私がパソコンを見ているという錯覚♪

日本ではノンデュアリティの解釈がびっくりするぐらい様々で、自由といえば自由なのかと思いますが、ちょっと“いろは”に戻ってみたいなと思いました。

ということで、

「観察者と観察されるものという、二つがあるのではない」(非二元)

つまり、私(観察者)と世界(観察されるもの)の二つではない。

ウパニシャッドから禅、クリシュナムルティ、ニサルガダッタ、ノンデュアリティ

みんなが指し示している大切なメッセージ。

これは、ほんとうはすべてはワンネスでつながっているという意味ではなく、見るものと見られるものは、文字通り分けられないという意味ですね。

つまり、例えばたった今、 “私がパソコンを見ている”というのは錯覚だということ。

主体としての個のあなたが見ているのではなくて、また、その見る対象としてパソコンがあるのではないということです。

私、見る、パソコン、は分けられないということ。

私たちの多くの失敗は、それについて“どういうことだろう?”と考え始めてしまうことでしょう。

でも、太陽は東から昇り西に沈むと教わったとき、それについて考えるより、実際に観察するほうダイレクトな理解になるでしょう。

まったく同じように、あたかも自然科学の観察でもしているかのように、いまここを観察してみるんです。(ダイレクトパス)

体はある
思いはある
感情や感覚はある

では、その所有者はいる?

観察してみませんか? 考えずに。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

う~ん、見つからないけど、私がいるという感覚がすごくある?
そうであれば、それらの感覚を見つめてみませんか?
ほんとうにその感覚の中に実体がある“私”がいるかどうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真摯に、時間をかけて・・・・・・・・・・・

では、次に、

見るという経験はある
風景はある

では、見る経験と風景は分けられますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

初めからまとめてみます。

体はある
思いはある
感情や感覚はある

そして、

見るという経験はある
風景はある

そこに経験者である“私”はいますか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

もし、どうしても見つけられなかったら、では誰があらゆる経験のすべてに気づいているのでしょうか?

経験者なしに、経験だけがあって、経験と経験されるものは分けられなく、でも、気づいている・・・。ここで頭は停止するはず。

私がいるという刷り込み、脳が捉えているという刷り込み、目や耳が見たり、聞いたりしているという刷り込みのすべてを置いて、すっかり思考が静まったとき、そこにあり続けてみます。(無眼耳鼻舌身意)

ちなみに、脳や耳、目、鼻といった体の器官はもちろんその機能を果たしています。でも、カメラも映像を捉え、レコーダーも音をキャッチします。人工知能も開発されてきました。

でも、それらは見たもの、聞いたもの、捉えたものに気づいているでしょうか?
それらは、そもそも観察者と言えるでしょうか?
また、耳も音をキャッチしていますが、聞く経験をしているでしょうか?

やはりここで同じ問いに戻るのです。

経験者はどこにいる? 
そして、誰が経験に気づいているの?

めちゃくちゃ地味な話に聞こえるかもしれません。

でも、経験者と経験されているものが一つであると分かったとき、個の私だと思っていた私は、全体の私、気づいている意識の私、純粋意識の私だと見えてくるはずです。

そのとき、ずっと求めていたものが見つかるでしょう。
そして、生きる宝のすべてがここにあることも♪

私がパソコンを見ているという錯覚♪」への22件のフィードバック

  1. kumi

    いつも更新を楽しみにしています。

    うまくまとめられないのですが、
    小さいときから、私は
    この世界に現実味を持てませんでした。
    日々の生活のなかで、なんと言うか、目の前に繰り広げられる現実が、ほんとのことじゃないような、つかみたくてもつかみどころがないもののような感じを、ずっと持っていました。
    生きている感覚が薄いのかと思っていましたが、その感覚は正しかったなぁって、いま思います。
    この世界は、結局わたしの感覚を通してしかとらえることはできない。
    しかも、そのわたしでさえ、kumi=私だと思ってたら、そうじゃなかった(笑)
    透明で境目の無い、この気付きの意識。
    これによりそってみると、子供の頃に見ていた世界も、これだったなぁと思うのです。

    一生懸命考えたり行動したりと、忙しいkumiですが、ふと、「ああそうだ、わたしは気付きの側だったっけね」と思い至り、肩の力が抜けて行きます。

    わたしが気付きだと、知る前も、わたしはただ現れるままに現れていた。
    気づいたこれからも、現れるままに現れてゆくのですね。
    これが、究極の真実だなんて、この世界が優しい場所で良かったと、しみじみ思います。
    生まれて41年目にして、生きている楽しさに気づけました。
    感謝です(*^^*)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      kumiさん、こんにちは☆

      とても嬉しいコメントをありがとうございます。掴んでいらっしゃるなぁと感じ、とても嬉しく思います。

      私も子供のころ、風邪を引いてただ横になっていたとき、いつの間にか気づいている意識に寄り添い、あぁ、私はこれを永遠に知っていると思いました。私の場合、その後すぐに忘れましたが(笑)でも、子どものほうが真実に近いところにいるように思えます。

      >これが、究極の真実だなんて、この世界が優しい場所で良かったと、しみじみ思います。

      本当ですね。共感しまくります☆

      いいね

      返信
  2. ひとりしずか

    あゆかさん、温かいお言葉をありがとうございました✨

    若い時から、何故か分からないのですが、透明な感じ?に憧れてました。

    やっと分かったんです。その透明という感じは、気づきの意識のことだったんですね。

    そして、いつも、どんな時もここにあったんですね。

    無意識ではありますが、これまで、胸の辺りのふわぁ~っとする心地好い感覚を大切に過ごして来れたことが、訳の分からない安心に繋がってたんですね。
    とてもきつい状況にあっても、どこから沸いて来るのか、「きっと、大丈夫!」という思いが、今に続いているようです。

    そしてついに、あゆかさんの非ニ元のメッセージに辿り着いて、どうして、これほどまでに惹かれるのかが分かり、現わしようのない喜びに包まれています。

    やっと入り口に立った感じですので、これから深めて行きたいな、と思います。

    どうぞよろしくお願いします。(*^-^*)

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとりしずかさん、こんにちは☆

      自我は色(しき)まるけなので、透明にとても憧れると思います。私も無意識でしたが、振り返るとそうだったなぁと感じます。でもまた、それはおっしゃるように、私たちの中のどこかで本質が分かっているからでもありますよね。こちらこそ、どうぞ宜しくお願いいたします♪

      いいね

      返信
  3. ちゃこ

    こんばんは。前回のお父様との話を読んで、お伝えしたいと思ってかいています。
    伝えたいことは、ちょうど読んでいた本が「太極図(陰陽の図)」を用いて、非二元を含めた世界を説明していたということです。主観と客観という二元と、現実世界と精神世界という二元を組み合わせると、「精神世界の中の客観」が非二元、というように。
    『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』八木龍平著 サンマーク出版
    よかったら読んでみてください。

    私はそれを読んで、「今、非二元について正直分からないけれど、他の方法もある。そしていずれときが来たら非二元もストンと腑に落ちる。」そんな気がしています。
     

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ちゃこさん、こんにちは☆

      コメントをありがとうございます♪

      たぶん、主観と客観は違うものを指しているように思えます。例えば、私がテレビを観ているという場合、私を主観、テレビを客観と言わないような気がするのです。また、現実世界も精神世界も両方とも変化する「色」であって、両方とも現象の世界ですね。なので、ここでは話していることと違うことかなぁと思います。(非二元が精神世界というわけではまったくありません)

      日本語で二元と訳してしまうので、ややこしいですが、オリジナルは、advaitaという言葉で、英語に訳すと、not two かnot dualという意味です。dualを二元と訳してしまうので、分かりにくくなるような気が個人的にはしています。

      私がテレビを見ているという世界観が違うよ~ということです。

      コメント欄は難しいので、ちゃこさんのおっしゃっていることをすっかり誤解していましたらごめんなさい!

      いいね

      返信
  4. いっせい

    先生のコメントの部分部分の貼り付けが、うまくそちらのブログのシステムプログラム?で、解釈されません。

    三度投稿、重複してまい、汚してしまって、申し訳ありません。

    要約しました。

    お暇があれば、あゆかさんの見立てをお聴かせ下さい。

    ●経験者と経験されているものが一つ・・・気づいているわたし・・純粋意識・・

    ★否定のしようがありません。人間としての“機器”の‘共通感性”でしょうか?

    ●身体はある。思いはある。・・・所有者はいるか?観察してみませんか?考えずに。

    ★思考や、イメージは完全に止められるものなのですか?(ん!んー!んん!)と内面で唸って、無理やり止めたり、ボーッとして、関心を消したり、弱めたりすることは出来るみたいですが。

    そもそも、ノンデュアリティの観点では、これらは、コントロール化にあらず、自動的に有る無しを繰り返しているのではないでしょうか?

    ●カメラや、ボイスレコーダー、電気機器?自体は、気づいているか?

    ★言われいることは、解ります。
    たとえが、分かりやすいです。

    では、“サイコメトリー”というのをご存じでしょうか?

    物に触ったり、写真を見たりして、そのもの?が経験したであろう?物事を観れる能力です。

    これですと、一括りの物体、意識体(意識の器・乗り物?)などが、体験していると言えないでしょうか?

    “体験”と言わず、‘影響”を受けているという解釈でも、いいですが・・。

    いいね: 1人

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    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんにちは☆

      パソコンのことはさっぱり分からずなのですが、投稿しずらかったようですみません。

      さて、ご質問ですが、たぶん実際に会話をしたほうがきっと良いのでしょう。というのも、いまひとつサイコメトリーの場合、意識体が体験しているというつながりが分からず・・・。サイコメトリー自体は、大昔、ロンドンにあるカレッジ・オブ・サイキックスタディーズというところで少し練習したことがあります。ので、どういうものかは知っております。

      そのへんがもしもう少し分かれば、何かお返事できるかなと思います。

      とりあえず、意識体とはどんなものを指していらっしゃいますか? 自我も見方によっては意識体かなと思います。ただそこに経験者、行為者はいないのですが・・・・。

      PS:同じような内容なので、最初の二つのコメントを削除させて頂きました~。

      思考は止められるか?ですが、その前に行為者(思考者)がいるのかどうかを見て行ったほうが良いかもと思います。そして、思考がどう現われてくるかをよ~く見てみてください。思考をコントロールしよう!という思いは、勝手に沸いてきたのか?その思考が出てくる前にすでにそういう思考をしようとしていたのか?よ~く見てみてはいかがでしょうか?

      可能であれば、いつかカフェにしらしてくださいませ☆ 頓珍漢なお返事をしているかもしれないので~。

      いいね

      返信
  5. 飛翔こそ蘇生

    言葉の付け足しようもないほどに
    シンプルに非二元ですね。

    恐れ入ります。
    それこそ分離が無いですね。

    日本人はアレンジが好きだったり
    元々の信念とかの絡みで
    これが非二元です、おわり
    ってわけにはいかなかったり
    非二元を語りますよって売り出す場合
    何か独自性が無いと売り込めないという
    ことだったりとか
    色々あるんだと思います。

    あゆかさんのように
    シンプルに表現される方に出会えて
    これは有難いですね。

    いいね: 1人

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    1. ayukablog 投稿作成者

      飛翔こそ蘇生さん、こんにちは!

      お優しい言葉をありがとうございます♪ 

      アレンジも独自性はも本質を外していない限り、それはそれで楽しいと思います。
      が、えっ、それ非二元なの?ぐらい幅広くなってしまうと、だんだん何でもあり
      になりそう・・・。

      ということで、たまにはいろはに戻るのも良いですよね♪

      いいね

      返信
  6. いっせい

    >> PS:同じような内容なので、最初の二つのコメントを削除させて頂きました~。

    図らずも、お手数お掛けして、スミマセン。ありがとうございます。

    >> 意識体とはどんなものを指していらっしゃいますか?

    あゆかさんなら、あゆかさんという肉体も含めたました特性。乗り物。器。括り。他の動物、昆虫、魚、植物、鉱物、それぞれの細微に致まで、構成要素、その形態の特性を使った気づきや、観察をし、影響を受け・与える、ある癖や、物質的だけではない形をもったもの、

    “観察器”、“体験する器”とでも、イメージ出来ますでしようか。かなり、おおざっぱな表記ですが・・

    しかし、どこまでも、細分化すると、どれも、これも、大なり小なり、複雑でも、単純でも、動きの構成要素が多かろうが、少なかろうが、それらは、振動や、「動き」の集まりだとも、みれますね。

    >> 自我も見方によっては意識体かなと思います。ただそこに経験者、行為者はいないのですが・・・・。

    はい、「気づくもの」と「気づかれるもの」間の「気づき」自体が意識だと思います。「気づくもの」と気づかれるもの」は離れられませんし、どちらかが単独で現れる(顕じる・現象)ということも、不可能に思います。(感じられます)

    たとえが簡略し過ぎですが、鳥類では、ハトやカラスという器・“観察器”なら、そのハトやカラスの特性の気づける事柄、範囲というものがあると思いますが、

    人間という器・観察器なら、これも、然り、他の動物、植物、鉱物、微細集合対、

    それぞれのその器によって、気づける対象や、対象としての括り「」が、見え方、感じ方、“気づける”ことが変わって来ますね。

    器・観察器という「」括りも、人間という器の感性特有かも知れませんし、観点・価値観によりましては、錯覚と言えるかも知れません。

    >> 可能であれば、いつかカフェにしらしてくださいませ☆ 頓珍漢なお返事をしているかもしれないので~。

    無料で、このような待遇を受けているのも、(仮に)人間の感性的なものに則れば、とても恐縮なのですが、

    貴重なお金を払っていらっしる方々、

    遠路はるばる来られる方々の(人間の捉え方、価値観に仮に則れば)、癒やしや、解放だけを求める方々を、妨げたてしまうでしょうから、

    以前の感覚とは違い、経験的に、控えたい気持ちが大です。

    お誘い、ありがとうございました。(^_^)
     

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      いっせいさん、お返事をありがとうございます♪

      意識体という言葉がややこしいのかもしれません。例えば、ある意味自我は意識体ですが、実際気づきの意識は持っていません。気づいている意識は、気づいている意識にしかないのですが、あたかも一人一人に一つづつ意識があるような錯覚を私たちは抱いているんです。

      なぜなら、自分が気づける範囲が自分だけに限られているというのが、一見、私たちの経験だからです。ところが、ほんとうにダイレクトに観察すると、自我は、体と思いと感情がの集積であって、それらに気づいている意識は、自我に属しておらず、どこまでも無限の気づいている意識があるだけなんです。

      禅、ウパニシャッド、あらゆる古典の教えが、それを言っているにも関わらず、自我がそれを歪曲して理解していることも多いと思います。

      と、書いてきましたが、お返事に対して外れたことを書いていたらごめんなさい!

      そして、いえいえ、大切な問いだと思いますので、万が一その気になりましたら、ぜひいらしてくださいませ☆

      いいね

      返信
  7. グリーン

    あゆか様
    体はある、思いはある、感情や感覚はある、その所有者はいる?→所有者は、私…
    ほんとうにその感覚の中に実体がある“私”がいるかどうか。→現にこの体はあって、思いもあるし、感覚もあるし、私はいる…。でも例えば私の体を切ってみても、内臓があるだけで「私」というのはこの中には見つからないはず。だけどここにいるのは私のような…
    経験者である“私”はいますか?→経験してるのは私…
    誰があらゆる経験のすべてに気づいているのでしょうか?→私、かなぁ。。。(泣)

    私はここにいると思うんですけど…でも答えは違うんですよね?本当は私はいないんですよね?
    みんな「私はいない」という経験ができていいなぁ、と羨ましくなります。
    非二元を体得しても、問題が解決するわけでもなく、人生が変わるわけでもないというようなニュアンスのことを前におっしゃっていたような気がしますが、非二元を体得した方々は口を揃えて良かったという感想をお持ちなので、やはり私もいつかは非二元をわかりたいです。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      グリーンさん、こんにちは☆

      良い感じですね!(たぶん、ご本人はそんな気分じゃないと思いますが)

      誰があらゆる経験のすべてに気づいているのでしょうか?→私、かなぁ。。。(泣)

      ほんと? 体、思い、感情はすべて観察できますね? 私たちはそれらを普段「自分」だと思っているんです。この三つの要素のエネルギーの大きさ、重さはかなりのものなので、すご~く存在感があるんです。

      そして、この三つの要素と気づいている意識は分けられないので、余計、あたかも個人の私が気づいているように感じてしまうんです。

      さて、「私はいない」という経験をしているのではなく、それを見抜いたということです。私がいるまま、私はいないという体験をするのは無理ですよね。まさに般若心経の始めの行の通りです。

      日本では、たまたま非二元が「私はいない」という言葉で入ってきたので、それがあたかも非二元のめざすところに見えるかもしれませんが、それよりも「私は何か?」を確立したほうが、私がいながら、私がいないをめざすという矛盾が起きなくて良いかもと思います。

      あぁ、コメント欄では難しいので、やっぱりいつかカフェにいらしてくださ~い。

      いいね

      返信
  8. jun

    あゆか様
    はじめまして。
    「身体はある。思いはある。・・・所有者はいるか?」

    の問いに、
    私は、、う~ん・・・所有者はいるなあ・・わたしだなあ。。
    という風にしか思えなくて・・

    「私はいない」というのが正解?なんだろうと思いますが、
    今の自分の正直な感覚は、自分はあるんですよね。
    苦しいこと、葛藤を感じているのは自分。という感じです。

    私が苦しんでいる。他の人ではなく、ある特定の苦しみを感じているのは自分なんですもの・・
    生まれてから今までの自分の体験がエピソード記憶となって自分の脳の中に足跡をつけている。
    それを所有しているのも自分なのではないか?と感じてしまいます。

    わかりたいけれどわからないので、
    わからないことをわからないと、表現してみました。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Junさん、こんにちは☆

      はい、とっても良い感じだと思います♪
      正解ではなくて、自分の今いる位置をきちんと抑える。とても重要だと思います。

      >他の人ではなく、ある特定の苦しみを感じているのは自分なんですもの・・

      はい、これがトリッキーなんですよね。だから、みな疑うことなく、自分がいて、自分が経験していると思いますよね。

      では、その苦しみに気づいているのは誰でしょうか?

      Junさんの苦しみに気づいているのは? その気づいている意識は苦しんでいますか?

      それとも苦しみに気づいているだけ?
      例えば、パニックになったとき、気づいている意識もパニックしていますか?
      それとも、パニックしていると気づいているだけでしょうか?

      へんから見てみるのも良いかもしれませんね♪

      いいね

      返信
  9. Kyoko

    あゆかさん

    いつも素敵なメッセージをありがとうございます。初めて投稿させて頂きます。こちらで、「非二元とは主体と客体が分離しでいないということ」といつも語って下さっていますね。正直、「そうなのかもしれないな」と思いつついまいちピンとこなかったのですが、そのことがいつも頭のすみに引っかかっていました。

    2、3日前ですが夜遅くなってキッチンで片付けをしていた時のことです。昼間忙しかった日で少し疲れてぼーっとしながら洗い物をしていて、あゆかさんのお話を何となく思い出していました。そのとき、あれっ、と思いました。

    私が食器を洗っていて、そこに私、食器、水道の音、お湯の感触などがあって、その全てに気づいています。その「気づいている誰か」にとっては私も食器もお湯も全てが同じように存在していて、「私」と「私以外」を切り離していないし、そんなことはそもそもやりたくても出来ない、ということが突然、初めて腑に落ちたような気がしました。

    これが私と私以外、主体と客体が分離していない、ということなのかしら、と思ったのですが、同時にこのことが「あまりにも普通で単純で当たり前」なのに驚きました。なぜ、こんな当然なことに今まで気づかなかったのだろう? 覚醒体験とか、知覚の転換とかは衝撃的なできごとだろうと想像していましたがそんなことは全くなく、感動するようなことでもなく、「そんなの当たり前でしょう」としか思えない。それなのに、物心ついたときから50年以上も「特別で他の全てから切り離された自分を無慈悲な環境から必死で守らなければいけない」と教えられ、それを信じ込んでいたことが逆に不思議です。一方で、うんと幼かったとき私はこの感覚を知っていたような気もするのです。

    自分の意識は自分の身体の中にあると長いこと思っていましたが、その感覚も怪しいもので、意識は身体の外にも広がりを持っているような感じがしてきました。ある非二元のティーチャーの方がよく「あなたの『自己』は本当は無限に広がっているのです。」と言われるのを、正直「なんのこっちゃ?」と思っていましたが、今はその意味するところが少しわかったような気がします。

    あゆかさんは「経験するもの」と「経験されるもの」は切り離せない、とおっしゃっていますね。私が垣間みた「私」と「私以外の全て」は切り離せない、という気付きは、それに通じているのでしょうか? その後も日常は全く変わりなく続いています。ただ、以前に比べて何か全てが軽いというか、気楽な感じになったような気がします(心なし、ですが)。

    いきなり長くなってしまったのですが、このできごとをどなたかに聞いて頂きたくなって、でも誰にでも話せることでもなく、こちらにコメントにさせて頂きました。読んで頂けてありがとうございます。とりとめなくてご免なさい。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      Kyokoさん、こんにちは☆

      ものすご~く良い感じですね♪ なんだかとっても嬉しくて、心の中で堅く両手で握手をさせて頂きました!

      そうです!あまりの普通さにびっくりですよね。“気づいている誰か”に見られている自分が、ずっと主体だと思い込んで来ていたんです。ある意味、客体なんですけど(笑)。

      >「経験するもの」と「経験されるもの」は切り離せない、とおっしゃっていますね。私が垣間みた「私」と「私以外の全て」は切り離せない、という気付きは、それに通じているのでしょうか? 

      はい、とっても通じています。“気づいている誰か”が実は真の自分であって、切り離せない「私」と「私以外の全て」は現象ですね。私も私以外も移り変わっていくもの・・・・。

      このステージをルパート・スパイラさんは、悟った二元とおっしゃっています。本当の自分は「私」(体のほう)ではなくて、“気づいている誰か”のほうだった。「私」と「私以外の全て」という自我的二元の世界は勘違いだったと知る段階です。

      私はここに留まっていてしまっていたところをリトリートで、ルパートさんにダイレクトパスでその先に導いてもらいました。今振り返っても、超ラッキーだったと思います♪

      その先とは、“気づいている誰か”と「私」と「私以外の全て」は、決して分けられない、「私」と「私以外の全て」は、気づいている誰か、つまり、気づきの意識そのもので、気づきの意識によって現されているダンス♪という認識です。体験的認識というか。

      この認識が起きたとき、体中で反応して泣いちゃいました。とはいえ、すごい覚醒体験みたいなのではまったくなく、穏やかにハートが開いた感じ。

      長くなってしまいました。でも、とにかく素晴らしいです。
      こういう話を普通にできる世界になるといいですね♪

      いいね

      返信
  10. Kyoko

    あゆかさん

    温かいレスをありがとうございます。「とっても嬉しくなった」と言って頂き、私もほんとに嬉しくなりました。頂いたコメントを読んで、モヤモヤがストンと腑に落ちました。

    ルパート・スパイラさんは「悟った二元」とおっしゃるんですね。その先にある、あゆかさんが行き着かれた「私と私以外の全ては気づいている誰か、つまり気づきの意識そのもの」という体感は私にとってはまだ長い道のりだと思います(本当はすでにここにあるのだろうと頭ではわかっていても)。

    でも、私を非二元に導いてくれた「恩師」(フランク・キンズローさん、QEというメソッドの提唱者)が、「気づいている意識が自己で、それは究極は静寂、無であり、全てのものに浸透しています」と言われるのが、やはりずっと「なんのこっちゃ?」だったのですが、スパイラさんやあゆかさんがおっしゃっていることに重なると思いました。

    「気づいている意識」が自分だとわかると、なぜかとても安心できる幸せな感じがします。長い重荷をやっと下ろせるような。。。素晴らしい気づきを本当にありがとうございます。

    いいね

    返信
  11. パンさん

    すみません…
    今日の未明に
    間違って本名で質問してしまいました。
    申し訳なのですが本名でのせないでもらえますか。
    ごめんなさい。

    今回は名前を変えています。
    m(__)m

    いいね

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      パンさん、こんにちは☆

      お名前を変更いたしました♪ 

      これは私のせいなのですが、コメント欄を有効にしてはいけないコーナーで、有効にしてしまっていました。ですので、せっかくコメントをしていただいたのですが、他の方のコメントも一緒に削除させて頂きますね。

      もし宜しければ、記事のほうへ同じコメントでも、違うコメントでも書いてくださいませ♪

      今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(*^_^*)

      いいね

      返信

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