてですね。

      感謝いたします。

      いいね

      返信
      1. ゆき

        エイジさん、ありがとうございます!よく分からないけど、ハートで感じてみますね~♪
        あっ、ハートは、コミュニケーションする必要がないっか。どこにでもあるから。

        いいね

  6. Mana

    あゆかさん、こんにちは♩
    いつもハートに爽やかな風が吹き抜けるようなメッセージをありがとうございます音声
    あゆかさんの影響で、アジャシャンティの本を拝読中ですが、すごく読みやすくて、ご紹介いただき感謝です(^^)

    今回のブログを拝見する前に会っていた友人と、共通の知人について話していると、
    わたしが その知人に対して持っている印象と、その友人が持っている印象が別人のように違うことを知り、
    良くても悪くても、その印象は 自我のフィルターから勝手に作り上げたものなんだと、気づかされたところでした(^^)

    非二元的な見方ですと、
    例えば、相手に対して 嫌な感じがする部分を見つけたら、
    「それは自分の中にもあるから、氣になるんだ」と、投影を取り戻すなど 心理学的な分析も使わずに、

    ただ「今、“嫌だ”という思いと感情があったんだ。そしてその思いも感情も、気づきの意識によって経験され、受け入れられている。」
    という感じで癒しが起こっていれば、ひとつ浄化したことになりますでしょうか(^^>>

    いつもありがとうございます。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Manaさん、こんにちは☆

      アジャシャンティ良いですよね~♪

      さて、そうそう、そういう気づきが増えてくると、思考の催眠から抜け出せて行きますね。

      >ただ「今、“嫌だ”という思いと感情があったんだ。そしてその思いも感情も、気づきの意識によって経験され、受け入れられている。」
      という感じで癒しが起こっていれば、ひとつ浄化したことになりますでしょうか(^^>>

      あまり、非二元的にはこう、セラピー的にはこう、みたいに考えなくて良いかなと思います。“これもただ気づきの意識に現われた現象だ~”という感じで概念で捉えてしまい、逆に抑圧が大きくなって苦しくなってしまっている人を何人も見ていますので、心の深いところで感ずるやり方に従うのが良いのかなと思いますよ。あるときは、単に感じるだけ、あるときは心理学やセラピー的なアプローチが良いかもしれません。

      強いて言えば、内なる静けさの声を聞くことがある意味非二元的?

      もしかすると、Manaさんのご質問の意図をめっちゃはずしているかもしれませんが、上記のような方が多いので、とりあえず書いちゃいました。

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      返信
      1. Mana

        あゆかさん、こんにちは♫
        とっても分かりやすいアドバイスを、ありがとうございました(*^^*)
        なるほど、なるほどぉ~♩♩
        その瞬間瞬間の感ずるままに、柔軟に感じてゆけば良いのですね(^^)!

        感謝☆感謝☆

        いいね

  7. sora

    いつも、ありがとうございます。
    溝口さんの記事はまるでセラピーのように、読むと心がスーッと楽になります。
    ありがとうございます。感謝。

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    返信
  8. みー

    こんばんは、いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
    質問ですが、記憶とは、一体なんでしょうか!?
    よく非二元では、時間がないと言ったりしますね。

    けれど、あのときの、あの記憶、あの過去。。
    確かに確実にあったように感じるけど、たった今それが湧いている。。?

    過去がないと言ったら、記憶そのものはデタラメ(本当にあったことではない)ということになりますよね??記憶は今湧いたことであるから!

    お時間があれば教えてください。
    よろしくお願い致します!

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