矛盾を軽々と超えるハート♪

自己の不在を見抜くことは、分離の幻想から抜け出す一つの大きな鍵であることは間違いないでしょう。

でも、今日は個人的にはもっと大切だと思っていることを書いてしまおう。うふふ。

ということで、自我=思考といっても良いぐらい、人ってほんとうに考え、考え、そして考えていますよね。なので、悟りやノンデュアリティも頭では捉えられないと知っていても、つい考えてしまったり。

そこでご提案です。

世界や出来事を考えではなく、ハートを通して捉えてみませんか?

これを読んだ瞬間、戸惑ってしまう人も多いかもしれません。

長年に渡って思考で把握する訓練(学校教育などで)や癖をある意味強いられてきましたから、“ハートで捉えるって?どうやるの?”みたいな。

でも、一般社会はともかく、心を扱う分野でも、また悟りやノンデュアリティの世界でさえも、思考がものすごく活躍しているなぁと感じるのです。

というより自我は、“なるほど!分かった!そう考えれば良いのだ、そうすれば良いのだ!”、という理解&方法を知ることに快感を感じているものです。

なので、経験やハートに持っていこうとすると、とたんに興味を失う人も多いですね。

ですが、ハートの持つ智慧は、思考の智慧よりもはるかに深く、思考が超えられない矛盾を軽々と超えることができるんです。

世間で起きている悲惨な事件を思考は、こんなひどいこと、かわいそうなことが起きているのに、“起きていることが起きているだけ”とか、“すべてはありのままで完璧”とか言ってしまうの???

と、悲惨なことと完璧がどうしても相容れないでしょう。

でも、これらをハートを通して眺めてみるとどうでしょうか?
ハートの声は思考とはまったく違うことを言っているはずです。

例えば、家族が突然困難な病気になってしまったとしますね。

思考は、どうしたら良いのだろう? こんなことがなぜ自分に起きるのだ? 治らなかったらどうしよう。これからやっていけるのか? あのときなぜ気づかなかった・・・などなど、HowやWhyや過去や未来に思いが飛んでいくでしょう。(それが悪いことだと言っているのではありません)

でも、ハートで感じてみたら?

ハートは、シンプルに“私の大切なものが壊れていく、怖い、悲しい”とだけ言っているかもしれません。

そしてそこでどうにかしようとせず、よ~くハートに留まり続けたら、それらの思いや感情がなんの批判もなしに、100%受け入れられていることが分かるはずです。そこはもうハートという気づいている意識(awareness)のスペース。

気づいている意識のなかに、その思いや感情が現れ、それは無条件の愛で支えられている。

そこで、これらの思いや感情はこの無条件の愛によって変容し、癒されていきます。

そこにはなんの矛盾もなく、良い悪いもなく、なくそう、変えようという操作もなく、あるがままが完全に許されているんです。

で、それが癒しであり、完全性であることを思考には理解できないでしょう。思考は悲惨なことはそもそも起きるべきではないなど形にこだわるので。

また、思考に引っ張られていると、私たちはこのハートの声をすっかりスルー(抑圧)してしまいます。結果、これらの思いや感情は癒される機会を与えられず、そして私たちは苦しんでしまいます。

様々な思いや恐れ、自己否定感などでハートを閉ざしている人も多いでしょう。
自我にとってハートを開くことは、無防備になることだったりもします。

しかし、現れるあらゆるものが支えられていることをよ~く感じれば、ハートがいかに教鞭で思考がいかにもろいものかも感じられてくるはずです。

思考には受け入れられないことがたくさんありますが、ハートは常にすべて受け入れているんです。

そして、そこにただあり続ければ、すべての出来事は現れては消えていく物語であって、そこで傷ついた人もいないことも見えてくるでしょう。

なので、真実を理解しようとするよりも、自分の心がどれぐらいオープンになれるのか?どれぐらい分離の幻想から自由になっているか?

今日はそれをちょっと振り返ってみませんか?

矛盾を軽々と超えるハート♪」への34件のフィードバック

  1. アイビー

    あゆかさん、ありがとうございます。
    今日、癒しと気づきがまた一つ起こりました。

    私のやったことは、いらいらしている自分の声を次々に書き殴った後に自然に癒しと気づきが起きました。

    ノートに書いた言葉がハートの声だったのですね。
    ハートの声、聞いて欲しかったんだなぁ。私に。

    ハートの声って高尚なものでなく、とってもわがままで、でもとっても愛おしい声なんですね。あゆかさんのブログで更に腑に落ちました💗

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    1. ayukablog 投稿作成者

      アイビーさん、こんにちは☆

      はい、ハートの声と書きましたが、自分の心にある本当の思いでも良いかもしれません。特に高尚でもないけど、とても正直ですね。(*^▽^*)

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  2. 匿名

    死ぬときが来るなら、死ぬだけなのだから、ただ死ねばいいや~
    そう思うようになってから、あらゆることがラクになりました
    執着したいろんな抵抗ってみんな失う事への恐怖からきていました
    ひとつひとつていねいに見ていくと、あれれ?
    もっと自由でいいじゃない?どちらでもいいじゃない?と感じるのです
    すると
    エネルギーがラクに流れるのを感じ
    なんでもアリだからこそ充ちるよろこびを感じます

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    1. ayukablog 投稿作成者

      匿名さん♪

      そうそう、何かを失うことから守ろうとして執着や緊張が生まれますよね。

      でもほんと、どっちでも良く。気楽に行きましょう♪ (*^▽^*)

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  3. タケ

    あゆかさん
    ありがとうございます。
    思考ではなく、ハートで捉える、あるいは感じる?
    自我を放り出す感じにすると、自然とそうなってきました。何とも言えない気分です。

    しかしながら普段、仕事中の私は臆病でハートが閉じっぱなしです。ただ、仕事が終わるとオープンになっている気がします。
    まあ、ただただそれらに気付くだけですけど♪

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    1. ayukablog 投稿作成者

      タケさん、こんにちは☆

      良い感じですね~♪ 
      そうそう閉じているなって、気づいているだけでも良いと思いま~す。
      臆病な私も受け入れられていますし。(*^▽^*)

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  4. uni

    あゆかさんのブログを読んだあと、トイレに入って一息ついていたとき、急に『すべては愛されている』という感覚に包まれ、なぜかそれがすごく安心できて、ああ、これがもしかして、ノンデュアリティでいうところの『すべては愛の中で起こっている』っていうこと。。。?とトイレの中で妙に腑に落ちている感覚に包まれました。
    思考も感情も、個人的な解釈やストーリーも、悲惨な事件や犯罪や戦争も、この母の愛のような腕の中で、駄々をこねる子供のように、ただ起きている。。。
    永遠に変わることない母の腕の中で、どんなに暴れようが、傷つけようが、変わらず抱きしめられている。。。
    そんな感覚になりました。
    この世に存在するすべてのもの、目に見えるもの、みえないもの、起こることすべてが、愛され、許され、存在している。。。
    そこにくつろいでいるだけで、どんな現象も、身体が反応する感情や思考も、小さな子供のように、可愛く見えてきました。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      uniさん、こんにちは♪

      本当にその通りですね。しかも、キリスト教の絵にある「放蕩息子の帰還」にあるように、息子は父に両手を広げて迎えてもらえ、放蕩のすべてが許される。なぜなら、何一つ起きていなかったから(夢)。ここでは父と息子ですが、イギリスのある非二元のティーチャーは、気づいている意識(純粋意識とか全体とかなんでも)をマザーと呼び、自我をまさにチャイルドと呼んでいました。

      トイレって油断しているせいか、意外に気づきの場所ですよね。(*^▽^*)

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  5. M・M

    あゆかさん
    はじめまして。
    あゆかさんの「こころがスーッと軽くなるさとりセラピー」を購読させて頂きました。
    2年程前から「奇跡講座 (奇跡のコース) 」の自学自習もしています。
    質問させて下さい。
    「気づいている意識」なのですが、この意識は肉体 (自我・思考) の誕生後に発生するものではないのでしょうか?
    と、言いますのは、自分が赤ん坊の時や誕生以前に「気づいている意識」があったという気づきと言いますか、記憶がありません。
    記憶はハートではなく、思考なのでしょうが。。。
    自我は肉体の消滅をとても怖れます。
    ですから、この質問は自我(思考)での質問になっているとは思いますが、お答え頂ければ幸いです。
    どうぞよろしくお願い致します♪
    M・M  

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    1. ayukablog 投稿作成者

      M・Mさん、こんにちは☆

      たぶん、「気づいている意識」という言葉が問題なのだと思います。この言葉辞めようかなぁ・・・。ルパート・スパイラさんがawarenessという言葉をよく使うので、つい使っておりましたが。とりあえず、いわゆる自意識とは違います。自意識は、「自分がいる」という思考がすでにその中心になっていますよね。

      例えば脳科学では、脳が意識を持っていると仮定していますが、物質である臓器がどの段階で意識を持つに至るのかは、科学のHard Problemと言われ、未だに分かっていませんね。

      で、こういった仮定の上にいろいろ考えても拉致があきません。ので、前回のブログのご質問にも同じことを書いたのですが、いまここにある中で、唯一いつもあるもの、決して変化しないもの、でも、あらゆる変化に気づいているものを体験的に見つめてみてはいかがでしょうか?

      また、意識と思考を区別しないと、混乱するかもしれません。これこれがあるとか把握しているのは思考ですね。意識ではなく。

      熟睡しているとき、思考が休んでいるので、把握するものがなくなり、あたかも気づいている意識もなくなったかのように感じるでしょう。

      でも、どうでしょう? 

      気づいている意識でも、純粋意識でも、マザーでも、I AMでも、存在、それ、全体、どんな言葉でも良いのですが、そこにあり続けてみてはいかがでしょうか?

      それが常にあることが、実感としてしっかり入るまで。そうすれば、熟睡しているとき、生まれる前、麻酔しているとき、一見「無」であるところに「自明」である意識が絶え間なくあることが見えてくるはずです。

      長く書いた割には、あまり上手に説明できた感がありませんが、とりあえずこのへんで~♪

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  6. H.O

    あゆかさん、こんにちは。

    わたし、今日の ブログを読んでいて、
    あれ?わたしはいままで自分の思考を自分のハートの声だとおもっていたのかも、と、気づきました。

    ハートの声って、あったようにも思うんですが、どうしよう、どうしたらいいんだろう、とか、いまのこの状況から脱するのに一番効果的な方法はなんだろう、とか、そっちの方に先に自分がひっぱられていく、というか、動いていくというか。で、状況から脱するには、じゃあ瞑想とか、呼吸法とかがいいんじゃないか、なんて思ってみたり。

    だから、どうしよう、どうしたらいいんだろう、の下にあるはずのハートの不安な思いや感情は、放置されたまま。わたしのやってることって、なんだか不安の上にバンドエイドを貼ってるみたいだなーと思えました。

    思考をハートの声とmixしないように。いまそう思ってます。

    H.O

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    1. ayukablog 投稿作成者

      H.Oさん、こんにちは☆

      >不安の上にバンドエイドを貼ってるみたい

      あはは、良い表現ですね。以前、奇跡のコースの勉強会に出ていた頃(ロンドンで)、ある先生が同じようなことで、“中が臭い匂いがするつぼの上に蓋を置き、その上に座って、アロマ焚いて瞑想しているようなもの”と言っていました。けっこう辛らつですが、当たっているとそのときすごく思いました。(*^▽^*)

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  7. ひとみ

    ありがたい!

    今、このときに ちょうど相応しいピッタンコの言葉です!

    うふふ♪なんて 出し惜しみせずに( 笑 )
    もっと!もっと!書いちゃってくださいね〜 ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

    今、こちらは台風の影響で
    田舎の両親が我が家に避難してくることに決定!しまして。。。
    その瞬間
    たちまち思考の黒雲に乗っ取られるところでした*\(^o^)/*

    考え!でなく ハートで捉えてみませんか

    いやぁ~~~~助かりました。 ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
    私のイメージだと首から上(首と頭)を一度 机の上に置いて
    ハートの目で 感じみました *\(^o^)/*

    すると、たちまち
    うわぁ〜〜〜両親が来る〜〜〜
    楽しみ〜〜〜楽しみ〜〜〜 嬉しい~~~ *\(^o^)/*
    面白いことが起きるぞ〜〜〜
    やっほーーーー*\(^o^)/*

    に 変わってしまいました ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

    身体の強張りが ふにゃふにゃになり
    一緒に暮らせることが楽しみで楽しみでしょうがない ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
    という

    とんでもないところまで 一気に飛んでしまいました ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

    ありがとう〜〜〜ありがとう~~~
    あゆかさ~~~ん

    ☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

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  8. みさと

    はじめてコメントします。書かずにいられませんでした。いつもありがとうございます。

    ハートの声をききたいな、オープンでいたいな、意識のままにあるがままにいたいなと、思考は、自我は、そのやり方ばかり求めて、理解しようと納得しようと把握しようと、もがいています。

    きっとやり方も何もないのに、思考や自我がわかる範囲のことではないだろうに、把握できることではないだろうに、何かが変わるわけではないだろうに、それに触れたら、この苦しみがなくなるのかなという幻想にとらわれて、もうどれくらい経つのだろう…

    変化の中にいることができなくて、落ち着かなくて、異常行動して、身体を痛めて…だけどそんなこともどうでもよいことで、深刻でもなんでもない。

    それが、くやしいのです。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      みさとさん、こんにちは☆

      思考爆走のループに入っているのかもしれませんね。
      しかも相反する思いがシーソーしているみたいな。

      やり方を知りたい!
      やり方なんてないだろう・・・

      苦しい、大変だ
      これはどうでもよいこと、深刻でもなんでもない

      やり方を知りたい、苦しいという思いの下にスルーしている声があるのかなと思います。それがスルーされているので、思考が爆走しているのかもしれません。

      やり方を知りたい!という思いに、そうだよね、知りたいよね、だって楽になりたいものね、などと受け入れてあげて、そこから出てくる感情も受け入れ・・・・とやっているうちに、もしかするとスルーされている思いたちが出てくるかもしれません。

      または、苦しみから抜け出そうとか、とにかくすべて一旦辞めるというのも手かもしれません。

      いずれにせよ、ご参考までにしてくださいね。短い文章から推測して書いていますので、まったく当たっていない可能性も多々ありますので。

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      返信
      1. みさと

        あゆかさん とても優しいコメントくださり、ありがとうございます。すごく感激しています…

        おっしゃるとおり、本当に、相反する思考爆走のループにはまりこんでいます。

        その下にスルーしている声があるということ、それが原因かもということ、はっと思いました。。スルーしている声がある気がします。

        やり方を知りたいのです。もう苦しいのも辛いのも嫌だから、やり方・答えを知って、スマートに抜け出したい。でも、「できない」という状態も辛い。求めてそれが手に入らない状態は、辛いです。

        「意識のままにいてみる」「変わらない何かに気づくはず」って、それがわからないのです…
        わからない自分が落ちこぼれなだけなように、思えてきます。

        「苦しい」という思いの下にある声は、何なのでしょうか…わかりません…

        声をきくって、難しいです。思考じゃないから、声をきくなど、頭で考えても仕方がないと思っていました。でも、自分の声を聞いてみるということも、必要なのですね。

        コメントを書かせてもらうことで、なんだか、少し進めたような気がします。ありがとうございます。

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  9. くるみ

    あゆかさん、こんにちは。
    自分の病気に対しても同じように捉えるのが良いでしょうか?
    例えば鬱やパニック障害と言った心身の病気です。

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    1. ayukablog 投稿作成者

      くるみさん、こんにちは!

      はい、捉え方としては同じで良いかと思います。ですが個人的には、できればセラピーをお勧めいたします。とりあえず、パニック障害に関してはこちらにリンクを貼っておきますね。

      欝もそのうちセラピーのほうのサイトにまとめていきたいと思っております。

      http://matrixreimprinting.jp/category/%E7%97%87%E7%8A%B6%E5%88%A5/%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9A%9C%E5%AE%B3/

      いいね

      返信
  10. 忘名

    こんばんは。 

    ハートを開くことが、私の課題です。
    状況が酷いと、閉じる場合たあるようです。

    海外から来られた方の非二元のワークショップでは、
    「非二元の人たちは頭だけの概念の世界で、他人を思いやったりハートを
     開く事がおろそかだ」と、指摘をされている聞いていました。

    悟った人は、感情がないと思っている方もおられるようです。
    ラマナマハリシは相談者の身の上話で、泣いたり、怒ったりしていたと、
    ガンガジ紹介していた記憶があります。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      こんにちは☆

      はい、人間の性として、ネガティブな感情を感じないように閉じてしまうというのは、ある意味自然ですよね。自然だけど、でも、そのために苦しくなってしまう・・・。

      仏教でも非二元でも、どちらかというと「空」に価値を置く傾向があるかもしれませんね。「ない」が強調されるような。でも、“I am everything(愛)”も大切だ~と私は思っています♪

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      返信
  11. M・M

    あゆかさん

    ご返事、ありがとうございます。
    スピリチュアルTVで何度も観た、あゆかさんからの直接のご返事、感動と感謝です。
    私的には「気づいている意識」「それ」などの言葉がしっくりきます。

    「思考」と「気づいている意識」の区別もハッキリしてきました。
    区別しているのは「思考」ですが。。。

    文字で表現するなら、「わたしがいなかったことに気づく」でしょうか。
    焦ることなく、ぼちぼちやっていきます。

    これからもよろしくお願いします~♪ (o^∇^o)ノ

    M・M

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  12. yuko

    あゆかさん、はじめまして。
    OSHO、フランシスルシールやルバートスパイラが好きでしたが、あゆかさんの登場で日本人の感覚と表現でで巧みに表現される非二元がすーっと自分に入っていく感じに感動しています。
    本当に感謝です…!
    とっても初歩的?(笑)な質問なのですが…「ハート」で見たり感じるする感覚って、いわゆるハートチャクラ…胸のあたりの感覚で良いのですか?

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      yukoさん、こんにちは☆

      ルパートさん、来年日本にいらっしゃいますよ~。(通訳を頼まれています)

      はい、最初は胸のあたりに手を置いて、そちらに意識を持っていき、そこで「感じている」ものに焦点を当てます。そこでじっとしていると、感情や思いが沸いて来るでしょう。それがハートの声です。

      でも、ずっとそこにあり続けるうちに、体を超えて、上下も左右も、時間も空間も分からない気づいている意識、または「ただある」という感覚(←感覚ではないけど)にシフトしていくかと思います。

      いいね

      返信
      1. yuko

        あゆかさん、早速レスありがとうございます。
        ルパートさん&あゆかさんで来日されるんですね!
        とっても嬉しい知らせです♪
        「ハート」について…
        早速試してみようと思います。ありがとうございました(^^)。

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  13. ひとみ

    あゆかさん おはようございます。 ( ´ ▽ ` )ノ

    今朝 「大丈夫かなぁ できるかなぁ・・・」という言葉が
    ぽんっ!と出てきました。ほんとに、いきなり、ぽんっ!と。
    出てくる瞬間を 現行犯で 見てしまい 笑
    その瞬間 ドキっ!として
    すると いつもの如くに
    ちゃんと不安になって ( 大笑い )
    誰?これ?と思い ( ? _ ? ) ♪
    なるほど!( ^ω^ )と思い

    静かに静かに見つめていました。(この出てきたものを)

    このとき静かに見つめていたのは
    ハートを通して捉えている存在です。

    このとき「癒す」というより
    ただただ静かに見つめていました。
    ハートを通して捉えている存在が
    大丈夫かな、できるかなぁ と不安がっているものを
    ただただ静かに見つめている感じです。
    温かな温かな眼差しで。。。

    一切話しかけず、励ましの言葉もかけず(うぅ、、、ピッタリの言葉が見つからない)
    そうだなぁ・・・まるで太陽の温かな温かなぬくもりみたいに。
    ただただ静かに静かに見つめていました。温かな温かな眼差しで。

    抽象的なことを具体的に説明するのが、とても難しい のですが ( ;´Д`)

    『ハートを通して捉える』は、
    すべてを温かく受け入れることができます。(清濁併せ呑む大地のような)
    そして温かく温かく包み込むみたいな。(太陽の温みのような)

    ー全体意識ー

    でも
    『考え』では、全ては受け入れられません。必ず拒絶や抵抗、不安や不満が出ます。
    考えは、たぶん、限界がある!と思い込んでいるからだと思います。

    ー分離意識ー

    ところが、このハートを通して捉えてみる は
    まるで我が子を見守る母のような余裕があります。大らかな大らかな愛のような
    果てしなく果てしなく大きい感じです。
    それも
    清濁併せ呑む大地のような
    温かな太陽のような。

    さらに、このハートを通して捉えてみる
    が、凄いのは
    もっと、人生に専念したくなった!ところです。
    父と母のお世話を真心のみでさせていただきたい!となったところが
    ビックリぽん!!!!!(゚O゚)です。

    清濁併せ呑む大地のような
    そして
    温かく温かく包み込む太陽のような
    ものすごいものを感じました。

    これまで
    自分にガッチリ向き合い、自分の見たくないところも見、
    ゲボゲボ吐きながら 身の毛もよだつ恐怖を感じながら。
    酷すぎーーーーーでした。 ( ;´Д`)
    でも、癒して癒しているうちに
    今度はいよいよハートを通して捉えてみるを頂き
    なんだか大地のような太陽のような・・・みたいな
    とんでもないところに出てきてしまった(あちゃー笑)みたいな。

    余分なものを吸い込み、大事なものをはぐくむ
    地球のような。

    でも、それが理想だったなぁ・・・とも、なぜか思いますし
    これが真理かぁ・・・と
    なんともなんとも感慨深い 今の私です。

    いつものごとく 表現がうまくできませんが。。。
    お許しください。 (⌒-⌒; )

    大大大感謝

    ひとみ

    PS あゆかさんは、いつものごとく「何もしていません」とおっしゃるでしょう。笑
    でも、あゆかさんの中の愛が、なにかしてくれているようです。
    私の中の愛を引き出してくれて、ありがとうございます。
    あゆかさんの中の愛さん。
    ここからの人生 本当の意味で もっと専念していきます。( ´ ▽ ` )ノ

    心から感謝の気持ちを捧げます。

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    返信
  14. あんず

    こんにちはあゆかさん
    はじめまして

    ハートで感じる
    いいですね
    そう思いつつただ物事が起きているだけ
    というと私達が存在して行動することが意味ないのという気持ちになりましたね〜
    そう、私、なんですね
    私としては意味を感じたいのですよねー

    今回のトピックと違うのですが
    私、ちょっと疑問に思ってたのですね
    私達は存在していないというと
    私達の魂だとか前世とかもやはりないということですか?
    猫をなくして、そのあと読んだ本に
    死は存在しない
    肉体がなくなっただけ
    ということで、そうだなぁと思いましたが
    私達は存在していないなら
    それもないのですよね?

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      あんずさん、こんにちは☆

      わたしがいない、というと、たいていの人が主体としての私、または人としての私がいないと思ってしまうようです。

      思いも感情も体も、人生も、前世もストーリーもぜんぶあるけど、そこに「主体、行為者、選択者はいない」ということです。

      人(や動物)は死んでも魂として生き続けるというのは、スピリチュアルストーリーで、非二元とごっちゃにしないほうが良いかもしれません。

      でも、最終的に現れて消えるものは、地球や次元、惑星を巻き込んだどんな壮大なものであっても夢であって、起きた、あったとは言えないですよね。だからといって、意味がないというのもまたまったく違いますけど、長くなりますのでこのへんで~♪

      いいね

      返信
      1. あんず

        ありがとうございます〜〜\(^o^)/
        またこのこと含めゆっくり咀嚼してみますね〜

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  15. まき

    あゆかさん
    おはようございます(^_^)

    成人している子供達との関わりで最近悩む事が多々あります。

    子供達の言動が酷すぎるとか、自分を責めたりだとか、表面上のストーリーにばかり目を向けていましたが、ハートでどう感じているか気づくことなんですね。

    辛い、悲しい思いなど、無条件の愛に癒され許されるって、具体的にどのように変容されるものなんでしょうか?

    変化の過程とか、例えばこんな感じとかわかると助かります
    よろしくお願いします(*^_^*)

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    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      まきさん、こんにちは☆

      う~ん、なんかものすごく思考で捉えて、その形に添ってやっていきたい・・・・みたいなのが感じられるかもしれません。涙がたくさん出て、暖かさがあふれて、そして、その次は、平和な気持ちになって・・・というような。

      でも、答えは、人それぞれ、そのときそのときでぜんぜん違いますので分かりません、です。

      それよりも、体験をする前に思考で「こういう感じ」と捉えようとする癖があるかどうか・・ということをちょっと振り返ってみませんか? もし、いつもそれをやっていたら、思考が常にこれで良いのか?とうるさく聞いてくるため、体験が二の次になりがちです。

      無条件の愛という捉えやすいものがあるわけでもないので、何も考えず、イメージせず、ただシンプルにやってみてください♪ (*^▽^*) 体験から掴み取ってくださいませ~☆

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      返信
      1. まき

        あゆかさん
        ありがとうございます
        (*^_^*)

        確かに、常に、 こういう感じかなってイメージを先にします。これで正しいのかなっていつも思います。

        これが、癖だとは全く気づきませんでした
        ^ ^

        シンプルにやってみようと思います(^_^)

        いいね

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