思考以前にあるもの♪

どう考えたら良いのかさっぱり分からないとき、なんとか手掛かりをつかみたいと思いませんか?

人に聞いたり、ネットで検索してみたり、ブログや本でヒントを得ようとしたり・・・。

自我とは、何かしら考える「指針」が必要なものでしょう。

生きる意味や生き方、または、出来事の意味、考え方考といったもの。

どう考えて生きていこうか? こんなときはどう考えたら良いのか?などなど。

考えるベースを見つけ出し、そこに落ち着いて安心したい・・・。
世界のしくみを理解して、その理解のもとに自分や自分の人生を構築したい・・・・。

自我は自分が実体のないものであることをうすうす知っているので、何かにしがみついていないと、崩れてしまうという不安があるんですね。

そこで、「悟り」のメッセージは生きる指針にするに一見もってこいに見えます。

ところがノンデュアリティのメッセージ、例えば「起きることが起きているだけ」などは、しがみついて安心できるものでは決してないでしょう。

それよりも、どちらかというと混乱を招いたり、または、虚無の世界へ落ちていってしまうかもしれません。

というのも、「真実」は自我に生き方を示すツールではなく、「ただある」だけだから。

意味や指針や考えなどがあてはまらない、またはそれ以前の言葉にならないもの。自我の手掛かりにさえならないもの。

でも、私たちはどうしても今までの癖が抜けきれず、それらのメッセージを自分の人生や世界に当てはめて考えよう、理解しようとしてしまいます。

ですが、思考とはそもそも分離のツールです。

どこにも分離のない一つの流れである現象を、「あちら」「こちら」「高い」「低い」「上」「下」などと区切っていきます。

そして、「在るもの」に名前を付けていき、「起きていること」に定義づけ、意味をつけ、解釈していきますね。

で、いつの間にか、区切った状態、レッテルを貼った状態、定義づけや意味づけをした状態が初めにあったかのように錯覚していくんです。

「思考が現実化する」なども、あたかも思考のほうが現象よりも先にあるかのような発想です。現象を常に自分中心に解釈する自我的な世界の捉え方。

でも基本、思考は必殺仕訳人(笑)であって、主体不在のなかで現れては、消えていくものです。なので、思考以前の全体、区切りのない現象を捉えることは不可能なんです。

例えば、海を日本海、太平洋などと区切っていき、それがあたかも実在しているかのように信じれば、信じるほど、ただのレッテルは、レッテル以上の意味を持ち始めます。

でもそれは本質(分離以前の現れ)を忘れた状態ですね。

だから、思考まみれになっているときに私たちは苦しんでしまいます。どんどん細分化されて、本質(愛、静けさ、受容)を見失ってしまうからです。

そういう意味で、そのメッセージがどんなに真実を現していようと、頭で理解している限り、それは、ただの切り取ったイメージに過ぎません。

にも関わらず、私たちは、その頭の理解をもとに、“だとしたら・・・・” と、他の知識(切り取り)と照合し、あたかもジグゾーパズルを組み立てるかのように、一つの絵を創って理解しようとするんですね。

でも万が一、絵が出来上がったとしても、それは「絵」(幻影)に過ぎません。一つの固定されたイメージです。

ということで、思考をできるだけ横に置いて、徹底的に体験を見つめ(ダイレクトパス)てみるのはいかがでしょうか?

思考をはずすとは、思考を静めて、なおかつ、どの思考も一切信じないということ。

レッテルも定義づけも解釈もなにもかも。

そうやってただ在るとき、そこに現れてくるものは?

そこに区切れる何かはある?

そのまま、まったく何も分からない、手掛かりすらない大海原にただ在ってみる。

実はそこが一番安心できると分かるまで、生命にすべてを明け渡しても大丈夫なのだと分かるまで♪

思考以前にあるもの♪」への25件のフィードバック

  1. issei

    ♡ブログの更新☆ありがとうございます。

    Care of the Soul “魂のケア”の更新記事も、先んじて拝見しました。

    どちらかと言うと、あちらが、ノンデュアリティの概念の見地における“現実とは何か?”のコメントのような感じが致しました。

    でも、お忙しい中、ありがとうございました。(もちろん、私だけへの、記事ではないですから)

    ・・あれから、トニー・パーソン氏の新刊の訳の一部、アジャシャンティ氏の目覚めた後の事や、

    ルパート・スパイラル氏の現実と指すもの、

    ダスカロスより凄い、キリストを愛する神秘家・マスターゲート氏が捉える世界と現実・現象の実相、

    湯浅和花さんのブログ、大和田菜穂さんのブログ、あゆかさんの過去の記事などなど・・を拝見していました。(もちろん私の心も)

    それぞれ、特色があり、たとえ、一私の感性の前といえども、それが、様々な表現として、現れて、

    それを対象として、この一私の感性の前で、起こって、識別されているということだと思います。

    ダイレクトパスに則り、値踏みしたり、(笑)・・判断しないで、なるべく純粋な意識が“気づいた”だけの感知(知ること)にとどめれば、

    「た~だ起こってる」との、マインドの判断と認識しか起こりませんが、

    或いは、それを、気づいている「意識」に寛いでいれば、マインドが活発に働きませんし、

    そうなると、気づいている純粋なわたし側の意識には、いつも、何も、“波立たされて”いないし、

    気づきや、感覚や、判断や、印象や、認識や、感情や、思考や、想像や、イメージは、

    わたしの周りで、勝手に起こってるだけだとのマインドの判断が行われますが、

    それも、今持って味わっている“一感覚の立場”に立っての判断や、観点だったりするので、

    その一立場(ただの純粋意識)に立っての、マインドの観点、洞察、にしか過ぎず・・との、

    私の印象が拭えません。

    しかし、これらが、全体を“わたし”、或いは、これらの無限大の意識の数々を起こした!のは、“わたし”と想像・設定した場合は、

    全て、わたしの中で、または、“わたし”から、起きている!ということも、言えるので、

    個人意識の私としては、後者の捉え方が、偏らず、公平に思えますので、

    やはり、それぞれの感性・特性で、知覚出来るものも、出来ないものも、解るものも、解らないものも、自覚出来るものも、自覚出来ないものも、

    ☆全てが“現実”だと判断を下してしまいます。

    でも・・これも、何々~だ!との一つの考え方、捉え方、観点、概念なので、偏っていない!と言えば、ウソになります。

    ♡最も公平なのは、消えちゃうことなのですが・・

    ★私がこの自我が“恐れて”いるのは、これです。

    これが、想像・ただの洞察だとしても、消えられない!見通しなのですから・・

    この現在の環境と立場と頭と肉体の状況、シチェーションでの、今生は、まだ、いい方でしょうけど、

    ダイレクトパスで(反応の良い?迷う心?に刷り込みや暗示を施す?)、自我を消す習慣を着けていけば、いいのですから、

    問題は、怖いのは、次の夢物語の出演や配役が、あったりしたら、いったいどんな意識体験の“配役”が回って来るか?判らないことです・・

    それをコントロールする術も知らないし、力も持ち合わせていない・・

    精神世界に全く興味がなくて、自己主張が当たり前な役だったり、思い込みや独り善がりに気づかない“配役”だったら、とても嫌ですし、

    また、真理や精神世界に興味あっても、偏ったり、(偏らざるを得ませんが・・)

    この今のように思い切れないマインドとの付き合いや、

    マインドの判断を、ある真理の判断から、価値観から、主旨があって手放せないのも、もう!こりごりでし、

    人間意識以外の、「自己想起」出来ない生命体となって、何の罪悪感、慈悲心も持ち合わせず、

    日々、生死を賭けたサバィバルに拘泥するのも、勘弁してもらいたいのです。

    楽になるのは、簡単だと想像してます。

    ▼自分はいない、他人はいない、動物も、植物も、魚も、昆虫も、あらゆる生き物たちも、自然も、惑星も、星も、宇宙も、世界も、

    何もかも幻想だ!本当じゃないんだ!現実じゃないんだと、「心」が判断するように、どんな方法でもいいから、処方すればいいのですから・・

    ▲しかし、関係ないと言われる、幻想と言われる、あらゆる“あらわれ”に対する、♡それを現実だと錯覚し続ける意識たちへの気づき、認識、憐れみや、慈悲心といったものまで、忘れてしまって行くのも、怖いのです。

    こんな、捉え方、気苦労?、観点も、“現実”・真実?としては、馬鹿馬鹿しいことなんでしょうか?

    私にも今までの色々な出来事、現象を見まして、守護霊・指導霊の類でしょうか?いらっしゃる気が致します。

    もしかしたら、ちょくちょく、今の私と似たような、世の中を楽しめなかった?霊が憑依して、

    憂さを晴らしをしているかも知れません。(夏も近いですし。。)

    ☆おっとっと、これも、現実じゃありませんでしたね。

    私の配役では・・自主的には、♡難しい~!

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    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんにちは☆

      おっしゃる通り、「魂のケア」のほうが、コメントのお返事のつもりで書きました~。
      そちらも読んで頂きありがとうございます。(*^_^*)
      でも、こちらはこちらでもっと非二元の角度から書いてみました♪

      書いて頂いたコメントの分からない部分も多いのですが、とにかくシンプルに「ただあって」見られてくださいませ~☆

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  2. アーサー

    海の線引きのお話。腑に落ちてきました。線引きをしないことを心掛けてみます。
    まあ、マインド君は線引き商売ですから、心がけるだけになりそうですが。
    やっと、最近ルパートさんの「プレゼンス」の内容が分かりかけてきました。
    ありがとうございます。前途遼遠ですが。一瞥くらいはしたいです。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      アーサーさん、こんにちは☆

      あぁ~、ぜんぜん、違います! 何も心がけないでください(笑)!

      線引きをしないことを心掛けるのではなく(絶対無理だし)、「ただ在って」みるだけで良いんです。

      思考がなんの実体もなく、沸いては去っていくものだと真に見抜けば良いだけかと思います。(*^_^*)

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  3. アーサー

    あゆかさま
    お忙しい中、ご親切な指摘とアドバイスありがとうございます。
    思考は湧いては去ってゆくものと真に見抜けばよいとのこと。
    これも、そう心がけないで、そうなのだと気づければ、というか
    調子の良い時はそんな感じですが、すぐ巻き込まれます、そんな
    刹那を楽しめばよいと言うことでしょうか。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      チャットみたいになりましたね。(*^_^*)

      私の書き方が悪かったかもしれません。

      思考に巻き込まれていても、去っていきませんか?24時間一つの思考に巻き込まれているわけではないですよね? なんとなく、ある状態をキープしようとしている感じがあるかも。

      思考をどうにかしようとか、意識を思考に持って行き過ぎず、「ただ在って」みてはいかがでしょうか?意識のベクトルを不変不動の「ある(I AM)」に持っていくのはどうでしょう?というご提案です。ほんと~~にシンプルに。

      いつもしなければとか、そういう「状態をキープすること」を目指すのではなく、やりたいときに好きなだけ♪

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  4. アーサー

    あゆかさま

    まさか、あゆかさまと、チャットができるなんて、夢にも思いませんでした!

    まるで一瞥体験みたいです。

    おっしゃること分かります。

    不変不動の「I AM]に持って行くのはありがたいご提案です。

    あゆかさんの般若心経の講話のビデオを見てるとき、「わたしは居ない」と

    大和田さんは言うけど、ありありと居る自分を感じましたが、居なきゃ死んで

    る、ま、錯覚かもしれませんが、わたしはいると実感したものです。

    warm! warm!な気もします。顔文字を拝見して、ビデオのあゆかさまの温顔

    を思い浮かべて、あーなれりゃいいな、とまた目指してるけど、ハートも

    warmになりました。本当にありがとうございました。

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  5. anco

    こんにちわ、いつもぐっとくる記事をありがとうございます。
    特に
    >自我は自分が実体のないものであることをうすうす知っているので、何かにしがみついていないと、崩れてしまうという不安があるんですね。

    この部分、そうそう!って叫んでしまいました(笑)

    ある暇な日の過ごし方。
    朝から色々雑用を済ませて、もうすっかりやる事もなくなり、さて、次は何しよう?
    となった時、大概は何かまた次のやる事を見つけますよね?
    お茶でも飲もうか、本でも読もうか、音楽でも聴こうか、散歩に行こうか・・・
    全く何もしない!って事が出来ないんですよね。
    常に思考は「DO」でいようとして「BE」ではいられない。
    庭の花を眺めている時でさえ、ちまちま思考が活発に活動している。
    あるがままでいるというのは、一切の判断をしないって事ですよね。
    すっかりとジャッジ癖のついた思考は、常にいろんな事を考えています。
    考えないと不安なんです。何かやっていないと不安なんです。
    何というか、誰でもなくなってしまう恐怖感というか。
    そしていつもいつもより良い自分であろうとしている。
    怠けた身体にはなりたくない、ちゃんと思いやるのある母でありたい、
    しっかり家の事ができる主婦でありたい、色々な事ができる人になりたい・・・
    などなど、どれだけの人物像を囲い込んでいるのか。
    これらは今までは無意識に勝手に自分で自分に刷り込んできた概念です。
    早い話、ダメなやつって思われたくない・・みたいな。
    いつからこんなに概念をいっぱい抱え込んじゃったんだろう?
    でもわかっているのに、その概念を手放しきれない。
    引き寄せの法則が流行れば、楽しい波動でいようと頑張ってみたり(笑)
    何か嫌な目にあった時は、鏡の法則だ!って自分を責めてみたり(笑)
    自分磨きをすればするほど周りとの分離感が強くなってしまったり・・・
    より良くなろう、より幸せになろうとするその思いが全ての悪の根源の様な気がしてきました。
    でもしょうがないですよね、そうゆう社会構造の中で育っていくのが人間。
    向上する事、頑張る事、達成する事は人間として素晴らしい事だってしつこく刷り込まれるこの世界。
    無理もないと思います。
    子供の映画なんかもぜ〜んぶそう。ディ◯ニー映画なんてもろにそう。
    困難に気持ちを強く持って立ち向かえば乗り越えられる〜♩
    あるがままではいけない、みたいな。
    だらっとしてたらダメなやつってレッテル貼られて、学校ではいじめられたり。
    こうやっていっぱい色んな仮面を抱え込んでいく。
    きっとみんな、どこかでそれはおかしな事だってわかっていて、だから苦しいんだと思う。
    そしてもっともっといい人になろうと努力してしまう。悪循環ですね。
    以前私はヨガのティーチャーをしていた事があって、
    最後にサバアーサナを終えた後の生徒さんたち、とっても清々しい顔をしていました。
    疲れがすごく取れました〜って。
    サバアーサナは死体のポーズなんですが、頭も身体も死体同然空っぽにするんですが、
    そうでもしないと普通に生きている私たちが、空っぽになれるチャンスは本当に少ない。

    すいません、とりとめもない事を長々と書いてしまいました。

    結局全ては浮かんでは消えていくって事、実感できています。
    先日夫婦喧嘩をしていて、「じゃあどうしたらいいの?!」って迫られた時に、
    ふとどうでも良くなってしまいました。
    思考が必死に答えを見つけ出そうとしているんだけど、その実体の無さに気づいてしまって。
    舞台で寸劇やってる様な感じになってしまいました。
    あーでもないこーでもないってのはただの言葉遊びみたいなもんだな〜って。
    ほっとけばどんな思考も感情も流れて消えていく。
    これ、忘れがちでついそこに巻き込まれがちです。
    この部分だけはいつも思い出していたいな〜と思います。

    いつもありがとうございます。感謝。

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  6. issei

    ☆あゆかさん、困らせてしまったようで、申し訳ありません。(どうか、お気になさらず♡)

    今、自分のコメントを、読み返してみますと、よくこれらの偏らないように配慮した感性と、認識性を、維持・保ちながら、

    このような長文を書く間、集中し続けられたものだなぁ?と、まるで、別人が書いたような、印象も受けました。

    コメントを書いている間は、ほとんど、時間を感じることがなく、終わってみれば、無意識的に自動的に書かれた感覚を思い出し、時間もそうとう経っていましたが、

    私の手放せない精神性と、憂慮には、違いないようです。

    ご無理を強いてしまい、すいませんでした。

    やはり、私の場合は、この方ならばと、選定出来たとしても、迂闊には、カウセリングや、個人セッションは、受けられないですね。。

    残念ですが、お読み頂き、とても、とても、感謝しており、満足もしております。♡ありがとうございました。

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  7. ひとみ

    あゆかさん、おはようございます。

    この伝えたいことは、どっちのブログに書けばいいのかな?と思いつつ 笑
    こちらに書かせていただきました。
    長々と申し訳ありません。

    私はいない(本質側)に居て ←この表現相応しくないですが、お許しください。

    あれ?なんだこの感情は?
    あれ?なんだこの気分は?と
    ふと出てくるたびに
    見て見て見尽くすほど徹底的に見ていると
    (「私」にとっては、これ↑が出来るようになったことが奇跡に近いです。笑)

    え”===========!!!
    「私」(自我)って、これほどまでに怖がっていたのか!!!と驚きました。
    でも、考えると納得いくことばかりで
    なるほどーそりゃそうなるよねーーと、
    癒す?というより理解してあげて
    それはそうなって当然だ!
    それは痛かったねーと、背中をさすってさすってさすってやると
    我慢していた?抑圧していた?「痛かったー!辛かったー!」が
    火山が爆発するように出てきて
    それでもそれでも背中をさすってやると
    鎮火します。
    被害者意識だけでなく加害者意識も見ています。

    日々、こうやって、ふとでてくるものを
    一回一回丁寧に丁寧に、もらすことなく徹底的に実践していますが

    なんだか
    これをすればするほど
    本質側(私はいない)が濃くなっていき←わかりにくい表現ですみません。
    ほとんどの時間
    こちら側に在れるようになってきたように感じています。
    心地よく、どっしりと安定しています。

    そんな時、まるで御試し?かのように
    過去、あれほど苦手だった人とバッタリ出くわしたりして
    でも、そのときすかさず本質側にいつの間にか在れたりして
    何も気になっていない自分と出くわし
    ヘェ〜こんなことになるの?と感動しています。

    癒しのワークって
    まるで大いなる存在からのワークみたいで
    とても癒され、とても愛されているのを感じ
    さらには、それを自分がしている?ところに
    ははぁ・・・これが本当の自分なのか・・・と
    気付かされています。

    あゆかさんが、
    それでもそれでも、癒しのワークしていってくださいね!と
    言ってくれた超!大事な言葉に
    心の底から感謝しています。

    これからも、くまなく、その都度その都度
    丁寧に丁寧に
    癒しのワーク実践していきます。

    意識化された領域が広がれば広がるほど
    分離を保つのは難しくなります。
    と書いてくださっていたアジャシャンティさんの言葉

    今、初めて 感じ入っております。

    あゆかさん、ありがとうございます!

    感謝

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    返信
    1. Coco

      ひとみさん

      横やり失礼します。

      素直に素晴らしいメッセージだな~と思いました。

      私はなかなかそういう境地まで行けず、癒やしのワークもどうすればきちんと自分と向き合えるのかイマイチ分からず…気がつけばいつも不安との闘いですから(笑)正直羨ましくもあります。

      素敵なシェアをありがとうございます!

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      返信
      1. ひとみ

        Cocoさん。ありがとうございます。
        これまた横やり?笑 で、すみません。

        あゆかさんのブログで、あゆかさんが応えるところなのに
        超!出しゃばってCocoさんへお手紙書きたくなりました。
        すごーーっく
        書きたくなりました!
        あゆかさん、すみません。( ;´Д`)

        私はいない(本質側)は、まず横に置いといて
        わたしの場合、私の気づかない私の声?がある日強く聞こえてきました。
        それは「壊れるーーー」という声でした。
        私自身、身体も心も限界!でしたので
        そりゃあそうだ!とわかり、休憩を入れました。
        これ↑メチャクチャ勇気が必要でした。
        今までしていた教室全部を手放す (書道教室をしていました。さらには色々な所の色々な役員?をしてました)
        無責任だろ!避難されるだろ!などなど、メチャクチャ勇気が必要でした。
        でも、これまた皮肉なことに身体も心も限界でしたので、出来ました。
        でも、今度は家事全般をどうやって手放すんだ?が残りました。
        子供が4人おりますし、夫も超!忙しい毎日なのに無理だろ?という感じです。
        でも、本当に限界でしたので
        正直に正直に、家族に伝え、家族にも了解を得、休養に入りました。
        でも、まだ完全なる休憩にはなっていませんでした。

        というより!沢山の、山盛りの、制限に縛られている「私」が、なかなか消えてくれませんでした。
        ここ↑が問題でした。

        この制限、観念、信念、常識?とか諸々に縛られている「私」
        この「私」が、なかなかしぶとい!のです。
        夫も子供達も心底「いいの。いいの〜〜」と言ってくれているのに
        私が!
        制限に縛られている「私」が
        外の仕事は、いくらでも私の代わりの人がいましたが
        家の仕事、両親のお世話は、
        私しかいない!という思考が
        なかなか剥がれません!

        えーー!!こんなに
        私は私を縛っていたの!!と、初めて気づきました。
        妻は、こうあるべき!母は、こうあるべき!
        さらに両親にも、娘は、こうあるべき!
        さらには人間はこうあるべき!
        などなど・・・それはそれは雁字搦めになっていた!ことを知ってしまった!のです。

        これは、もう!私を離れるしかありません。
        極端な話、地球から出て、地球にいる私を見る?みたいな・・・笑
        私は、それほど苦しかった!のです。
        なので、これしか方法がありませんでした。
        セラピストの方に頼ったことも最強でした。

        そんなこんなをしているうちに
        地球から出て、地球にいる私を見ている私の方が
        私?になりました。
        もちろん!「そんなの現実逃避やろーー」という自我の攻めの声にも悩まされたりと
        いろいろありました。

        でも!私は、あゆかさんを信じました!
        強く強く信じました!
        信じた!だけではありません。
        どこかで、これを知っていました。なので納得も出来ました。
        ただ、それでも自我は超!うるさく言ってきます。
        それでもそれでも、どんどん納得できる私(本質の私)に
        少しずつ少しずつ移項していきました。
        でも、これまた不思議なことに
        前から知っていた!感じも強くありました。

        で、今朝も
        制限(常識?とか諸々)をはずして
        何がしたい?と聞いたら
        「まだ休憩していたいの」という小さな遠慮気味の可愛い声が聞こえました。
        そっか、まだ休憩していたいんだね〜
        OK!!!いいよーーー!!!

        まるまるその声に了解してあげると
        ( 正直、どこかでわかります、この本音、だって私の本音ですから 笑)
        メチャクチャ元気に動けます!

        ここが謎?ですよね、多分。。。
        わかってあげると楽しく動けちゃうのです。
        義務?や、任務?ではない!からなのか
        自由そのもの!だからなのか
        なぜか るんるん気分で楽しく嬉しく動けちゃいます。

        ここら辺の不思議な話は
        あゆかさんにお願いしたいです。

        またまた、長々とすみませんでした。
        Cocoさん!ありがとう!!!
        あなたのおかげで、また1つ整理出来ました!!!
        ほんとうに、ありがとう!!!

        感謝

        いいね

  8. Coco

    ひとみさん

    丁寧なレスポンスありがとうございます!
    なんか・・・心にぐっと来ました。
    ここしばらく、心身ともに非常にしんどい状態なのですが、すご~く参考になりました。
    たくさん言いたいことはあるのですが、とりとめのない話になりそうなので(笑)ここでは御遠慮するとして、とりあえずお礼の気持ちをお伝えしておきます。

    こちらこそ、ひとみさんのおかげで、少し整理ができて、少し楽になりました(^ ^)

    本当にありがとうございます!

    あゆかさん

    いつもありがとうございます。

    「ただ在ってみる」と聞くと、「ただ在ろう」として「努力」してしまう自分がいます(笑)
    でも、ダイレクトパスは面白いです。
    で、ここでも、やろうとすると、「ダイレクトパスではこうなるはずだ」とまたまた思考や観念が先に浮かんできて、「ダイレクトパスになってないやん!」って笑ってしまうことがあります。
    それでも、境目がない、区切りがない、というのはわかります。
    わかるんですが、でも・・・「だから?」って感じです(笑)

    >実はそこが一番安心できると分かるまで、生命にすべてを明け渡しても大丈夫なのだと分かるまで。

    ここがなかなかわからない、というか、難しいところです。
    きっと私の中に「楽になるはずだ」という思い込みがあるからだと思います。
    たぶん、難しく考えすぎなのでしょう(^ ^;
    マハルシ風に言うと、「難しい」と思っているのは誰か?って感じでしょうかね。

    これからもメッセージよろしくお願いします!

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      COCOさん、こんにちは☆

      Cocoさんとひとみさんの会話素晴らしいですね~~。イギリスに戻る前でしたので、ゆっくり拝見できませんでしたが、今改めて読ませていただき、ひとみさんのコメントに私も心から感動です。

      はい、自我は動いている(じっと座っていても思考活動が活発だったり)ことで維持されていますので、「ただある」ことははじめ非常に難しいかと思います。それこそ、ある程度の意識的な操作が必要かもしれません。でも、ただあろうと努力していることに気づいていらっしゃるので、それをただ落としてみたり、どんどん自我の動きをそぎ落としてみたらいかがでしょうか?

      でも、「ただある」“状態”をキープすることだと勘違いする人もいますので、そこは忘れずに~☆

      いいね

      返信
      1. Coco

        はーい♪
        最初は意識的な動作が必要かもしれないって聞いて、あ、それでもいいんだって、少し気持ちが軽くなりました(^_^)

        あゆかさん、いつも具体的なアドバイスをありがとうございます!

        いいね

  9. rusland

    あゆかさん
    いつもありがとうございます。
    英国のEU離脱・・そうだ、あゆかさんに聞いてみよう!
    現地にお住まいの感覚としてこれは何を意味するのでしょうか。
    どんなニュースよりも、
    あゆかさんの実感や透察をお聞きしたいと思いました。
    世界は良い方向に向かったのでしょうか? あるいは逆に?
    考えるほどにわからなくなるのです。
    よろしくお願いいたします。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ruslandさん、こんにちは☆

      今、まさにホットな話題ですね。イギリスのEU離脱派は、トルコがEUに加盟してしまったら、大量の移民が来るのを避けたいといった人種差別的な人が多いというイメージがありますが、そうでもないようです。

      また、若者が残留派、年配者が離別派といった分かりやすい対立でもなく、実はけっこう複雑そうだなと感じています。

      EUに加盟していることで守らなければいけない規制(水産業は完全に衰退してしまった)と義務(毎週600億ぐらいの税金をEUに支払う)によって影響を受けている人たちや、EU内の政策が必ずしもうまくいっていない(若者の失業率の高さなど)こと、EU内の大国(ドイツ、フランス)に優位な形になりやすいことなどなど、様々な理由で離脱に投票した人も多いようです。

      世界は常に変化し続け、世界が良くなるとか悪くなるというのも、その人がどの視点で見るのか?に過ぎないかなと思います。イギリスのEUの離脱が何か大きな意味を持っていると考えれば、そういう世界観が生まれ、あたかもそのような固定した「世界」があるかのように感じられてくるでしょう。

      自我の視点で世界を見ると、判断や考えに囚われてしまうかな~と思います。ので、真実の視点から生命が織り成す変化を信頼し、シンプルに自分のハートに耳を傾けていきたいなと思っています。

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      1. rusland

        あゆかさん、ありがとうございます。
        ・・いったん決めて後悔したり、再度の投票だとか、
        EU側のあっさりクールな対応に傷ついたり。
        (ちょっとは止めてくれよ〜w)
        まるで何かを決断したあとの自分の思考を、
        壮大な欧州に置き換えてはるか上空から眺めているようです。
        楽しんでいる自分もいます。
        現地の生活が平穏であるようにお祈りします。
        ( *_* )v

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  10. アーサー

    あゆかさま
    こういう話題は、ノーコメントかと思いきや、誠実なご回答ありがとうございます。

    当方、アベノミックス中心のマスコミの視点に踊らされ、経済的損得でしか考えられ

    無いことを反省しています。なんくるないさで行きたいもんです。

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  11. Coco

    私も、今回の国民投票の件に関するあゆかさんの意見が聞けて嬉しかったです。

    非二元の真実からすると何も起こっていないのでしょうが、だからと言って、二元の世界にどっぷり浸って生きている私としては、こういう問題に無関心ではいられませんから。

    でも、結局は、起こる出来事はどのようにでも捉えられる、ということですよね。出来事自体が問題なのではなくて。ついついマスコミの不安を煽るような報道に心が引っ張られがちですが、あゆかさんの

    >真実の視点から生命が織り成す変化を信頼し・・・

    というコメントを読んで、いい言葉だなあと深くうなずいた次第であります。

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  12. いずみ

    ブログの初めから読ませていただいています。
    ここまで来ました。丁寧なお話、ありがとうございます。
    とてもわかりやすいです。

    「思考が現実化する」なども、あたかも思考のほうが現象よりも先にあるかのような発想です。現象を常に自分中心に解釈する自我的な世界の捉え方。

    ここについてなのですが、
    「思考が現実化する」の意味するところは、おっしゃるような「自我的な世界の捉え方」
    もあると思うのですが、それは思考と自我を無意識、或いは意図的にに結びつけた時に
    はそうなると思いますが、
    思考は思考、独立したというか、何らかのものと結びつけられない、
    思考のみであって、そしてその思考が現象化するというと、前後を連想してしまいがちですが、思考即現象という見方もあると思います。
    自我的ではなく、いのち・意識の法則性でもあると思います。
    バイロン・ケイティさんが問いかけ続け、気付きが起こるのも、
    クライアントさんの思考、信念が変わったから、世界の見え方も同時に
    変わったのではないでしょうか
    実際、自己否定をしている人は、まさにそうゆう世界を生きていると思いますし、
    世界は豊かだと思っている人は、まさにそうゆう世界を生きていると思います。

    少し前の記事に
    「スピリチュアル、引き寄せ、思考が現実化する、心のしくみ」などは、「(個としての)自分がいる」ことが前提にならないと成り立たない話です。
    とありました。
    人によって定義は異なると思うのですが、わたしは引き寄せと思考が現実化するは
    同じことを表現したものと思いますし、ノンデュアリティも同じだと思います。
    自己の本質的な部分、純粋意識と表現されているもの、個としての自分の無い
    世界に働いている、法則性そのものを表現したものが、引き寄せ、思考が現実化する
    だと思います。(引き寄せは胡散臭いものがいっぱいくっついている気がしますが、
    中身はとても大事なものではないかと思います。)

    ただ起きているだけ、といいましても決して受け身だけの在り方ではなく、
    同時に能動的な、創造的な在り方を命はしていると思います。
    ストーリーに支配されていても、自由になっても、「思考が現象化する」は
    創造でもあり、おのずとそこに働いている道理ではないかと思います。

    仏教の言葉を時々引用されていますが、
    三界唯一心や三界唯心造、自業自得は「思考が現象化する」に相当するのではないかと
    思います。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      いずみさん、こんにちは♪

      ブログを初めから読んで頂きありがとうございます。嬉しいです。

      たぶん、こういうテーマはお会いしてやりとりをするのが本当は一番良いかなぁと思われます。
      基本的に大好きなので、いつかお会いできると嬉しいです。

      また、思考が現実を創るということの定義が人によって違うので、それもすり合わせないと
      いけないかなぁと・・・、とりあえず限界あるコメント欄でお返事させてください。

      「バイロン・ケイティさんが問いかけ続け、気付きが起こるのも、
      クライアントさんの思考、信念が変わったから、世界の見え方も同時に
      変わったのではないでしょうか
      実際、自己否定をしている人は、まさにそうゆう世界を生きていると思いますし、
      世界は豊かだと思っている人は、まさにそうゆう世界を生きていると思います。」

      はい、これはおっしゃる通りだと思います。私がやっているOAD(オープン・アウェアネス・ダイアローグ)も
      これをやっています。

      見え方が変わるというのは、言い方を変えればその人の世界への投影が変わるということで、
      現実が変わったわけではないですよね。バイロン・ケイティやOADが目指しているのは、
      投影が変わるというより、投影が落ちてありのままが見えるということかなと思いますが、
      いずれにしてもありのままの現実があって、そこに思考のフィルターがかかっている
      というのと、思考が現実を作り上げているというのは、違うことかなと思います。

      ただ、例えば、ある人が自分に関して“自分は変な存在だ”という信念を持っていたとして、
      その人はその信念通りの言動をするため、結果的にみんなから変な奴と思われてしまう
      ということはあるでしょう。

      好きな人に捨てられると思い込んでいる人が、あまりにしつこく“私のことを愛している?”と
      聞くため、疎まれて捨てられてしまうとか・・・。

      その自我がもつ信念体系が実際の現実を創ることは充分あるかと思います。

      それを広げて考えていくと、人類の集合意識が今の世界を作り上げていると言っても良いかと思います。

      でもこれは、空即是色の「色」の部分だけの話ですね。ストーリーです。これを「空」の視点で見たとき、そこに主体はなく、起きていることが起きていて、しかも、起きていて起きていないです。

      仏教も色の側面からの言葉や、空の側面の言葉が入り混じっているかなぁと思います。

      とっても楽しいのですが、長くなりますのでこの辺で失礼いたします♪

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  13. いずみ

    丁寧にお話いただきまして、どうもありがとうございます。

    定義のすり合わせも確かに必要だと思います。

    「いずれにしてもありのままの現実があって、そこに思考のフィルターがかかっている
    というのと、思考が現実を作り上げているというのは、違うことかなと思います。」
    おっしゃる通りだとわたしも思います。
    ただ、逆といいますか、思考、意識が先とも言えると思うんです。

    わたしも4年ほど前に気付きがありました。
    私が何にもしていないのに、目の前の世界がなぜか在る。
    私以前に世界はちゃんとあると気付いた時、いろんな情報が
    勝手にダウンロードされるように入ってきました。
    諸々の答えは自分の中に在ると、今は思えます。
    そんな中でふと思ったことですが、
    世界を感じるというのは、知覚が在るということで、
    その大元は、見るものと見られるものが一つの状態だと思いますが、
    言葉にするために有ると無い、外と内のように二つに分けると思います。
    この時、一般的には「外から内」という方向で、外にあるありのままの現実が
    内にある自分に映る、というように表現されると思います。
    ですけど、「内から外」という方向、自分が現実を映し出している、全てが投影
    という見方も同時に「あり」なのではないでしょうか?
    (もちろんそんな単純な構造ではないと思いますが。)
    「外から内」が「内から外」という見方に優先される理由はないと思います。
    どちらも間違いではないように思えます。選択の問題だと思います。
    「外から内」という見方にはそのような世界が、「内から外」にはそれなりの
    また違った世界が拓かれるように感じます。
    気付きがありましてから、この世は真逆のものが同居していると感じていますが、
    この見方もそのうちの一つではないかと思います。
    プラシーボ効果も「内から外」の見方の延長にあるものでは?と感じています。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      いずみさん、こんにちは♪

      お返事をありがとうございます☆

      やはりこの手のやりとりはコメント欄では意味が理解できないところがあり、
      難しいですね。

      “思考、意識が先”、“その大元は、見るものと見られるものが一つの状態”など、
      このあたりで私の脳みそがクラッシュして、話をしている土台そのものが
      違う感じがしてしまいます。

      そして、最後までどうしても、「色」の側面だけをお話なさっているようにしか
      聞こえないんです。

      なんか、まったく話が平行しそうなので、ぜひいつか実際のやりとりをさせてくださいませ。

      というなんだかつれないお返事にもめげず、今後もぜひブログをお読みいただければ
      嬉しく思います。

      PS; ちなみに私は自分が思ったことではなく、見たままを書いているつもりです。

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  14. いずみ

    返信ありがとうございます。
    変な話しにお付き合いくださいましてありがとうございます。
    自分でももしかするとおかしいのかなと思う時もあるのですが、、
    でもやっぱり考えでひねり出したというより、そうなんじゃないのかなあと
    自然に思えることで、だれかとそうだよねぇと言い合えたら嬉しいなぁという
    気持ちで書きました。

    <「色」の側面だけをお話なさっているようにしか聞こえないんです。

    「空」の側面を私は感じ切れていないのかもしれませんが、
    空であるからこそ、色の側面が自由に無限に広がると思えまして、
    また、結局空は色でしか表されないと思えまして、今は顕わし方にこだわちゃっている
    からかもと自分では思えます。

    いずれにしましてもすっとんでいるかもしれません。
    ほんとうにお付き合いくださいましてありがとうございます。
    最新の記事まで、また読み続けます。

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