非二元としてのお金は・・・?

非二元ではお金をどう捉えているのですか?というご質問をしばしば頂きます。

“実際には社員に給料も払わないといけないし・・・”
“年金暮らしの親が障害を持つ子供を支えていて、お金にほんと困っています・・・”

こういう思いや状況の前に、真実だ、空だ、自己不在だとか、なんだかんだいってやっぱり現実の問題もね・・・・という思いが横切るのでしょう。

(これを聞くたびに、私はやっぱり夢を選びます、と言っているように聞こえてならない)

とりあえず前置きとして、非二元は思想でも宗教でもスピリチュアルでもなく、「太陽は東から昇って西へ沈む」と同レベルの話です。つまり、自明の事実です。

思考を横に置いて直接「ここにあるもの」をよ~く見れば、「いまここ」は空っぽであることと満ちていること、主体と客体、不変と変化、個という現象と全体は決して分けられないという不可思議なダンスしかない・・・・といった自明の事実を言っているだけです。

ですので、「生きる知恵」みたいな話ではなく、そういう意味でこの質問自体がジャンル違いでもあります。

とはいえ、なぜそういう質問が出るのかもよ~く分かります。

なぜなら「お金」は、最終的に「食べていけるか?」という自己の生存(自我にとって)に関わっているからですね。

なので、言い換えれば、“死ぬ直前までうまく生きていたい”のだけど、それを非二元的にどう捉えたら良いか?ということでしょう。

もし、お金がなくても、自分が思うような人生が送れ、死ぬまで安全が確約されていたら、そんなにお金はテーマにならないはずです。

でも、分離して広い社会の中でなんとか生き抜いている私にとっては、「お金」がその保障になるというわけです。地獄の沙汰も金次第ですから。

なのでここはやはり、自我の目線をぐんと超えないと真の解決は見えてこないでしょう。解決といっても、もっとお金が入ってくるとか、人生がうまくいくようになるとか、そういうことではまったくありません。

それを願っているうちは、深い夢の中です。

非二元のメッセージを生きる術や考え方にしているだけであったら、メッセージそのものが真実を指していても、単なる思考活動です。(夢)

思いは勝手に湧いてくるのか? それともそこに思いを製造する主体はいるのか?
興味や好奇心、性格、性質は自分で決めたのか?それとも勝手にそうなっていたのか?
~~をしようという思いは、湧いてきたのか? それとも思いを持つ以前に誰かがその思いを作ったのか?

ただ、シンプルに起きていることを見ていくだけなんです。

“起きることが起きているだけなんですか?”といった類のご質問もよく頂きます。これは明らかに事実を見ないで頭で考えている質問です。

そうすると、たいてい“起きることが起きるだけだったら、自分が何しても無駄ではないのか・・・”という思いになりがちです。

なぜなら、やっぱりそこに“個の自分が何かすること”を想定しているからです。(だったら、私はどうしたら良いの?)

ということで、繰り返しになりますが、起きていることをシンプルにかつ徹底的に見ていくこと。

ものごとを起こしている誰かはいないこと、生まれたときからずっとすべて勝手に起きていたと知ること。

自分は時のない永遠の「ある」(存在)であると知ること。

どこまで?

自然に降参が起きるまで。そして、自分は生命そのものであると確信できるまで。

それまでは私たちはどうしても不安を抱きつづけるでしょう。

または、どうにか人生がうまくいくことを願い続けるでしょう。

でも、自分の本質が深く理解されたとき、生命、人生そのものへの信頼が生まれるはずです。

そのとき、お金の心配よりも、あらゆる状態の中で自分は本質を生きているか?がきっと思いの中心になってくるでしょう♪

非二元としてのお金は・・・?」への7件のフィードバック

  1. 元英国駐在員@半年前に帰国

    こんにちは。
    4月のカフェに参加させて頂いた者です。(なぜか)その時は、日本語をうまく話せなくて笑いをとってしまいました(笑)。

    非二元を取り上げる際に、今回の様に具体的(お金)なナマ生しいテーマにすると、その異質さが際立つように感じます。

    >>“実際には社員に給料も払わないといけないし・・・”

    日常の二元の世界では具体的なことが当たり前ですが、私は非二元を想像する時には抽象を想起してしまいます。両立しない錯覚を起こします。
    多くの人にとって大きなテーマであるお金の件については、私は数年に渡って自分の感情(色と言い換えられそうです)を随分と見るトレーニングしました(今でもしています)。自分の感情・生じた事を見つめて、それは無かったとする(赦すという言葉で表しています)方法です。非常に難しいです。お金のようにナマ生しいものは特に難しいです。

    併せて、4月のカフェで教えて頂いた「直接経験に寄り添う」・「思考を横に置いておく」、というトレーニングは事あるごとに行って(失敗してもトライして)おります。私の学んでいる教えと同様、この「寄り添う」方法も、非常にpractical(要するに何にでも適用できる実践的なもの)だと理解しています。繰り返しますが、非常に難しいです。

    教えて頂いた「ある・ないは同時にある」別言すれば、「色即是空・空即是色」という意味だと理解していますが、それを意識できるようにトレーニングしております。(最後は意識しないで、行えるようにできるくらい常に意識してみたいです)。

    取り留めがなくなりましたが、①生活全部に適用できる4月カフェ講話は役に立っていること、②6月も参加予定にしていること。
    の2つをご連絡して私のコメントを終了しますね。次回も楽しみにしております。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      あはは!名前が面白いです。でも、おかげでどなたか分かります。 (*^_^*)

      ちなみに日常もお金のやりとりも、何もかもが非二元で、二元の世界というのは存在しませんよね。お金のテーマが生々しいというより、お金が生々しく感じるような意味づけを私たちがしているんです。

      さて、自己の不在を先に見抜くほうへ意識を持っていかれるといいかもしれません。なんとなく「わたし」が頑張ってしまっているかも~と感じます。

      6月のカフェでまたお会いできるのを楽しみにしております♪ 

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      1. 元英国駐在員@半年前に帰国

        お返事有難うございます。

        ↑を見てみました。たぶんこれが、自己不存在の解説であろうと思って拝見していました。
        同じテーマを行っているはずなのに、視点を変えることでさらに学びが深くなるようです。

        では、6月12日楽しみにしております。

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      2. 元英国駐在員@半年前に帰国

        私が思ったのと違うスタイルで表示されているので、削除して頂いてかまいません。
        ただ、URLが表示されるのみとおもいましたが、画像で表示されているとは少々インパクトがありすぎです。投稿完了自己コメントは改訂できないようなので、お願いする他ありません。申し訳ありません。

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  2. ひとみ

    こんにちは。あゆかさん。
    いつも、ありがとうございます。

    今回の記事は本当に有難い!素晴らしい!
    ありがとうございます。

    最近、積極的に降参しています。 笑
    これが本当に有難くて有難くて・・・
    全てを受け入れることになっています。

    すると不思議なことに
    相手も変わります。
    対応が変わるから相手も変わるのか?どうかは
    わかりませんが
    まるで透明人間になっているかのようです。

    でも、とても満たされています。

    これほどの素晴らしい表現を
    ありがとうございます。
    あゆかさんの表現は、私にとって(私がいてもいなくても)
    最高!です。

    私の手を見て
    この手は、いったい誰? 笑
    と 可笑しくなることが多くなりました。

    感謝

    ひとみ

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  3. ひとみ

    なんども、すみません。

    観察して観察して観察していて
    うわっ!自力で頑張ろう頑張ろう!としているのを発見しました。
    でも、そこに持ち主はいません。

    げ!こんなにも自力で生きなきゃ!生きなきゃ!してたんだー!と
    メチャクチャ驚きました。
    さらには、
    だから恐怖も、もれなくセットでやってくるよねーと
    納得しました。

    「私」の場合
    この「自力」が超!過激で・・・
    だから攻撃的だ!と言われるよね〜〜と
    これまた納得です。笑

    前に「私がいなかったとして」を、あゆかさんが書いてくださって
    それをいつも感じています。
    いつも変わらず在る「これ」を。

    あゆかさん ありがとうございます。

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