かつて“見る”とは、モノや人、風景を見ることでした。
モノや人、風景の間には空間があって、それぞれは分離して存在していました。
すべては疑いようもなく実体があり、分離はリアル以外のなにものでもありませんでした。
でも今、“見る”と“ある(being)”は同じものになり、主体と客体の関係はどんどん薄くなって、空間はあるけどなくなりました。(私が見ているのではなく、見るとあるがあるだけ)
実体性が薄くなるにつれて、面白いことに目に映るものは以前より生々しく、違うリアルさを放つようになりました。
「私はある(I AM that I AM)」はあらゆるものであって、空間は一切存在せず、だから時間もないまま、いまここに何一つ分離を見ることはできません。
こう書くと、あなたはいつもそんな風にモノが見える状態にいるのか?と聞く人もいるかもしれません。
でも、状態ではないんです。そうすると今度は、じゃぁ、頭で理解しているのか?と聞かれるかもしれません。でも、思考は捉えることができなのです。
モノを見るのではなく、「見る」という経験に寄り添います。音に囚われるのではなく、「聞く」という経験に寄り添います。出来事に囚われるのではなく、それにただ「気づいている」意識に寄り添います。
そして、見る、聞く、考える、感じる、あらゆる経験の主体がないことを知り、見ると見られるものは決して分けられないと知ります。
行為者も選択者も介在せず、私もあなたも空っぽで、経験とそれに気づいている意識だけがあります。
でも、この二つは分けられないから、空っぽになればなるほど、あなたはすべてになっていき、そして空っぽだと知れば知るほど、分離の幻想も落ちていくでしょう。そして、そこにあるのは愛。
人の嘆きも絶望も、愛の変形であって、どんな悲しみも喪失感も後悔や罪悪感も愛と分けることはできず、すでに癒されています。
それを知りながら、目の前で起きている出来事に寄り添い、嘆きや絶望を癒していく作業を地道に続けていきます。派手さも、約束もなく、自我がしびれを切らしてしまうほど地道に。
でも、本質を見過ごさなくなったあなたは、それを軽やかに受け入れ、流れに身を任せられることでしょう♪
初めまして。
非二元のメッセージに出会ったのは数ヶ月前の偶然でしたが、メッセージの強さと真正さにショックを受け、初めはハイになり、その後はかなりの虚無に一週間ほど陥りました。もう、全然体が動かないし、寝汗かくし(笑)虚無と共に虚空を眺めて過ごしていました。でも、トイレに行く時だけちゃんと体が動いていました。なんか変な感じで。そしたら、それは突然消えたようになり、また普通の生活を送ってます。
ある、というのは、言葉が出てくる前の、驚き以前の謎のことなのかな。ある、というのは言葉の構造上、概念と勘違いされやすいけど、全く未知なものをとりあえず言葉にしてみたもので、その「ある」の代名詞が私。でも、そもそもが未知なので、ここでは、「ある」も「私」もひたすら謎。
「何か」があるのではなく、あることしかできない。私しかいない。でも、これって、何を言ったことにもならない!だって、中身が無いから。だから、無と言っても嘘にはならない。
全くとんちんかんな真実。なんかもう分からなすぎて可笑しいです。
例えば、「りんごそのもの」と「りんごという言葉」が全く関係がないにもかかわらず、なぜ自分が言葉の側を信じたのか、今ではもう分かりません。自分というのは、自らを分けると書きますが、言い得て妙ですよね。
数日前、あゆかさんを知り、このブログに出会いました。もっと早く読んでればよかったかも。非二元のメッセージは、本当でも嘘でもない。だからこそパワフルで、言葉の限界を越えようとする努力そのものでもので、その愛の発露である、あゆかさんは、やはり素晴らしいと思います。
ありがとうございます!
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谷口さん♪ 初めまして。(*^_^*)
非二元と数か月前に出会ったばかりなのに、とってもセンスが良いですね!すごい!
私は、最初の頃もっともっと誤解の中に埋もれてしました。
思考に行かずにこのまま理解が深まっていかれると良いですね~♪
今後もよろしくお願いいたします☆
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こちらこそ宜しくお願いします♡
名前が違いますが(笑)谷口です。
何かに対してセンスあるなんて言ってもらえたのは、たぶん初めてなので嬉しいです!非二元って言葉を初めて聞いた時は(確かルパート・スパイラさんの動画でした)、科学用語か何かなんかと思っちゃいました(笑)
また記事を読みに来ますね。
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”見る体験”と”ある”はひとつのようであり・・・
今度はそれらと気づいている意識との間に
距離がでてきてしまいました。。。
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はてなさん☆ こんにちは!
あはは、距離は思考が作っているだけです。とにかく直の体験だけに集中してみてくださいませ~。
(ダイレクトパス)
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あゆかさん、はじめまして。
私の大きなひっかかり、自分への不信から、相手(この場合恋人)を疑いケンカになってしまうことがしばしば…。
頭では外側でなく、愛は自分のなかにあると思うし、感じてもいるのに、最後の?なにかが癒されていないような…。
『人の嘆きも絶望も、愛の変形であって、どんな悲しみも喪失感も後悔や罪悪感も愛と分けることはできず、すでに癒されています。』
今日ふと、嘆きの裏側にある肯定的意図に愛があったことに気がつきました。
ただ、すでに癒されている感覚がつかめないでいます。『すでに』でスタックしました(泣) 癒されていない証拠ですよね。
ダイレクトパスで目の前の出来事に寄り添っていくことで、癒しが起こる…のでしょうか?
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kikiさん、こんにちは☆
ダイレクトパスは、メソッドでも癒しのツールでもなく、単に経験を思考を通さずに直に経験を見ていくという意味なんです。癒しを起こすツールではないですし、なので起きないと思います。もし、癒しを目的とするなら、非二元ではなくて、セラピーの方が良いと思いますよ~♪ こちらよりも、「魂のケア」のブログの方が参考になるかもしれませんね。(*^_^*)
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熊本在住です。昨年の夏位から非二元のメッセージに浸るように聞いたり読んだりしていました。
今回地震に見舞われ、この非二元のメッセージ(現実の描写)に出会っていて本当に良かった!!!
非二元のメッセージ以上に救いになる現実はありません。
今はほとんど無為、自動操縦で存在しています。
避難所でもない車中生活ですが何故か不思議と食料も水もガスも居場所も何の努力もなしに向こうから来てくれています。
『毎日が奇跡』を経験しています♪♪♪
非二元のメッセージを発信して下さってて本当にありがとうございます!!!!!!
被災地でこんなに安心感の中で生活できてます。
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サカイジュンコさま、こんばんは☆
実際に被災されている方からこんな素晴らしいメッセージを頂けて、心よりすごい!!と嬉しく思います。非二元のメッセージを理解しているつもりでも、実際に大変な目に遭うと吹っ飛んでしまうほうが多いかと思いますが、「毎日が奇跡」とおっしゃられることにほんとうに尊敬いたします。こちらこそ、ありがとうございます!多くの方の励みになるかと思います。お体には十分ご自愛くださいませ☆
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あゆかさん、こんにちは♫
いつも気づきにくいところを 優しい言葉で表現して下さって、ありがとうございます(*^^*)
聞く という経験にフォーカスすると、耳の器官が拡張するような感覚があるので分かりやすいのですが、
見るという時は、今までどうしても、“個としての私”が見ている、という解釈になってしまっていました。
それが昨日、昔は毎日のように歩いていた道路を歩いていた時に、
昔は 文句が思考を埋め尽くした状態 で歩いていた街並みを、
昨日は、そんな記憶さえも愛しく感じながらも、新鮮な目で街を眺めていたら、
“この目は、最初から気づきの意識の目だったのでは!?”と、
それを後付けで、文句フィルターを通して街並みを、個としての “私が見ている”ように、
今までは信じていたんじゃないかと、ハッとしてスッキリしました(^^>>
なので、あゆかさんの過去の記事とダイレクトパスの本を、また読み返しているところです。
あゆかさんから頂いたアドバイスが、非常に参考になりました。
ありがとうございますm(___)m!!
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