またの名は「わたし」、またの名は「いまここ」

「わたしは何か?(Who am I?)」

ラマナ・マハラシに始まったのこの問い。

思考を通さずに、ダイレクトにこの問いを見ていく。

で、この問いは、同時に「これでもなく、それでもない」というアドヴァイタの伝統的な問いNeti Neti(neither this nor that)も含まれているだろう。

私は体ではなく、思いでも感情でもなく、名前でもなく、記憶でもなく、あらゆるストーリーでもない。

○○年○月○日に生まれたのは、私? でも、そこにあるものを見ていけば、体、思い、感情、名前、記憶、ストーリー、日付け、etcがあるだけ。

それらのどれも私ではないのだから、○○年○月○日に生まれた私もストーリーでしかなく、実在としての「わたし」ではない。

じゃぁ、最初の問いに戻って「私は何か?」

決して否定できない存在である私は?

唯一変化せず、唯一観察できないもの、唯一常にあるもの、唯一疑いようがなくあるものは?

そう、「気づいている意識(=純粋意識)」

こう書くと、それは普段の意識と違うもの、何かをしてそういう状態になるもの、今の自分には見えていないもの、たまたまシフトした人だけ分かるもの、と思う人もいるかもしれない。

でも、「純粋意識(=気づいている意識)」のまたの名は「私」、「私という感覚」。

いつもいつもある「私という感覚(I am-ness)」。(感覚ではないけど。言葉の限界をお許しください)

多くの人がこの私という感覚が、体や思い、感情の方に属していると錯覚し、見過ごし続けてしまう。

「私」という言葉の後にくるレッテル、例えば“私は人間です”など、すべてをレッテルと認識してみよう。

また、「私」という言葉が指すもの、例えば、体、思い、感情をすべて椅子やテーブルなどと同列にしてみよう。

レッテルは思考に過ぎず、体や思い、感情は観察できて、変化するもの。

わたしは・・・・の後に来る言葉をすべて辞めてみる。

わたしは・・・・・・・、沈黙・・・・・・・・・・。 あらゆることがただ起きている。

最初は、普段の自分の感覚のほうが圧倒的に強いかもしれない。なぜなら、体や思い、感情の複雑で重量のあるエネルギー、そして「個の私がいる」という人類の錯覚が、この「純粋な意識」を完全に覆ってしまっているから。

まるで雲が青空を覆っているように。

だから、自我は“この感覚のはずがない。こんなのいつもの重たくて惨めな自分の感覚だ”とまた見過ごしてしまう。

でも、それがあなたが探し求めているもの。あなたそのもの。

「あなたはそれである(You are that)」とティーチャーが指し示すとき、それは、あなたが知らない何かや概念、いつか感じられる何かを指しているのではなく、一番よく知っているまさにこの「ただある=私という感覚」。

そこに留まってみる。

徹底的に静かな「わたし」。またの名は「いまここ」

上も下も右も左もなく、限りなく無限に空っぽ。

そして、空っぽになればなるほど「わたし」はすべてになって、
分離を見ないスピリチュアルなハートが開いていく!(*^_^*)

 

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またの名は「わたし」、またの名は「いまここ」」への9件のフィードバック

  1. anco

    いつも根気良く分かりやすく説いてくださりありがとうございます。
    あれですよね?それは神秘体験の様な話ではなく、
    ただ当たり前にここにあるんだけど、メガネが曇りまくっちゃって見えてないだけ。
    地球はどこにも線が引いてないのに、何層にも線を引き、細分化させて
    国→県(州)→市→区→町名→番地→・・・
    こうやってよりいっぱいレッテルを貼って特定しようとしていってるんだけど
    よーく見てみたら線なんてないし、ただの一つの地球じゃん、みたいな。
    今までそれはもっと神秘体験よりな次元や波動が絡む話なのかと思っていました。
    最近お花に凝っていて、お花の名前をいっぱい勉強して調べているのですが、
    それはそれで楽しいのですが、そのせいか、道で見るお花を素のまま楽しむよりも
    まずは『これは〜〜』と名前が先に出てきてしまう様になってしまい、
    歩く花図鑑みたいに勝手になってしまっています(笑)
    人間とはこうして大人になるにつれていっぱい知識を溜め込んでいくけど、
    そうすればするほど、世界をレッテルだらけで分類する様になり、
    あるがままとして見られなくなっていく。
    これはこれでとても生きて行くには便利だし必要だけど
    これが苦しみや分離感を生み出している張本人なのかな。
    だからってレッテルが貼られてしまった今、今更レッテルを外した目では見れない。
    ただ、レッテルを貼った見方しかできてないと気づく事は少しずつできる様になってきました。
    根気良くやっていきます。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ancoさん、こんにちは☆

      >今までそれはもっと神秘体験よりな次元や波動が絡む話なのかと思っていました。

      そう思われている方は多いと思いますよ。覚醒とかそういう言葉で勘違いされやすいですよね。

      >歩く花図鑑みたいに勝手になってしまっています(笑)

      あはは、分かります。そういうことってありますね。ある時期はそれはそれで情熱の現れとして良いのかなと思ったりします。(*^_^*)

      ほんと、自然はある意味一番の先生かもしれません。

      いいね

      返信
  2. いく

    あゆかさん、こんにちは!

    わたしはなに?って問いかけてみると

    わたしの中で
    いろんな音楽が聞こえてきて、今まで見たこと、聞いたこと、体験したこと、いろんな場面が映画のフィルムのように再生され続けます。再生場面に反応するように、感情が湧き、身体の感覚も緊張したり収縮したりします。

    それと同じ空間で、鳥のさえずりが聞こえ、車の走る音が聞こえ、仕事に行くために支度をしようと考え、身体が動きはじめます。身支度をしながらも、いろんな記憶が再生され、頭の痛みや身体の不快感、気分の不愉快さがやってきてはどこかにいきます。

    その間、呼吸は休まず起こり、身体の感覚はたいがい重苦しい…

    驚くほどいろんなことがここに起こっていることに気づかされます。

    「わたしはなに?」

    「いったい何が起きているんだ!?」

    「ここにあるのは何だ?」

    こうして文章にしている間も、絶え間なく記憶は再生され、「わたしとはなに?」の声が繰り返し聞こえ、感情が湧き、身体が緊張したり緩んだりしています。遊んでいる近所の子供たちの声が聞こえ、身体はまだ肌寒さを感じています。

    胸の真ん中に重苦しい塊を感じます。でも重苦しさは常ではなくて、たまに軽くなったり、忘れたりします。ふとした時に思い出して重苦しさを再確認します。

    いったいなにが起きているんでしょう?

    ほんとうに
    わたしとはなんなのでしょう?(;^_^A

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      いくさん、こんにちは☆

      そうそう、まずは、思考に呑み込まれていたときには、まったく気づかなかったあらゆることが飛び込んできますよね。

      そして、それに気づいてきたら、次は起きていることに囚われないで、それにただ気づいている意識に留まり続けてみたらいかがでしょうか?

      とりあえず、起きていること(変化するもの)は一切自分ではない、ということを認識してみてくださいね。(*^_^*)

      いいね: 1人

      返信
  3. ゆき

    あゆかさん、こんにちは!

    日本で暮らしていると、

    「いまここ」って、今の日本でいちばん、現実(リアリティー)から遠くなってしまった、ことばのように、私には感じます。

    「いまここ」ってことば。何だか、スピリチュアルな色で、現実(リアリティー)が曇っている感じ。

    だから、すごいなと思いました。

    「いまここ」で、「I am」、ただ在る、を表現することが。

    響きが新鮮だわ。

    ダイレクトパスがしたくなりましたよ~勇気が出た。ありがとうございます♪

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆきさん、こんにちは☆

      素敵なフィードバックをありがとうございます♪

      なるほど~、「いまここ」はスピリチュアルみたいな感じなんですね。最近はけっこう日本にも長く滞在しているのですが、デフォルトがイギリスになっているかもしれません。ちなみに欧米では、マインドフルネスな感じです。(←変な日本語)

      いいね

      返信
      1. ゆき

        あゆかさん、お返事、ありがとうございます!

        「マインドフルネス」って日本語、知ってる!聞いたことがあります。うつやがんの認知療法でも取り入れられていると、病院で見かけました。

        マインドフルネス(mindful ness)って言葉をよくよく見てみたら、いまここの、あれこれを観察したり注意を向けたり、気づいたりできるのは、マインドじゃなくて、いまここの、マインドではないものだと、深く理解できて、楽しかったです。

        「いまここ」、

        長い間、私は北京にいたので、北京では、
        「いま」=「ただ在る」、「ここ」=「ただ在る」、
        「いまここ」=「ただ在る(存在、本質、永遠の今)」が、無意識のレベルで、当たり前なので、

        「カフェでお茶を飲む」は、「永遠の今に在る」と同義語なんです。

        中国語には、時制がないですし。

        なので、日本に帰ってきて、坐禅に行ったりすると、いらっしゃっている方が、「いまここを、生きて」とか「いまここに、根をはって」とか仰る方もいて、よく分かんないな、って印象を受けます。

        北京では、誰もが、いまここで、誰もが、いまここに在って、いまここが、誰をも通して生きているので。

        「いまここが、生きて」いるだけなんです。

        なので、「いまここ」って聞くと、反射的に私は、いつも懐かしくなって、ただ、東京だと、寂しい気持ちにもなります。感謝☆ミ

        いいね

  4. K

    またの名は、わたし。
    またの名は、いまここ。

    あゆかさん、すご〜い!!
    すごく、わかりやすいですね!
    色紙に書いて、部屋に飾りたいくらいです〜

    最近、思考を眺めれば眺めるほど、
    空っぽなんだ〜。と。

    純粋意識。
    ただ起きているだけ。
    そのつど、新鮮。
    大丈夫でも、大丈夫じゃなくても。
    私のものではないんだ。
    なんということでしょう。

    この間、桜をみている時に、
    桜、綺麗〜、でも、桜って名前は人間がつけたもの、花?、花もそう。
    見つめていたら、すぅーっと、
    桜と一体化して、溶けてなくなくなり、
    消えていました〜なんか不思議な感覚でした
    瞑想しなくても、瞑想感覚のような。
    最近、瞑想続かなくて、
    でも、あゆかさんのお話しで、できなければ、やらなくてもいい。みたいな事が書いてあり、ぷっ、と笑ってしまいました。
    ほんとにそう。

    いまここ。

    いまここ。キャンペーンしたいくらいです
    (笑)(o^^o)
    ありがとうございます

    いいね

    返信

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