死んだら意識はどうなるの?

さて、死んだら意識はどうなるの?
もし、気づきの意識しかないなら、隣の人の考えがどうして分からないの?

といったご質問をよ~く頂きます。しごく最もなご質問かと思います。私もそんな疑問を抱いていました。

ですが、たいていの質問がそうであるように、これらの質問も「個の私の視点」がベースになっているんです。肉体の自分が自分であるというか。で、その視点でいる限り、この謎は見えてこないでしょう。

ということでまず、「私がいない」というメッセージをがっつり見てみませんか?

体、思い、感情はあるけど、私はいないんです。

それなりに多くの人の勘違いは、個という感覚がなくなるまでそれは分からないと思っていることでしょう。でもそんなことはなく、ちゃんと経験を見ていけば良いだけです。(=ダイレクトパス)

体はありますよね? 思いも感情、感覚もありますね? では、その所有者はどこにいるでしょうか?

よ~く見つけ出してみてください。こんなに「私がいる」感じがあるのですから、どこかに体や思いや感情のように掴める「わたし」がいるはずです。

じっくり探してみませんか?

さて、ときどき、「思い、感情、感覚、体」の総称、集まりが「わたし」なのでは?という人もいます。確かに一般的にそれを自我と呼んでいます。

でもその場合、例えばある土地を「東京」と呼んでいるのと同じですね。実際にあるのは土地だけです。または「会社」も、実際にあるのは建物や人であって、会社があるわけではないです。

ので、総称である「私」も「東京」や「会社」と同じように単にレッテルです。もちろん、レッテルは便利ですが、実体ではありません。

じゃぁ、話を戻して、それらの所有者はどこにいるのでしょうか?

私の体、私の思い、私の感情、私の意識・・・・・

その所有者は?

そう、どうしても見つからないはずです。

ということは、私の思いがあるのではなく、思いがあるだけ、私の感情があるのではなく、感情があるだけ、私の体があるのではなく、体があるだけ。

そして、“私の”気づいている意識ではなく、気づいている意識があるだけですね。

では、体、思い、感情(感覚)、気づいている意識のなかで、唯一つかめなくて、変化しないものはどれでしょう?

もう答えは知っていると思わずに、
また頭で考えずに自分の経験を探索してみてください。
これが体験的な理解に結びつくんです。

ここがしっかり体験的に認知されたとき、あらゆる質問が消えていくはずです。

私がいないのに「見る」が起きている
私がいないのに「聞く」が起きている
私がいないのに「感じる」が起きている

経験の所有者なく、あるのは「気づいている意識」だけ。

そこに見る、聞く、感じるというすべての経験、そして見る対象、聞く対象、あらゆることが現れて、そして去っていく。

でも、気づいている意識は変化せず、去っても行かない。

そして、あなたは認識するんです。体が去っても「気づいている意識」であるあなたは決して去らないことを。時間なき「いま」にただあることを。理解するのではなく、深いところから分かるんです。(生まれもしなければ、死にもしない)

そしてまた、認識するんです。自分は「気づいている意識」という全体(空)でありながら、同時に「個」(色)であることも。全体と個という二つがあるのではなく、この対極がなんの矛盾もないことに。

空であって色であって、不変であって変化であって、全体であって個であって、気づいている意識であって、気づかれているものであって、それらは決して分けることができない、(二つではない=ノン・デュアリティ)

その摩訶不思議な「それ」があなたであることを。
 

☆☆☆☆

PS:私自身は、臨死体験をしたことがありますので、死んだら「魂の世界」へ行くというスピリチュアルストーリーを個人的には信じています。ですが、これも計り知れない壮大な“ストーリー”ですね。愛し、尊ぶべきストーリーです♪

死んだら意識はどうなるの?」への23件のフィードバック

  1. きゅー

    あゆかさん、いつも
    丁寧に丁寧に
    くりかえしメッセージを伝えていただいて
    ありがとうございます!

    もしかして、
    今って
    私なんですか?!

    変な日本語ですが(笑)

    私という主体がいなくて、
    体感する今のすべてがわたしと
    ひと続きなら
    今と言うこの空間は
    イコール私って
    ことじゃないでしょうか。
    というか
    体感的に
    そうなのですけど!

    うひゃー‼びっくり‼

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      そうそうそうそう(4回も言ってしまった)です!

      ルパート・スパイラも「The Now is ‘I Am’」と言っています。

      嬉しいです♪ ふふ。

      いいね

      返信
  2. anco

    私は毎日ウォーキングをしているのですが、変わりゆく景色毎にうつろう思考や感情を観察していると、本当に嫌になる程実体がなく、次から次へと波の様に湧いては消えていきます。その寄せては消えていく波のスピードは凄いものがあります。目に入るもの、花の香り、うるさいバイクの音、それにただ反応しているだけという感じ。それを今までは「わたし」が反応していると完璧に思い込んでいたけど、どうやらこの「わたし」というものさえもただの概念だと気づき始めたところです。思考や感情は本当にただ湧いてきている事はよ〜くわかったのですが、それでは、それらはどこから湧いてきているのですか?身も蓋もない言い方をすれば、ただの脳の電気的活動なんでしょうか。気づいている意識という概念がイマイチまだピンときません。湧いてきているベースの方の事を指しているのでしょうか?(脳活動?)それとも熟睡すると完璧に私はいなくなりますが、その状態の事でしょうか?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ancoさん、こんにちは☆

      ちなみに脳の電気活動で思考が生まれているという科学的証明はまったくなされていないんですよ。思考どころか、脳という物質がどうやって意識を持ち始めたかというのは、最先端の科学でも仮説しかないんです。一方、神経科学では、脳が思考を生んでいるのではない、という実験結果のほうがでているぐらいです。(BBC放送で「Secret You」という番組で放映されていたのですが、うっかりダウンロードし忘れました・・・・。

      さて、単純に「次から次へと波の様に湧いては消えていく」ことに気づいていますよね? その意識のことです。あまりにシンプルすぎるので、違うものを探してしまっているのかもしれませんね。

      気づいている意識を認識しないで、“すべては実体がなく、ただ反応しているだけ~~”とやってちると、虚無なところへ行ってしまいがちかもしれません。

      ので、現れては消えるものだけではなく、それに気づいている意識にも注意を向けてみてくださいね♪

      いいね

      返信
      1. anco

        返信ありがとうございます。
        脳科学や脳神経学のお話はとても興味深いですね〜。
        人間って、アイフォンのSiriが身体を持ったようなものなのかな〜なんてちょっと思っていますが、違うのかな〜?
        一人の人格を持っているように見えるけど、中には何も主体になっているようなものはいなくて、情報の集まりみたいなものかなと。
        どうしても未知のものをどこかに落とし込みたいという欲求が湧いてきてしまいます(笑)

        「次から次へと思考や感情が湧いてくるな〜」と気づいている側も思考の一種なのかと思っていましたが、違うのでしょうか?
        波と海の水は同じもの、映し出される映画とスクリーンは同じもの、などの表現はよくありますが、その「波」や「映画」が(湧いてくる思考や感情)というのはすごくわかるのですが、「海の水」「スクリーン」が、人間としては何を指しているのか、つかみにくいです。
        はっきりとこれだよ!と、言い切れない、言葉では理解できない部分なのかな〜?

        いいね: 1人

  3. いく

    あゆかさん、新しい記事ありがとうございます♪

    え!

    身体はなくなっても
    気づいてる意識はなくならない!?から
    わたしは死なないですって?!?!

    どっひゃー!です(笑)

    わたしは居ない、というのは

    身体はあるけど身体の持ち主はいない
    思考はあるけど思考の持ち主はいない
    感情はあるけど感情の持ち主はいない

    という

    「持ち主のわたし」は居ないというつもりでした…

    でも、当たり前のように
    思考が去り、感情が去り、感覚が去り、身体も去って(死んで)しまい
    さすがに身体が去れば、気づいている意識も去るはず…と考えてました。

    だけど「身体が去れば気づいている意識も去る」のならば、「身体が気づいている意識」になってしまいますよね。

    でも、でも

    身体の持ち主はいないんだから
    身体が去っても(死んでも)
    気づいている意識はなくならない!
    だから真のわたしは死なない!
    ここに在るまま!

    うわ!!
    これはかなりの衝撃です!

    うわ!うわ!うわ!おかしすぎます!

    非二元というものに触れて初めて天地がひっくり返りました!笑えました!(笑)

    同じく、先の方のコメントの
    「今がわたし」というのもどっひゃーです!そうなんや!すごいっ(笑)

    こんなふうに
    あゆかさんの記事に寄せられるコメントとあゆかさんからの返信のやり取りから、たくさんの刺激や気付きを得ています。

    数あるコメントに返信されるのは、あゆかさんはご面倒かもしれませんが、コメント欄のやり取りにより記事の内容からさらに具体的な深み、本質(?)に近づいていくようで、最近はコメント欄も楽しみにしています。

    ありがとうございます\(^o^)/

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      いくさん、こんにちは☆

      はい、イギリスにいるときは比較的お返事ができるのですが、日本に滞在中はできないときのほうが多いかもしれません。m(_ _)m

      腑に落ちられたようでなんだかとても楽しいです♪

      そうなんです。「今」がわたしであって、言葉を変えれば、「存在」がわたしであって、思考を超えた深いレベルで「存在」であるわたしがなくなることはないと“知って”いる感じでしょうか。

      そういう意味で、自我が「今」にいようと頑張るのではなく、今しかないことを認識し、そしてその「今」が自分であると認識できれば、それが本当のbe presenceですね。

      いいね

      返信
      1. いく

        日本とイギリスでは時間の流れが違うんですね。あゆかさんにお返事いただける貴重な機会に感謝です(o^^o)

        be presence
        素敵ですね!!

        関西でもカフェでのお話会があると嬉しいです♡

        いいね

  4. ayukablog 投稿作成者

    ancoさん☆

    なんとなく少し近づいて来たような気がします・・・。

    >「次から次へと思考や感情が湧いてくるな〜」と気づいている側も思考の一種なのかと思っていましたが、違うのでしょうか?

    そう、そこをよ~く見てみてください。気づいている側は言葉(思考)を持っていますか?それとも、思考があることにただ気づいているだけでしょうか?

    >波と海の水は同じもの、映し出される映画とスクリーンは同じもの、などの表現はよくありますが、その「波」や「映画」が(湧いてくる思考や感情)というのはすごくわかるのですが、「海の水」「スクリーン」が、人間としては何を指しているのか、つかみにくいです。
    はっきりとこれだよ!と、言い切れない、言葉では理解できない部分なのかな〜?

    はい、唯一つかめないものなんです。また、人間として何かにあたるということもないです。というより、そこに人間が現象として現れてきているんです。とりあえず比喩も忘れて(私もよく使うのですが)、すべてに気づいている意識が言葉を持っているかシンプルに見てみませんか?

    いいね

    返信
    1. anco

      あゆかさん、何度もありがとうございます。

      もしかしてもしかして、日常的に自分が不在になる感覚の時の事を言っているのですか?
      例えば、好きな音楽をヘッドフォンなどで聞いている時に、音と一体になって自分がいなくなってる時とか、美味しいものを食べて味を堪能している時に、自分自身が味になってしまっている感覚とか、ぼーっとしている時の自己喪失感とか、花の香りを嗅いだ時にその香りと一体化している時とか・・・
      もしもそれならば、本当に日常的に結構あって、でもやはりそれは言葉には表せない事で、「感覚」としか表現できない。決して追いかけて体験しようとしてもできないし、でも当たり前に誰もが日常的に経験している事。
      例えば、花の香りを嗅いだ時に瞬時に香りと一体化して、その後に、これは何の花だろう?とか、何の香りに似てるだとか、色々と後で定義づけをしていくけど、定義づけをする前の状態の事???
      かもしれない〜!となんか腑に落ちてきました。
      劣等生に根気強く説明していただき、ありがとうございます。
      あゆかさんの優しさが伝わってきます。

      いいね: 1人

      返信
      1. ayukablog 投稿作成者

        ancoさん、こんにちは☆

        いえいえ、ancoさんもまったく劣等性でもなければ、私も別に優しくもなく、たんに時間が今あるだけです。(本当は仕事するべきなんですが、なんとなく現実逃避をしている。えへへ。)

        さらに近くなってきた感じがします。一体化しているとか自己不在の感覚のときにより分かりやすいかもしれまえんが、いつもい~つもあるものです。そう、定義づけの前、すべての前からずっとあるシンプルに「ある」または「気づいている」意識です♪

        いいね

  5. みりい

    あゆかさん

    はじめまして。

    今朝方目が覚めた瞬間、毎朝眠りから目が覚める時のように「いつもの自分」に気づくはずが、普段通りのことが起きなくて、「私は愛だ」という感覚しかない事に気づきました。
    同時に「瞑想は私そのものだ」「私はあらゆる全ての可能性だ」「私は『空』(くう)だ」という感覚がありました。が、いつも思考が働く場所(自分で「脳」の働きだと関知している感覚?)は、どこにもありませんでした。

    それまでも自分は目覚めた意識で暮らしていると思っていましたが、全く新しい感覚でした。
    その後で、この記事を(数日前に届いたのに今頃)メールボックスに見つけて読んでいたら、記事の途中の「私の体、私の思い、私の感情、私の意識・・・・・」という文脈で、あれ?「(気づきの)意識」だけは体・思い・感情とは異質で、「ある」モノなんだけどな?とふと思って、先を読んだら、あぁやっぱり「気づいている意識」は「所有者なく、変わらずただある」、「あれ」が「それ」だともわかりました。

    ただ、今朝の体験は、これまで言葉で何度も聞いた事のある「私はいない」という表現から(私が個人的に)受け取る感覚とは別の感じがしました。
    「いない」を通り越して(?)、(全体である)「わたし」が「いる」、という感覚だけがあったからです。
    イメージかもしれませんが、イメージだと言うにはあまりにも強烈な感覚でした。(今は薄らいでいますが感覚の「味わい」は変わっていません)

    「これまでとは違うわたし」が生きているみたいな感じです。
    (今ふと浮かんだのは「“統合”が起きた?」??)

    しばらくセラピーや瞑想やスピリチュアルから離れてどっぷり「自分のリアルを生きて」いて、時々ネットには触れていたけど、このような記事を探しては読む・・・みたいなこともなくなっていましたが、今日メールのリンクからこちらのブログに飛んで来てコメントを読んで、あ、感覚的にわかる人たちがどんどん増えているんだ!となんだかうれしくなりました。
    きゅーさんの「今がわたし」も、「そうそう!」という感じで、その表現の新鮮さに触れた事がうれしいです。

    あゆかさんのブログという「場」は、言葉に表現する事が難しい感覚がとてもわかりやすく表現されていて、読んでいてワクワクします。
    素晴らしい記事を情報空間に置いていてくださってありがとうございます!
    あゆかさんが新規投稿された記事がメールボックスに届くような設定を、自分でいつしたのかも忘れてしまい、過去記事もまだ読んでいませんでしたが、今日ここに来てみたら、ブログが宝の山に見えます!
    これからブログ記事を遡って読ませて頂きたいと思います。

    私も今日の「気づき」のことを、4年くらい放置していた(笑)自分のブログに書いてみました。
    http://happystream.ti-da.net/e8458753.html

    書きたいことが溢れてくるような感覚があって、さらにこの続きも書いてみようと思っています。^^
    (アウトプットしたい、開きたい、というような衝動が起こっています。)

    なんだかできるだけ正確な表現をしようと思うと言葉が多くくどくなっちゃって・・・長々とすみません&ありがとうございます!

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      みりいさん、こんにちは☆

      わぁ、私とかなり似たようなシフト?気づき?をしていらっしゃる感じがして、共感の思いでブログの記事を読ませて頂きました♪ 

      そうなんです。私も「いない」よりも「あるI AM」という感覚?のタイプです♪ 全部私で知らないものはない、どこを見ても太古の昔(もちろん時間はないですけど)からずっといる私(I AM)みたいな。

      空に入るのではなく(入れないし)、すでに空(と同時に色)であることに気づくだけ。今にいようと頑張るのではなく、そもそも今しかないし、その今が自分だと認識するだけ・・・。

      衝動にまかせて、今後も臨場感あふれる素敵な記事を書いてくださいませ~。

      楽しみにしております!

      いいね

      返信
  6. mariana

    あゆかさん、こんにちは。
    教えてください。

    それでは、死後も私たちは、全体の意識の中で

    個々の意識を認識することが出来るのということでしょうか。

    あゆかさんが、体験された魂の世界では

    例えば、生前親しかった人の存在を感じることが出来たのでしょうか。

    いわゆる死というものを、どう捉えていらっしゃいますか?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      marianaさん、こんにちは☆

      死後も「私たちは・・・」と考えたとたん、ストーリーの世界の中でお返事することになります。自我の視線で「死」を語ることになりますね。それはそれで、一つのとっても深いテーマだとは思います。「死」を真剣に考えれば、どうしても「生」について考えさせられますし。また、個の私自身は臨死体験をしたことがありますので、実は死ぬのは怖くないし、楽しみなぐらいです。きっと先に死んだ肉親にも会えるだろうと思っていたりします。(臨死体験の本もいくつか読みました)

      でも、それは壮大なストーリーです。

      非二元の真のわたしという観点からは、そもそも「わたし(I AM)」は生まれていないくて、なので当然死もなく、生と死というのは消えては現れる現象です。現象がどれだけ去っても、「存在」であるわたしは、そこにあり、生と死というものにはまったく無縁です。生まれて死ぬというのは、時空(幻想)があるところにしか生まれないストーリーですよね。でも、「存在」であるわたしは時空もなく、変化もなく、ただある(そして気づいている)んです。

      その両方が私たちの本質ですね☆

      いいね

      返信
      1. mariana

        あゆかさん、丁寧なコメントをありがとうございました。

        非二元については、いろいろな方の本やブログを通して、少しでも理解しようと
        してきましたが、分かるようで分からない。 
        永遠の謎のように思える時がある。

        でも、生も死もないということは、亡くなった私の母も
        実は、別の世界(魂の世界? 全体の領域?)で存在している
        ということでしょうか?

        私が、この幻想の(二元の)世界を去ったら
        母がこたつでミカンでも食べながら、早くここに入りなさい と
        迎えてくれるような、 そんなイメージが浮かびました。(笑)

        まだまだ、あゆかさんの言葉を追って行くだけで
        精一杯な私ですが、ここに真実があると感じています。

        いつか、あゆかさんの臨死体験のお話も
        聞かせてください。
        ありがとうございました。

        いいね

  7. issei

    > ~“二つがあるのではなく、この対極がなんの矛盾もないことに。”~

    “名表現”ですね。(^_^)

    私は、二つじゃないけど、二つでも(分離感覚も自然に)ある。これをひっくるめて、全体だ!などと、表現していました。

    これからは、“あゆか表現(名語録)”を、パクらしてもらうます。

    それにしても、死後の世界を信じていらっしゃるとは。。

    私も、鎌倉に引っ越した時分の12才の頃に、起きたまま、意識だけ、連れて行かれたことがありますが、、怖い体験でした。

    いいね: 1人

    返信
  8. Mana

    あゆかさん、こんにちは♫
    あゆかさんが解説して下さるダイレクトパスや、本も何度も読ませていただいているものの、
    どうも 概念で理解したつもりになって満足しようとしているトコロがあるような・・・

    それで、やはり肉体に“私”という感覚があるなぁと思っていたら、アジャシャンティさんの本に、ピッタリの表現を見つけました~!

    それは、<臍のくぼみらへんにある「存在のグリップ」と呼ばれる握りこぶし>
    と書かれてあった表現なのですが、
    以前から、恐れなどの解放が始まると、お腹が生き物のように動き出すので、自分の体ながらもおどろおどろしくも感じておりました(^^;

    そこで質問なのですが、この「存在のグリップ」も、EFTを地道にやっていくことで、やがては霧散していくものなのでしょうか?
    (ちなみにまだEFTは、マニュアル本読んで試してみてる段階です)
    もしくは、他にオススメのテクニックがあれば、いつかご紹介いただければ幸いです。
    いつもありがとうございます。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Manaさん、こんにちは☆

      アジャシャンティさん良いですよね~。さて、そこも明らかに存在のグリップであると同時に、「自分」という感覚は一番どこにありますか? たいていの人が目の後ろや胸のあたりを指したりします。

      Manaさんはもちろん違うかもしれませんが、自分の感覚をまずはベースにしたほうが良いかなと思います。

      そして、エネルギーをただタッピングしていってもちょっと難しいかと思います。またもし、そのエネルギーがなくなれば良いんだと考えていたとしたら(違ったらごめんなさい)、自我の思う壺(笑)です。

      EFTはセラピーのツールですので、非二元とごっちゃにしないほうが良いかもしれません。取り除くとかなくすという発想は自我だけが持ち、気づいている意識にはないですよね。そうではなく、徹底的な受容によってエネルギーは動き、ありのままに帰っていきますね♪

      いいね

      返信
      1. Mana

        あゆかさん、こんにちは♫
        早速のお返事とご丁寧なアドバイスをありがとうございますm(__)m

        お腹以外で、「自分」という感覚は・・・眉間の奥かもしれません。
        ただ、いつも見えている“視界”に惑わされているだけなのでしょうか(汗)

        そして、存在のグリップの件も、ありがとうございます。
        この10年ほど、恐れなどの激しい感情を解放させる度に、お腹に別の生き物がいるみたいで気味が悪く、「いつかは体から無くなるべきモノ」と、思っておりました(^^;
        このエネルギーさえも、受容なのですね。。。

        いつもありがとうございます、受容を努力していきたいと思いますm(___)m

        いいね

  9. ayukablog 投稿作成者

    marianaさん☆

    >でも、生も死もないということは、亡くなった私の母も
    実は、別の世界(魂の世界? 全体の領域?)で存在している
    ということでしょうか?

    非二元とストーリーがまだごっちゃになっているかなと思います。「(個)の私」とか「母」は生まれたり、死んだりする現象です。でも、それは、生まれも死にもしない真のあなた(=気づいている意識)ではく、究極的には「私」も「母」も「この世」も幻想で存在していないんです。

    最近、非元と非二元という思いっきり二元的な思考で非二元を語る方もいらっしゃるので、混乱するかと思いますが、二元の世界、非二元と世界というように分かれているわけではないんです。

    二元の世界というものもなく、ここがすでに非二元なんですね。全然上手に説明していないのは自覚していますので、分からなくてもそれは私のせいなので気にしないでくださいね。そのうちもっと上手に説明したいなぁと思います♪

    でも、ストーリーとしてお母様は存在しますし、きっといつもそばにいらっしゃると思います♪

    いいね

    返信
  10. mariana

    コメントを送信した後、 私も アレ? と気づきました。

    おっしゃるとおり、 私もこの世も幻想であって
    ここがすでに非二元なんですよね。 あ”~ (゜o゜)

    二元と非二元の世界に別れているわけではない。。。。
    ハッキリ言っていただいて、すごく腑に落ちました。

    あゆかさんのこのコメントを友人にもプレゼントします。
    Thanks a lot !!!

    いいね

    返信

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