以前、私は長い間スピリチュアルな夢を見てきたと書きました。
スピリチュアル・レッスンという本まで出版しましたし。
私の魂を成長させる旅を生きること、これこそが真実だという夢です。
でも、一瞥体験をしたときスピリチュアルなストーリーからも目覚め、
魂はもちろん、次元、波動、二極を超える、現実の創造、自由意志・・・
ぜんぶ何も起きていなかったと知りました。
自分を支えていたものの崩壊であったと同時に、私が何かするという話し
ではなかったことに大きな安堵もありました。
だから大切じゃないとか意味がないと言いたいのではありません。
そういう解釈の問題ではなく、単に見たままの話です。
ときどき、ノンデュアリティが見事にスピリチュアルストーリーの中に
組み込まれているのをみかけます。
でも、ノンデュアリティが指し示しているのは、それらで語られるものではなく、
それ以前のものですね。
椅子を見て椅子だとただ信じていれば、それはストーリーですね。
椅子はたんにレッテルであって、椅子というレッテルを取り去った
ときに始めてありのままが見えます。
二極も思考がレッテルを貼っているだけ。
熱いと冷たいの境は誰がどんなふうに決めるのでしょうか?
ぜんぶ思考の判断です。
解釈をやめたとたんすでにここが二極を超えた場所。
右とか左、上とか下、これらもすべて思考の判断ですね。
上下左右の解釈はあなた(体)がいる場所によって常に変化します。
自我は常にそうやって世界を把握しているものです。
でも、ノンデュアリティが示しているものは、レッテルが貼られる以前の
いまここにあるすべてです。
思考が介入してきて、上だ、下だ、次元だ、二極だと解釈をし始める前のありのまま。
あなたは(もしあなたがいるなら)何か現実を創造したかもしれません。
でももし、思考が起きたことに何も解釈をしなかったら?
“私は~~を現実化した”と言わなければ、そこには何が起こっているのでしょう?
この壮大なストーリーの中に誰もいないのであれば(no one is out there by ACIM)、
一体誰が自由意志を行使するのでしょう?
スピリチュアルなストーリーの中で“あなたは愛である”、“私たちは一つである”
というのと、
ノンデュアリティが指し示す、“あなたは愛である”と“ワンネス”が違うものを
指しているのに気づいているでしょうか?
ノンデュアリティが “あなた”というとき、あなたは不在であって、主体と客体もなく
本当の意味では、気づきの意識が気づきの意識に話しかけている。
(言葉の限界すぎてあきらめました・・・。)
そして、“私たちは一つである”= We are all oneではなくて、ただ一つ。Just one。
私たちの不在。
自我は、どうしても自分がいることが前提となって、世界やしくみを把握しようとするかもしれません。
また、解釈することがあまりに当たり前すぎて、自分が解釈をしているということも忘れていることもあるでしょう。
ある意味、自我=ストーリーですから。
もちろん、私自身セラピストで、癒しというストーリーに魅了され、そしてまたあゆかの魂の旅という壮大なストーリーもやっぱり愛おしい。
あゆかの中は空っぽだけどとてもユニークで、あゆか特有の恐れや不安、喜びや優しさなどが一つの人間性を生み出し、そして生かされていく。
一人一人のユニークな現われそのものが奇跡的なストーリー。
でも、ストーリーを本質だと勘違いすると、結局ストーリーしか知らないことになるでしょう。
決して変化することなく、常にいまここにあって、静けさよりも静かで、徹底的な受容である本質。ストーリーに全く影響されない場所(←場所じゃないけど)。
まずは、解釈や判断、レッテルをすべて剥がしたところをベースにしてみませんか?
つまり、何も分からない状態になるんです。上下左右も。
何も分からなくなって、でも確実にあるものを見つめていく。
あなたは、自分がいることを解釈しないと確認できないのでしょうか?
それともそれは自明のことでしょうか?
では、その自明であるもののなかに誰かいるでしょうか?
そして、それらはすべて変化しているものばかりでしょうか?
それとも、その中で唯一変化しないもの、捉えられないものはありますか?
・・・・・・・・・・・・・・・
そしてただそこにあってみる。
真実が顔を出してくるまで♪
変化に気づいている意識?
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そうそうそう♪
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あゆかさん、ありがとうございます。
いとも簡単にスピリチュアルストーリーに取り込まれるのですね(^^;
アララッ!って感じです。
ただそこにあること・・・ やってみます。
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ひとりしずかさん、ありがとうございます☆
スピリチュアルストーリーは、自我的な発想で分かりやすいので、取り込まれるかと思います。ただ、それがストーリーだと分かっていれば、もちろん悪いわけではなく、というより、ものすごく素晴らしいものだと思います。
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ただ静かにそこにある全て、気づいている意識、
確かに、「わたし」と思っているものの中にわたしはいないし、全てあって、なにもないことも分かりました。
でも、現実というストーリーにすぐくっついてしまって、お金がないとか、親とうまくいかないとか思ってしまうのですが、どのようにすれば、いつも気づいている意識からの視点でいられるのでしょう?
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すずさん こんにちは。
あゆかさんじゃないけど、私も同じようなことを考えていたことがあるので、コメントすることお許しください。
>お金がないとか、親とうまくいかないとか思ってしまうのですが、どのようにすれば、いつも気づいている意識からの視点でいられるのでしょう?
これもストーリーですよ~
つまり、「いつも気づいている意識からの視点」にいることができたら、お金がなくても平気なはず、親とうまくいかなくても悩まないはず、あるいは、そもそもそういう問題自体が起こらないはず、というストーリーです。
>お金がないとか、親とうまくいかないとか思ってしまうのですが
なぜ、そう思ってはいけないのでしょうか?(いけない、とはおっしゃっていませんが、文脈からそう理解しました。違っていたらごめんなさい)
思考は勝手に浮かんでくるので、浮かんでくるものはどうしようもありません。どうしようもないものを「なんとかしよう」とするところから壮大なストーリーが始まります。
たとえ「悟り」と言われるものが起こったとしても、たとえ「いつも気づいている意識からの視点」にいられたとしても、起こることは起こります。
起こることを「いい」とか「悪い」とか判断するのが自我ですが、起こることに対して「わたし(自我)」ができることは何もありません。だから、起こることは起こるに任せるしかないのです。
だからと言って「何もするな」ということではないです、もちろん。誰でも、目の前から猛スピードで車が走ってきたら、全力で身を守ろうと行動しますよね。怪我したら手当てする、病気になったら病院に行く、というように、目の前の状況に対して適切に対処するということとは全然意味が違いますよ~
お金がないとか、親とうまくいかないとか思ってしまうのであれば、ただそうあってみてはどうでしょうか。それらすべてが「気づいている意識」の中で(「中」は適切ではないけど)起こっています。というか、それが「気づいている意識」そのものです。すずさんの意志とは関係なく、ただ起こっていることがわかりますよ。
・・・というストーリーを私も語っています(笑)
鏡の中に移った自分を鏡で映して見る、みたいな。
言葉にしたとたん、すべて、どこまでいっても終わりのないストーリーで、真実そのものではありません。
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Cocoさん
ありがとうございます(*´-`)
そうですよね、全てがストーリーなんでしたね。
「起こることは起こるに任せて、ただあってみる」
しっかりと腑に落ちるまでやってみます(*´꒳`*)
ありがとうございました(*´∇`*)
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すずさん、こんにちは☆
一つは、“確かに、~~~分かりました”、というあたりをもっと深めてみるのはどうでしょうか?
というのも、それは努力でなされるものでもなく、そうしようと考え、頑張っているのは自我ですから、自我が思いっきり残り続けてしまいます。そうするとそれらがますます問題になり・・・といういわゆる悪循環に陥るかと思います。
また、どんなに真実が腑に落ちても、Cocoさんが書いてくださっているように、どんな思いも感情も起きることは起きます。ずっと穏やかな心でいるとかそういうことはまったくありません。
気づいている意識は何も嫌わないですし、否定もしませんね。お金がないという思いやそこにある感情も100%受け入れています。あらゆるネガティブな思いや感情を嫌わないでいられるところに本当の心の平和があるんです。のでそれに抵抗しないでいる、ただそうあるというというのも一つの手でしょう。
ただ、私はセラピストで、それが多くの人にとってとても難しいというのもたくさん見てきました。
ですので、私のもう一つのブログでも書いているのですが、お金がない、親とうまくいかない、といった状況の中で自分に聞いて欲しい声がないかどうか心を深く探り、その声をきちんと聞いてあげ、理解し、受け入れてあげる、つまり、自分の心の中の深いレベルでの受け入れをやってあげると、思いも変わるし、受容のエネルギーそのものも感じられると思います♪
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あゆかさん♡
ありがとうございます(≧∇≦)
思いがけず、内心思っていた根本的な疑問にまでお答え頂けて嬉しいです。
(気づいている意識を頑張って感じることは違うよね?どうやったら自然に感じられるようになるんだろう?というもの)
おっしゃって頂いたことやってみます(o^^o)
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久しぶりに探検に来ました。素晴らしい、記事です。フワフワフワとの優しさを感じる感覚も、起こります。
あゆかさんは、人間界を終えましたら、人を導く高級霊としてのストーリーが待っているかも、知れないですね。なんて、スピリチュアル・ジョークです。
今日のこの記事がハングルや、北京語だったら、今浮かんだり、起こったりする印象や、思考も出て来ないでしょうし、
そもそも、感心も、起こらないと思います。
でも、ここに記事があるとか、何か書いてあることくらいの印象は起こると思います。
あゆかさんの言われる、あるがままに見るとは、感心も起こらず、ただ、目に入っているという状態でしょうか?
もしかしたら、目に入っているだけで、気づいてもいないかも知れませんが。
また、他人や、周りに現れているように見えるものは、自我の現象?自体がレッテル(思い込み・想い)なのでしょうから、
それらも、レッテルだから、現れ、レッテル自体と、言えるのでしょうか?
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isseiさん、こんにちは☆
お久しぶりです(笑)。
いえ、単純に一つ一つ思考を剥がして(私の体、あそこに時計がある、私がいる、といった思考)、ただそのままあり続けるだけです。見て、感じて、聞いて、という経験は起こり続けるはずです。で、思考を通さないでそのままにあり続けてみるだけです。(ダイレクトパス)
とはいえ、考えに同化しまくっている自我には最初難しいかもしれません。でも、非常にシンプルな話をしているんですよ~☆
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あゆかさん
いつも記事を楽しみにしています。
私はkumiにとどまらない
この現れているすべてが
くぎりなくひとつで
私がいなくて、
だけど、すべてがわたしとひとつづきで
すべてがわたしで。
これは、言葉を越えた事実ですが、
繰り返し繰り返し
あゆかさんが言葉で真摯に伝えてくれることで
私が貼ってたラベルが少しずつ剥がれてきました。
わたしって、
わたしの意識がキャッチしてるもの、
これすべて、わたしでした。
世界はkumiの外にあるのかと信じこんでいたけど
意識のなかに世界はありました。
これが
最近経験を伴って理解できました。
改めて、スパイラさんの2冊めの本を読んだら
これまで上っすべりしていた言葉たちが
すとんと腑に落ちて、感動しました!
リアルな3D映画のように
途切れることなく展開するわたしの意識。気づき。
時に感情と同化してドキドキムカムカしますが
恐れるものがないのだとわかったので
安心しているkumiがいて、面白いです(*^^*)
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kumiさん、こんにちは☆
素敵なシェアをありがとうございます!
ほんとうにその通りですね。胸がほっこり温まりました♪
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あゆかさん、コメントありがとうございます。
思い/(思考)も、体も、感情も、Kumiさんが、話されているどこにでも行き渡っていて、「在る?」「意識」が作り出しているということでしょうか?
どこにでも、行き渡って、はびこって、充満?している、ただ「在る」ような〈意識〉も、
実際には、それ以前の“もの”に、創られたものではないのですか?
わたしは、死ぬのは、(無くなる)/意識が無くなる。のは、怖くありません。
生まれて来るのが、怖いのです。
たとえば、Mr.釈迦や、イエスのような、あるいは、あゆかさんや、スパイラさんのような意識体験ならば、苦しむことも、苦しみに捕らわれることも、なく、与えられた立場を楽しめるでしょう。
しかし、世界中に満ちている、いえ宇宙中に満ち溢れているであろう「身体の感覚」、「思考」、「感情」に支配される意識体験の立場になってしまったら、(今も同時に、遍く現象の意識体験をしているのかも知れませんが・・)
また、それらの無限に創り出される、捕らわれた意識体験の数々の惨状を知ってしまったら、憐れみを忘れるわけには行きませんし、
その持ち主がいないということが、とっくに、腑に落ちていても、むしろ、忘れて、無意識になってしまうのが、怖くて、この今抱えています「思考」も、「感情」も、「感覚」、「感性」も、それを生み出す「身体」と「脳」も、注目を外すわけには、参りません。
無意識になって、その仕組みを忘れてしまって、肉体(この入れ物)の死を迎えましたら、また、どんな悲惨な体験意識にか、勝手に成らされてしまうかも知れないからです。
こんな、解釈は、あゆかさん=スパイラさん?からすれば、馬鹿げた妄想なのでしょうか?取り越し苦労なのでしょうか?
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isseiさん、ありがとうございます♪
う~ん、どんなイメージを持たれているのかがちょっと掴めないのですが、とにかくなんだか感じ違いなさっていると思います。(ごめんなさい)
もしかすると意識=思考、感情、みたいになっているのかなぁ・・・? なので、それ以前の“もの”に創られた、という発想になるのか?
または、もしかすると、とても繊細でいらして、ご自身がいろいろな感情や思いで苦しんでいらっしゃるのかなぁとか思ったりしてしまいます。なので、
宇宙中に満ち溢れているであろう「身体の感覚」、「思考」、「感情」に支配される意識体験の立場
という発想が生まれてくるのかなと・・・・。または、ネガティブな感情や出来事をものすごく恐れていて、実際よりもモンスター化してみてしまっているとか?(ぜんぜん違っていましたら申し訳ありません)
また、脳や体が感情や思考を生み出す?という話は、今の最先端の脳科学とは違いますね。脳は単に受信機なのではないか?という実験結果がBBC放送のドキュメンタリーでもやっていましたし、量子学でも体や脳ではなくて、フィールドにあるのでは?と言われていますよね。
勝手なアドバイスとして、ご自分中にある恐れを見つめて、その下にある愛を感じるようなワークをなさってみると少し世界観が変わるかもしれませんね。
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アドバイス、ありがとうございます。
国や、習慣が違うみたいな?反応ありがとうございます。(^_^)
まさに、国外に探検に来た甲斐があったというものです。
どのようなものでも、集団に属していますと、知らず知らずのうちに、一つの捉え方、考え方、または、在り方などに、違和感なく、座してしまいそうになったものですから、
よその国に行って、自分の基本的なベースの認識の、正・否や、良し悪しや、程度を確認したかったのです。
どうやら、こちらにしばらく訪れないようになってから、アメリカ大陸に入植して来たイギリス人と、ネイティヴアメリカンとの認識の違いの差くらい、
基礎認識が異なってしまったようです。
重ね重ね、畑違いの「作物」の私の世迷い事などに、お付き合い下さり、ありがとうございました。
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お返事ありがとうございます♪
あはは、ノンデュアリティでそんなに認識が違うほうが問題のような気もしますが、また気が向いたらいらしてくださいませ~☆ いつでもウェルカムです♪ (^_^)
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