自分を投げ出すと・・・・

かつて大海の荒波の中で方向を見失い、どう泳いでいけば分からなかったとき、
差し出された浮き輪(ハウツー、自己啓発、様々な教え)は、とても役に立った。

そのうち、浮き輪がなくても自分のハートを聞いていれば良いのだと気づき、
大海の荒波は荒波ではなくなった。

自分のところに来るどんな波も深く潜って、寄り添い、受け入れ、変容を見届け
ているうちに、ある日気がついた。

私は大海だったのだ!

~・~・~・~・~・~~・~・~~・~・~~・~・~~・~・~

私たちは無意識にいつも、自分はどうやって生きるべきなのか、
どう考えて生きていれば良いのだろう・・と考えているでしょう。

ある意味、自我のふか~い刷り込みで、そう考えていることさえ当たり前すぎて
気づいていないかもしれません。

だから、“真実では決して頭で理解できないですよ~”と聞いても、
「頭で理解できないのだから・・」などとやっぱり考えてしまう。

または、頭の中で真実をていよくまとめて、ノンデュアリティって
結局こういう意味だよねと納得し、人生に活かそうとしたり。

なんとか真実を自分の手中に手なずけようとしているから、
ノンデュアリティは生きるために役立つメッセージではないと聞くと、
反乱を起こしたくなるかもしれません。

“人を救わないなら悟りってなんの意味があるの?”
“じゃぁ、なんであの人たちは発信しているの?”

でも、すごく矛盾しているのは、自分を投げ出したときに
私たちはやっと家に帰れるということ。

ノンデュアリティを理解してどう生きていくか?という発想がベースにある限り、
ノンデュアリティと書かれた浮き輪につかまっているだけ。

ホームカミングとは、ストーリーを持った私が生まれる始まりの始まり。
自分がどう生きてきたか、今どう生きているか、これからどう生きるのか、
というストーリーがない場所。

それは呼吸よりも近く、いまここにすべてに現われ、すべてに浸透している。
それは開かれた愛であって、すべてを包括する救い。
真実は自我が生きるためのツールではなく、自我が真実の表現のツール。

のんびりと行こう♪ (*^▽^*)

自分を投げ出すと・・・・」への15件のフィードバック

  1. じり

    冒頭の部分、「自分を投げ出したとき、自分が大海だったことがわかる」というふうに読めますが、とても誤解を招きやすいのではないかと感じます。投げ出す「自分」は、そもそも、居ませんよね。
    自分が居るという勘違い、その錯覚に気づくことを促すために、非二元の先生たちは“波と海”の例えを用いたりされますが、これは聞くほうも気を付けないと、混乱させられてしまいます。波=自分、と考えて、自分が居ることを前提として、そこから全体になるために何かをしようとしてしまう、という…。
    たとえ話や、方便は、便利でもあるし、もどかしくもありますね。でも、いずれも完璧ですね(^^)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      じりさん、こんにちは☆

      なるほど~、確かにそうですね。全体になるという発想を持ってしまうかもしれませんね。そこに気が回りませんでした。ありがとうございます♪ (*^▽^*) 

      とりあえず、投げ出す自分はいないのですが、「自分がいる」と強く感じている人にとっては、「投げ出す」は、「私が~、私が~~」という思いのエネルギーが弱まるかもしれないと思って書いています。

      突然解放が起きてシフトする人たちもいますが、少しづつ目覚めていく人たちも多く、今自分がどんな段階にいるのかによって、例え話や比喩は役に立つなぁと思っています。でも、おっしゃるように限界はあるし、混乱する人もいるでしょう。

      ただ、じりさんがそうだとは思いませんが、これが真実なのだという概念(私はいない、起きていることが起きているだけ、など)に陥ると、これもまた足元を見失います。

      アジャシャンティが上手に書いているので、いつか翻訳したいと思っていますが、絶対的な観点だけに留まってしまうと、自分を見つめることを辞めてしまう人が多く(見つめる自分なんていないし、すべては完璧で、ただ起きているだけだから)、そこから先へ行けなくなってしまうと言っています。で、その通りだなぁとつくづく思うのです。

      どの非二元の概念も持たず、今自分には真実が見えているのか?だけを軸に選び取っていけると良いですね。で、誤解する人がいてもいいや~とこれからも好き勝手に書いていきます。えへへ。

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      1. ひとみ

        えへへ (^_^)

        幼子のえへへ♪ みたいで
        なんだか嬉しくなっちゃいますね。

        ところで、「私」

        私は、とんでもない罪深い人間だ!
        私は、全くダメな人間だ!
        私は、危険な(危なっかしい)人間だ!
        の思い込みが滅茶苦茶強くて、、、ですね〜 笑

        それで、だから!もっと苦しまなければいけない!!
        もっと世のため人のために動いて罪を償わければ!!!みたいな
        自分の法律?みたいなのつくっていたようです。 (^^)/~~~
        知らなかった!とはいえ ビックリですよねぇ~~

        それがですね〜 いつも静けさ感じているせいか?なんだか?
        「罪?そんなもん、はなっから存在してないのにねぇ~~」が
        ハッキリクッキリ わかっちゃって。。。。。

        誤解しようのないこれ に 行き着いちゃった!みたいで・・・ えへへ♪

        そんで さらに これを表現しようとしている あゆかさんに
        えーーーーどうやって?と
        尊敬どころの騒ぎではないくらいの尊敬!になってしまいました。

        逆に言ったら これ、誤解しか受けないですよねぇ~~~ 頭にはねっ♪
        スンマセン (^_^)

        それでもそれでも癒し続けま〜す!

        いつも、ありがとうございます!!!

        (^^)/~~~

        いいね: 1人

  2. ななちぶし

    あゆかさん、こんばんは。ななちぶしといいます。2回目のコメントになります。

    あゆかさんのYOUTUBEの動画で生まれてから今まで常にある「いまここにいる意識」というわかりやすい表現をしていただき、「気づきの意識」に関心をもつことができました。それから、思考を見つめることを始めたり、「赤ん坊として生まれたときどんな意識だったかな~」と想像したりして、なにやら意識的にその常にある意識になることが時々できるようになってきたように思います。たしかに生まれてから常にある意識ですね!!

    思考、感覚、感情などは勝手に出ては消え、気づきの意識はそれらを映すスクリーンのようなもの。自分もそうなんだから他人も同じ。少しずつ理解できているように思います。まだそれが全体がひとつという思いまではできていませんが。。。

    先日、自転車に乗りながら2時間ほど思考のない状態を過ごすことができました。いまも思考と同一化したり、迷ったり感情的に怒りがわくこともありますが、ふっと常にある意識にシフトすることで、問題が軽く感じたり、怒りに飲み込まれずに観察することができるようになってきました。まだまだですが、あやかさんの言う通り「のんびり」と楽しみながら試行錯誤しながら進めていきたいと思います。

    これからもブログ楽しみにしています!!

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ななちぶしさん、こんにちは☆

      とっても良い感じですね~♪ 

      言葉がそもそも二元のツールなので、「その常にある意識になることが時々できるようになってきた」と聞くと、あたかも「私(主体)が、気づいている意識(客体)になる」というように聞こえてしまいますね。

      でも、おっしゃる意味分かりますよ。最初はそんな二元的な感覚から始まりますが、ただそこに「あって」いるうちに、主客が落ちていきますよね。

      また、思考がない状態をめざすわけではないですが、思考がなかったり、同化しない状態は、自我解体の始まりですよね。ほんとうに楽~☆

      お互いにのんびり行きましょう♪

      いいね

      返信
      1. ななちぶし

        あゆかさん、お返事ありがとうございます!!
        周りに非二元について話せる方もいないので、とても嬉しいです。ありがとうございます!!

        そうなんです、私まだ二元的な感覚バリバリの二元人間なんです~☆
        思考がない2時間は私にとって、自己新記録的な長さでした~(笑)
        そうですよね~思考が起きても、それを眺めるようにしています。

        はい、のんびり行きたいと思います。
        これからもよろしくお願いします!!

        いいね

  3. issei

    私が私を守ろうとしなければ

    私が私を隠そうとしなければ

    私をさらけ出し

    私を公開する覚悟さえあれば

    誰も私を侵すことはできない。

    すべてを失ってこそ

    すべてを得る。

    ある方が、先日のメルマガで、言われていたことですが、

    十年前くらい前に、死後の世界のことをどうしとも知らなければならず・・

    英国発信のスピリチュアリズムに必死の思いで、傾倒しました頃に・・

    同じことを、気づかされて、ハッとしたのを思い出します。

    その後も、何度も、何度も、思い返す機会があり、

    今は、一瞥して、道理だなあーーとの、認識になってしまいました。

    ・・ただし、すべてを得たときは、「わたし」はいなくなってますでしょうから・・

    ◎まだまだ「私のこの意識」として喜怒哀楽を味わい、

    生老病死を経験して、

    弱肉強食を生き残りたい方・・

    輪廻転生?を繰り返して、異なる「私」を楽しみたい方、リベンジ!したい方、

    会社や、家族や、恋人や、愛するペットが大切な方、

    真理や、自覚よりも・・快楽の追求や、食べる事、ストレス発散!が大事な方、

    どうしても幻想に見えず・・現実に思える“世間体”の方が、大切な方は、

    頭の中に描いた、絵空事だと、思って下さい。

    そのほうが、幸せで居られます。

    なんてね。(^_-)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんにちは☆

      いつもコメントをありがとうございます♪

      言葉ってほんとうに難しいですよね。書いてくださっていることを正しく理解していない可能性も高いのですが一応、「わたしがいなくなる」のではなくて、「わたしがいなかったことに気づく」んですよね。なので、喜怒哀楽はそのまま続きますし、あらゆる経験も起き続けますよね。

      ただ、真実に目覚めたとき、自我としての現れに変化はあるかもしれませんね。(ないかもしれないけど)(*^▽^*)

      いいね

      返信
  4. issei

    変に気兼ねなく、斬り込んでいただけるのは、とても、光栄です。大歓迎です。(^^;)

    ★ありがとうございます。

    しかしなから、不本意でもありますが・・連想ゲームになってしまいますが・・・

    ちょっと、確認や、修正?のため、誰にでも、共通な?真理について、お聞かせ下さい。

    >>「わたしがいなかったことに気づく」んですよね。←★この気づいたのは、

    “わたし”と言って(解釈して)いいのではないでしょうか?

    >> なので、喜怒哀楽はそのまま続きますし、←★喜怒哀楽を起こしているのも、創造してるのも、

    やっぱり、“わたし”と言って(解釈して)いいのではないでしょうか?

    >> あらゆる経験も起き続けますよね。←★この、経験を、しているのも、

    どこにでも、その現れの基礎としてあるように洞察できます、“純粋意識”としての・・

    “わたし”ではないでしょうか?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      うふふ~、あっ、意味のない笑いをすみません。

      こちらこそ気を使っていただきありがとうございます♪

      たぶん、「わたし」という言葉が混乱のもとかもしれませんね。

      行為者、選択者、主体がいないということです。(私の言葉を鵜呑みに
      しないでぜひ観察してみてください)

      で、そうです。“私っていなかったのだ!”という驚いているのは、
      自我ですが、もっと正確にいえば、そういう思いと感情が主体なしに
      現れているんですよね。(誰かが何かに気づいているのではなく)

      喜怒快楽が主体なしに勝手に起きて、経験があるだけで、経験を
      している誰かはいないんです。(*^▽^*)

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      返信
  5. issei

    ☆ありが・・・とうごさいます、私、この自我としてあらわれている、無形のわたしから生まれました一つの思いの形を、

    大切にしたいです。

    思い込みや、幻想や、波や、泡のように、一時の経験の繰り返しだしても・・・

    現れるもの、すべての自我、すべての生命を思いやっているんですもの・・

    責任はない、関係ない、痛みや、苦しみ、恐怖や、不安、を“本物”として、感じたり、体験したり、する者たちを心から心配して、愛して、いたいですか・・

    たとえ、この自我の私が、苦しくとも、楽しくなくとも・・逃げ出したくは、ありません。

    この“自我たち”の立場になって初めて分かる、大切な事だと、思います。

    勝手に、自分たちの快楽の追求のために、成り行きで、産むだけ、産んどいて、

    知らない、関係ない、無かった、などと、知らんぷりは、したくないのです。

    これは、人間だけの、経験や、体験に対して、言っているわけでは、ないねです。

    私は、この摂理として、自然に起きている、自分たちでは、逃げられない、真実を、気づけない自我、意識たちの見方でいたいです。

    みんな・・ウソだ、本当じゃないと、目や耳を塞ぎ、心配してあげたり、思いやってあげないんですもの。

    かわいそうです。

    現れが・・気づく者と、気づかれるもの・・という現象の繰り返しの中で、

    何が大事か、大切かへの、探究は続けられて・・行くのでしょうが、

    誰よりも、お優しかった先生のお陰で、自分を消してしまっても、良いのでは?・・という、迷いが、

    減少して行ったようです。

    ありがとうごさいました。お元気で・・。

    いいね

    返信
  6. ひとみ

    あゆかさん おはようございます (^O^)

    あゆかさんに言われたとうり
    癒して癒しているうちに。。。
    というか
    話しかけて意識しているうちに( 自分の中の子どもに)
    この子は毎日、超!ご機嫌で
    いつも話しかけるたびに クスッ♪と笑えてしまいます。
    逆に 観念だらけのおばちゃんが、この子に癒され救われ
    観念だらけのおばちゃんになってるよ!と気付かされ
    いつもガチガチのおばちゃん意識から 解放されます *\(^o^)/* 感謝。

    とにかく
    好奇心のみで、義務感とか責任感?とかいう観念が全くないときの私です。
    懐かしいです*\(^o^)/*

    なので「面倒くさい」という気持ち?感情?が なんだか薄れて来ちゃいました。
    心も体も めちゃくちゃ軽く、いつもワクワクし
    とにかく 笑えます。笑ってます。
    何を見ても なんだか可笑しくて可笑しくて。。。
    (非常識?な笑いに なっちゃうので 気をつけてます *\(^o^)/*)

    ピタッと止まり大いなる存在を感じる(静けさを感じる)のと
    この自分の中の子どもに意識を向けるは
    どうも 私はいない=私は在る と同じ?に感じます。

    私にとっては、自分の中の子に意識を向ける!のほうが
    すぐに 偽物に気づけます。観念だらけのおばちゃんに気づけます *\(^o^)/*
    きっと子どもを意識するとき、同時に
    バックボーンにも気付けるからなのかもしれません。

    不思議だけど とても楽になり(義務感、責任感
    などなど、いろいろな観念から解放され)
    さらには好奇心が凄くって
    いつもワクワクしている子どもみたいなわたしです。
    ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

    最近、ちょいと頑固おやじになりつつあった夫も
    こんな話ばかりして喜んでいるわたしに
    朝からご機嫌に出かけて行きました。

    ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

    あゆかさん

    ありがとうございます。

    大大大感謝

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとみさん、いつもありがとうございます♪

      いやぁ、私は感謝されることはまったくしておらず、ひとみさんが
      ご自分でどんどん深めていらっしゃっていて、すごいなぁと思います。

      >私にとっては、自分の中の子に意識を向ける!のほうが
      すぐに 偽物に気づけます。観念だらけのおばちゃんに気づけます *\(^o^)/*

      これ素敵ですね☆ あと、表現もユーモラスで楽しいです♪

      いいね

      返信
  7. 匿名

    あゆかさんに質問!
    気づきの意識とは、全体のエネルギーのことですか?
    それとも、今ここで自覚?認識している意識のことですか?
    大和田菜穂さんは、意識すらも分離していると仰ってますが、
    エックハルト・トール氏とかは、本当の私達は意識そのものと言ってるし。。。
    全体のエネルギーを確認?するための反応が、人間でいう意識なのでしょうか。
    それとも意識(確認)以前のエネルギーのことを指しているのでしょうか。
    人間の肉体がなくなっても、個別に見えていた意識がなくなるだけで、
    全体の意識は残るのでしょうか。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは☆

      ご質問の前提があまり把握できないかも~です。

      なんとなく、全体というものと個別の意識というものがある、というイメージになっているかもしれませんね。あと、意識と全体のエネルギーが別物というイメージもあるかも?(間違っていたらごめんなさい)

      とりあえず、いまここにあるものの中で、唯一変化しないものは何でしょうか? 思いや感情や体や出来事や自然やらなにやらすべて移り変わっていく中で一つだけ常に変化せず、ずっとあるものは? 

      でも、そのずっとあるものと移り行くものは決して分けられないですよね? 

      それを表現する言葉がなく(イギリスでこの世界を知ったので、英語で失礼しますが、awareness, pure consciousness, I AM, Being, Reality, God,Onenessなどなど、いろいろな人がいろいろな表現を使ってきました。

      私は、ルパート・スパイラの影響でawareness(気づいている意識)と表現していますが、ルパートさんにしても、別の表現を使うことも多いです。

      また、私がいないのだから(いつかいなくなるのではなく)、このコンピューターのスクリーンを読んでいるのは誰でしょう?文字を認識しているのは?そこに個の誰かはいるのでしょうか?

      個別の思いや感情は沸いてきますが、そこに「わたし(主体)」はいますか?

      ご質問がすでになにか違うイメージがあるような気がするのですが、それがつかめないため、上手なお返事になっていないような気がします。

      が、とりあえずこのへんで~。

      そうそう、匿名さんがそうなのか分かりませんが、思考と意識が区別されていない人が多く、ここを混乱していると個の誰かが何かを認識していると勘違いしやすいかなと思います。(というか、ほとんどの人間が勘違いしていますが)

      いいね

      返信

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