私は・・・・・・

私は・・・・

私は・・・の後に様々な言葉が入る。

私は「人間だ」、私は「男だ」、私は「日本人だ」・・・・・・。

でも、

人間だ、日本人だ、男だ、女だ、大人だ、セラピストだ、母だ・・・、これらはすべてレッテル。

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が人間であることも、日本人であることも、性別もなにもかも知らないけれど、溌剌とした生命の輝きを放っている。レッテルなしに、見事に存在している。

私は優しい、醜い、頭が良い、ユニークだ、価値がない、親切だ・・・、これらもすべて思考が貼ったレッテル。

自分に関するあらゆる定義、説明、思い、解釈がすべてただのレッテルに過ぎず、言葉の中には何も実体がなく、だからそこに真実を見い出すことはできない。

にもかかわらず、私たちはそれが自分自身だと信じ始める。私は日本人で、女で、○○才で、料理が得意で、人前で話すのが苦手で・・・・・・。

自分に関する数多くのレッテルが私たちの心のなかで何重にもなって、あたかも「個人」がいるかのように重量を増していく。

でも、よ~く見れば、そこにあるのは思いの集積ばかり。

あるクライアントさんとの会話

クライアント:“ありのままの自分は受け入れてもらえないんです。”
私:“ありのままの自分ってどんな自分なんですか?”
クライアント:“人を楽しませる話ができないというか・・・”
私:“人を楽しませることができない自分って、どんな自分?”
クライアント:“ダメな自分”
私:“どんな風にダメだから人を楽しませられないんですか?”
クライアント:“・・・・・・、何も持っていないから”(←涙ぐむ)

「私は何も持っていない」

数多くあるレッテルの中で自分が密かに一番信じているレッテル。一番信じているから、一番隠しておきたい、一番ないことにしたい。

そうやって心の深いところに抑圧されていった自分に貼ったレッテル。

「私は何も持っていない」

私の話なんか空っぽでつまらない、私を面白がる人なんていない、私といて楽しいはずがない・・・、様々な思いがそこから生まれてくる。人が自分に関心がないように見える。久しぶりの同窓会に行ってみたけど、やっぱり輪の中に入れなかった・・・、傷つくなぁ。こんな自分嫌だ、どうしたら変われるのだろう?

ないことにしたはずのレッテルは、別の思いや外に投影されて現れてくる。

でも「「私は何も持っていない」という思い自体、そもそもまったくなんの真実も指さないただの思い(=ビリーフ)。

私たちはそんな自分に貼ったレッテルを信じ切って、自分の世界を作り上げていく。

夢から覚めるとは、そんなふか~く刷り込まれたあらゆる思い、レッテル、ビリーフ、解釈が何も真実を表していないと知ること。

私に関して、あらゆる定義づけ、レッテル、ビリーフを剥がしていくと、そこに何か残るだろうか?

「私は・・・・・・」

その後に来る言葉を一切信じなかったら?

もはや、自分が何者なのかもさっぱり分からない。

「ありのままの私」でさえもなく、

「私は・・・・・・」

そこは空っぽでしかない。

でも、一つだけどうしても否定できないこと、それは、

あらゆることが「在る」ということ。

そして、ただその「在る」に留まってみる。

そのとき、「私」は個ではなく、存在全体に属していたことが分かるだろう。

純粋意識、気づいている意識、I AM(私は在る)、決して定義がつけられない、レッテルも貼れない。

そして、それがあなた♪

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私は・・・・・・」への13件のフィードバック

  1. issei

    ☆ブログの更新ありがとうございまーす。

    先生、どうしても、同じような理解をされている方に、お聞きしたいのです。(正直に言いますと、幾月も得心に至らず、水面下で、そうとう鬱憤になっているようです。)

    >> 純粋意識、気づいている意識、I AM(私は在る)、決して定義がつけられない、レッテルも貼れない。

    そして、それがあなた♪<<

    と、わたしも同じような理解をしていて、

    とくに、八年前くらいに、『I AM THAT』を読んで、これは、わたしの感じている感覚や、リアルティを、マハラジが、全く代弁しているみたいだと・・

    まるで、本の中の文章が、唯一の理解者みたいに思えて、よく感涙しました。

    >> 純粋意識、気づいている意識、I AM(私は在る)、決して定義がつけられない、レッテルも貼れない。<<

    これは、「私」と言っていいでしょうか?

    それとも、「私」はいない、ただ「無・空」の中で、或いは、「無・空』から、“起こっている”だけで、それを知覚したり、理解するものは、(主体)はいない。

    知覚する(感じる)、理解する。認識する。ということが、知る者(主体)無しに、起こっているだけなのでしょうか?

    それとも、ただ異なる解釈(表現)が全体の中でただ起こっているだけなのでしょうか?

    それを認識したということも。。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんにちは☆

      宜しければ、あゆかさんとお呼びくださ~い♪ 

      このご質問をコメント欄でお返事するのは難しい~。

      >> 純粋意識、気づいている意識、I AM(私は在る)、決して定義がつけられない、レッテルも貼れない。<<

      これは、「私」と言っていいでしょうか?


      はい、これが「私」です。(I AM) でも主体ではありません。

      それとも、「私」はいない、ただ「無・空」の中で、或いは、「無・空』から、“起こっている”だけで、それを知覚したり、理解するものは、(主体)はいない。


      私が文章の意味を読み違えていなければ、これもそうです。知覚する主体はいません。私はいないの私は、「個の分離したわたしがいない」ということです。

      知覚する(感じる)、理解する。認識する。ということが、知る者(主体)無しに、起こっているだけなのでしょうか?


      知る者はいませんが、それらすべてに気づいている意識はありますよね。ただ、そこに思考は一切介在しておらず、ただ気づいているだけです。

      それとも、ただ異なる解釈(表現)が全体の中でただ起こっているだけなのでしょうか?
      それを認識したということも。。


      解釈は思考ですから、いろいろな思考がただ起きてきているだけです。ですが、思考に気づいている意識はありますよね。そうでなければ、あるとかないとかさえ分かりません。

      間違っているかもしれませんが、思考でものごとを把握する、認識することに慣れ過ぎてしまっていて(多くの人がそうですが)、思考と気づいている意識を分けきれていないのかもしれません。ご自分のなかで思考が介在しない認識(awareness)を見つめてみたらいかがでしょうか?

      気づいている意識は、存在していて(being)同時に気づいている(awareness)んです。でも、同時に気づかれているものと分けられず、なので主体も存在しません。

      う~ん、うまく説明できていない感が・・・・・。こんどカフェにいらしてください!

      いいね

      返信
      1. issei

        気づいている意識は、《“存在していて(being)同時に気づいている”》(awareness)んです。でも、同時に気づかれているものと分けられず、なので《“主体も存在しません。”》

        《 》の部分、気になっていましたので、休憩時間に、また読み返させていただきましたら、仕事中の緊張から解き放たれたばかりだったせいでしょうか、

        思考も湧かず、すんなり、分かりました。

        これじゃ、時間が存在するかどうかなんて概念の余地も無いですね。

        長々と、すいませんでした。

        『魂のCareful』の最新記事も目を通しました。

        ♡ありがとうございます。

        でも、今にだけ、捉えていると、また、忘れてしまいそうです。(_ _)

        いいね

  2. ゆき

    あゆかさん、こんにちは!

    「私は何も持っていない」

    そう、

    「私は何も持っていない」は、ある方にとっては、涙ぐむことなのですね!

    そうなんだ~、そうなんですね!

    ふぅー、クライアントさんに、「私は何も持っていない」と涙ぐまれたら、アイデンティティー(セルフイメージ)と所有欲、そこから、失うことの喜び、恐れと不満足の関係性を、説明をしてしまうか、何も持っていないのって、すごく自由なんですよ~と、さらっと返してしまいそうですわ。

    あはは、この方にとっては、癒しにはならないですね!

    ないとある。私は持っている、といえば「お金」。

    ここ数日、お金と豊かさについて、観てみたのですが、

    気づいたことは、

    「豊かさ」は、「豊かさ」を持つことができて、感じられることができるものだと、今まで私は、無意識で思っていたことです。

    「豊かさ」は食べることができて、「豊かさ」は着ることができて、「豊かさ」は持つことができて、「豊かさ」を感じられて……。

    「豊かさ」を「悟り」や「愛」と置き換えてみると、この深い錯覚がよく分かりました。

    「悟り」は食べることができて、「悟り」は着ることができて、「悟り」は持つことができて、「悟り」を感じられて……。

    私の観察では、豊かな人は、豊かなのをただ許していて、たくさんお金を持っている人は、たくさんお金を持っていることを、ただ許しているだけです。

    経済的にも精神的にも豊かな人は、ご自身を通して、ただ「豊かさ」が表現されているのを、ただ許しているだけで、ほんとうに、何もしていないですよ。

    その人は、結果なんか出していない。ハートの好きなことをして、今を楽しんでいるだけです。だから、豊かさが豊かさのままで、豊かなのを許しているだけで、豊かさが、豊かさの結果を出している。

    ただ在るだけで、誰にでもできる。簡単なこと。

    長くなりました。深く感謝☆

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ゆきさん、こんにちは☆

      いつもありがとうございます♪

      私の書き方が超大雑把でした~。何も持っていないからと涙ぐんだのではないんですよ。自分が今まで見ないように禁じてきた思いが出てくると、そこに封じていたあらゆる感情も一緒に湧き上がってきて、それが涙という形になるんです。これは、とても美しい涙なんです。抑圧から解き放たれて、真の思いが顔を出す瞬間です。(*^_^*)

      いいね

      返信
      1. ゆき

        お返事、ありがとうございます!

        自分がこれまで見ないようにしてきた思いに光がさして、わき上がってくると、そこに封じこまれていた感情も同時に、わき上がってきて、涙の形になるんですね。

        今まで、私は、お客さんが泣いていると、ただ観ている空間がある一方で、個人的には、この涙ってほんとう?この涙、この言葉、真実から出ているの?と深く観てしまう癖があったのですが、たぶん私は、感情や思いを全然、信じていないんですね、

        なんですが、今日からは、一緒に涙することにしました。雨上がりで、緑がきらきらしていたから。

        限りなく自分に正直になって、調和するのが楽でいいなということが分かって、よかったです。

        あゆかさんのコメントで、今日、涙していた方のようすを振り返ることができました。納得☆ほんとうに、ありがとうございます☆ミ

        いいね

  3. ミィ

    初めまして。
    私も、少し前までは、自分を認めてもらうには、アイデンティティーを持つためというのかしら、それが絶対必要と思って、その為にもう興味のなくなったことでも、私の仕事としていました。その方が、スムーズに付き合えるからでした。  でも、今はすべて止めましたけど、何にも困りませんでした。ただ、「何しているのですか」と初めて会う人に聞かれると、前よりよっぽどやっていることが、増えたので、これとは言えず誤解されてしまうこともありますが、もう何とも思いません。
    今回のあゆかさんのメッセージで、ますます広がりました。ありがとうございます。

    いいね

    返信
  4. Pika

    あゆかさん、こんにちは。
    今回の「私は・・・・・」は、
    なぜか、題名をみただけで、
    しばらくジーンとしてしまいました。
    「私は」。ノスタルジーを感じました。
    嗚呼、どれほどこれに振り回されてきたか。
    それさえなければ、どんなに楽だったでしょう。

    いいね

    返信
  5. issei

    ☆ラベル貼りをせずに、真面目に、解説して下さり、

    心から、感謝致します。(心というものの所在地は無いようですが・・一応・・)

    >>ご自分のなかで思考が介在しない認識(awareness)を見つめてみたらいかがでしょうか?<<

    ◎はい、意識が、意識を見る(感じる)ということでしたら、だいぶ備わって(習慣付いて)来たと思います。

    それは、形がないし、隔たりや、果てを、確認出来ないし、ついでに言うなら、空っぽで、透明です。

    でも、在るんだよなぁ!という“感慨?”が起こり、それへの気づきなら、いつ、何時でも行えます。

    (でも、本当は、『何か在る!』という“印象付け”が起こっただけで、実際には、何にも無いのかな?)

    >>気づいている意識は、存在していて(being)同時に気づいている(awareness)んです。でも、同時に気づかれているものと分けられず、なので主体も存在しません。<<

    ◇あれ、「気づきー気づかれるもの」→「気づきー気づかれるもの」→「気づきー気づかれるもの」→・・・

    という現象が、リアルタイムで、繰り返し繰り返し、永遠に行われているのですね。

    これに、やはり、自動的に、色々な投影が為されて、様々な現象とか、見た目の個体に、成って行くのですね。

    ◎あゆかさん、いらっしゃって下さって、ありがとうございま~す。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんばんは!

      (でも、本当は、『何か在る!』という“印象付け”が起こっただけで、実際には、何にも無いのかな?)

      在るんだよなぁ!とか、印象付けとは、ぜんぶ思考ですよね。思考が沸いただけです。とにかく思考を剥がしてみてくださいね。

      ◇あれ、「気づきー気づかれるもの」→「気づきー気づかれるもの」→「気づきー気づかれるもの」→・・・
      という現象が、リアルタイムで、繰り返し繰り返し、永遠に行われているのですね。

      繰り返し?という意味がよく分からないような・・・。何も繰り返されていないですよね。また、気づきと気づかれるものは、分けられないです。波と水が分けられないように。書いていらっしゃることを私が理解していなかったらごめんなさい~。

      いいね

      返信
  6. issei

    ♡日本に帰って来ていらっしゃるかどうか分かりませんが、ゴーデンウィーク(お休みモード中? )に、

    ちょっとお騒がせ申し上げましてしまって、お許し下さい。(_ _)

    ◇思考から離れれば、このコメントに関心が起こらないし、問答をさせていただくつもりも、毛頭なかったのですが・・成り行きに従いたいと思います。。

    ○あゆかさん、たぶん、世間一般的な方たちのような、思考側にくっ付きぱなしで、使われているようでなく、

    使っている“感”が、基本的にありますし、いつでも・だから?どうした!“どうでもええやん!”と、

    ボーッと、「なんにも無いわたし」、“気づいてる”・・“在る”だけの意識に成って・・戻って、、

    離れられますので、多分、大丈夫だと思います。(あゆかさん的には、ダメなのかなあ?)

    何でこんな「思考」を泳がしているかといいますと、

    よくある、寛ぎや、安穏や、満たされているとかの、「感覚」だけの認識では、それが“意識のセンター”(親方)に習慣付いてしまうと、

    偏っているような「認識」かなあ・・?との『認識』が、湧いて(起こって)来ますので、

    より冷静?で、正確?な「認識」をしたいのですね。このハートからのエネルギーは・・(ですから、しなければいけないに従っている感じです)

    ・・・在るんたよなぁ!という『印象』の後に表れた『思考』“以前”に、透明で、果ての無い「わたし」と捉えてもいい?「感覚」が湧い来るものを、感じられますが、

    けれども、「わたし」だと、命名出来るであろう、果てが無く、形が無く、透明な印象の、創造のバックグラウンド?・源?は、

    何かが、湧いて(創造?されて)来る前は、何にも無いので、ただ単に、そういう感覚の印象が、湧いた(創造された)というだけで、

    「わたし」とか、いうのは、比喩に過ぎないし、やっぱり、何にも無いことが、

    ♡『真実』なのかなあ?との、理解が起こってしまうのです。♬(でも違うたのかなあ?)どうでもええやん!なのかなあ?

    ♡重ね重ね、カウンセリング代もお支払していないのに、お世話になりました。

    ♡(もし、口座を指定して下れば、支払える範囲ですが、お礼を致したいと思っておりま~す♬)

    最後に、この流れで、私にとってはでしょうか、有り難いと思える『理解』が湧いてきました。

    今日は仕事で、いつものように、鉄道の線路の上で、仕事を終えた後、お客さんがたくさん乗っている客車で、移動中だったのですが・・

    こんな喧騒の中で・・??です。

    ☆様々な生命現象とか、多様な意識の在り方とか、表現自体(個・我・性質・特性・・自然や宇宙の現象も含めて)とかは、

    ただある1つの純粋意識が、その多方面?への「気づき」から→「気づかれるもの」への、

    様々な解釈の仕方・発生(添加剤)によって、無限に、色々に、顕現してしまうのですね。

    追伸・・

    <気づきー気づかれるもの>←これで、1セットのつもりで表現させていただきました。(_ _)

    ♡ありがとうございます。

    いいね

    返信
  7. いく

    あゆかさん、こんにちは(^^)
    いつも記事ありがとうございます!

    ここ最近、やたら腹が立ったり、深い理由もなく不安になったりして

    なんでこんなに腹が立つんだろう?
    なにがそんなに不安なんだろう?

    自分でも、いまひとつ理由がわからなかったんですが

    赤ちゃんのように
    お腹すいた、寒い、暑い、痛い、眠い、オムツが濡れた、見た、聴いた、触れた
    といったものにシンプルに反応するのではなくて

    わたしは…「 」
    に反応して感情が起きていたんですね。

    自我が発達した人間は
    出来事にシンプルに反応するんじゃなくて

    わたしは…「 」という定義、レッテル、ビリーフを通して

    自分好みの物語(!?)に脚色することで、勝手に怒ったり、悲しんだりするのですね…

    ほんと、お疲れさん!です(トホホ…)

    これからは強い感情が起きるたび

    『これはどんな、わたしは…「」があるんだろう?』

    わたしの物語に飲み込まれていくまえに

    引いた目線で見ることが出来そうです。

    わたしは…「」
    というラベルを外しきった世界とはどんなものなんでしょうね??

    「ただ気付いている意識」に寄り添うようにするんですが、思うようにいかないです。

    わたしが「気付いてる」と意識した時点がもう思考ですよね?

    たしかに、わたしにも
    「気付いてるという思考」と
    「気付いている意識」
    の違いがよくわからないようです(^_^;)

    いいね

    返信
  8. yukie

    こんにちは。
    いつも分かりやすい語り口で、丁寧に解説して下さってありがとうございます。
    昨日、私とは、これまで思って生きてきた、体でも考えや感情でも、それらを手にしているものでもなく、主体がないけど存在していて、体も含んだ全体を、主体なく、ただ見ているものだったんだ、そっか〜〜、となったのですが、これまで体の中だけが自分と思って何十年も生きて来たけど、実は体を含んだ全体のどこにも存在していて、その存在感は、前から自分と思っていた存在と同じで、でも私は居ないと聞いて、ずっとあったものを勘違いしてこれではないと思ったりしたのですが、考えや感情や衝動に隠されていただけで、ずっとこれだったってことなのでしょうか?そして、存在は体にピンで留められたようにセットされてて、仕組みは分からないけど、そういうものだ、ということなのでしょうか?
    何かいろいろ不思議です。

    いいね

    返信

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