マインドの苛立ち、それは真実への道♪

私たちが“分かった”というとき、二種類の“分かった”があると思うのです。

一つは、言葉によって説明され、それを頭でなるほど~と分かった、というもの。

これは、マインドにとって極上に気持ちが良いはず。

すっきりした!目からウロコが落ちた!分かった!そうか!

もちろん、目にウロコを貼ったままよりはきっと良いでしょう。

でも、反対につかめない、分からないという場合。マインドは非常に落ち着かないはず。

“起きていて起きていないって?どういうこと?どう見えるの?”

(なんとかつかみたい、分かりたい、分からないもやもやが気持ち悪い・・・。)

“私がいない”ってどんな感じ?どういう状態?

(つかみたい、つかめれば、そこを目指せるのに!)

マインドは何かをつかむことしか知らないので、つかめないものも必死につかもうとします。

なのに、ノンデュアリティが示しているものは、唯一つかめないもの。

マインドにとっては悪夢ですね。

そこでマインドがしてしまうことは、“たぶん、こういうことだろう”、“こういう感じだろう”というつかめるイメージを作り上げてしまうこと。

そして、いつの間にかそれを追ってしまう・・・。

でも、もう一つの“分かった”があると思うのです。

それは、頭を経ない理解。

例えば、夕陽が照らされる空の美しさにうっとりしているとき、その美しさは頭で捉えられているのでしょうか? または、マインドを通らないダイレクトな体験的な理解?

ダイレクトで深い理解であるほど、説明するのが難しくないでしょうか? または、言葉にすると、なんだか虚しく感じられないでしょうか?

私たちが“言葉にならない”というとき、実は頭の理解よりもうんと深く“分かって”いませんか? 全身で捉えていませんか?

マインドは追いついていないけど、全身で分かっていて、自分と感動の間に距離もまったくない。

悟りたいという言葉と真実を知りたいという言葉は、微妙だけど大きな違いがあると思うのです。

悟りたいという場合、悟りとはこういうもの、こういう状態というイメージがあって、それを得たい、そうなりたい・・という感じ。

そうであれば、悟りたいと言いながら、マインドがつかんだイメージを追っかけているだけですね。空の境地に達したい、苦しみがない状態になりたい・・・・。

でも、 “真実を知りたい”と言うとき、何が真実なのか分からないから知りたい、真実がなんなのかさっぱりイメージもできない、知らない状態を受け入れているオープンなスペースがそこにあります。

自我=マインドといって良いほど、自我にとって何かを理解する、イメージするということは、息するほど自然なことでしょう。

でも、そのマインドの癖の延長線上で真実を知ろうとするのは、いつまで経ってもマインドの輪の中。

知識やイメージをすべて捨ててみたら?
未知の世界へオープンになってみたら?
なにも分からないことを受け入れてみたら?

マインドにとってこれは恐怖でもあり、怒りにもなるでしょう。

なぜなら、マインドにとって蓄積された理解は、進歩であり、成長であり、真実へ近づいている証拠だから。それはまた拠り所でもあって、大切にしてきたものだから。

もちろんマインドは人間の夢には欠かせないツールであって、気づいている意識が生み出す魅惑的なダンス、タペストリーの一部。決して悪いものではないですよね。

それでも、マインドが満足しているということは、夢の中にいるということ。

すべてを捨てて、ただあってみる。

存在のありようをダイレクトに見る。

マインドが欲求不満に陥って、崩壊し、あきらめたところに、真実が優しく佇んでいるかもしれません♪

 

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マインドの苛立ち、それは真実への道♪」への17件のフィードバック

  1. ひとりしずか

    あゆかさん、こんにちは(^-^*)/

    いつもありがとうございます。

    私は、一瞥体験をしたこともなく、私がいないという感覚は、正直分からないのですが、今の私がとてもやりたいこと、それは、あゆかさんのこれまでのメッセージを繰り返し読んだり、書いたりさせてもらうこで、それが何より楽しくて、心が安らぎます。

    きっと、その時無心でやってるのだと思います。 
    あゆかさんのメッセージのひとつひとつの言葉が、身体に染み込んで来るような感覚が、あります。
    不思議な感覚だなぁ、と思いますが、とても安心してる私に気づきます。

    「生命のタイミングで、必ず大海に運ばれるはず」と、あゆかさんのメッセージで、
    ゆったりとならせてもらいます。

    少しずつですが、私の固いエネルギーが溶けていってるような感じがします。
    穏やかなエネルギーに変わっていってるような・・・・🎶

    それから、インテグレイテッド心理学、とても素晴らしい心理学だなぁと思います。
    いつか御縁がありますように!

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとりしずかさん、こんにちは☆

      いつもありがとうございます♪

      自分でブログに書いておきながらなんですが、「わたしがいない」よりも、「私は何か?」という問いのほうが私は好きです。(*^_^*) たとえば、安心もその「わたし=本質」に触れているところからきているかもしれませんね。

      いいね

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  2. バレンタイン

    あゆかさん

    初めてコメントいたします。(1か月ほど前にあゆかさんのブログに出会いました。)
    あゆかさん、今回もわかりやすく書いてくださり、ありがとうございます。

    そういうことなんですね!!
    最近、とても、疑問に感じていたことでした。
    わかった、とか、感じた、とか、気づいた、とか、、、私自身の中にもよく起こってきますが、
    どうも嘘くさいなあ、、と思っていました。

    真理を探求をされる方のブログを読んだり、お話を聞いても、
    「悟りに近づいている私」とか、
    「それ(成長している?)を知ってほしい私」とか・・・
    なにか違うよな~という感じがあり、いつも、違和感を感じていました。
    (よい、悪いという意味ではありません。)

    すべてを捨てて、ダイレクトに見る。
    これしかないんですね。

    これまで、
    自分を、想念を「捨てる」ということを、難しい、難しい、と
    ずっと思ってきました。それも想念なんですね。

    ・・・ただ、見ること。
    なんとなく「あ~っ!」という感じがしております^^(言葉では書けません)
    この言葉、何度も聞いてきた言葉なのに、意味がわかりませんでした。
    今、ものすごく、「あ~~っ!」です(笑)

    いいね: 1人

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    1. ayukablog 投稿作成者

      バレンタインさん、こんにちは☆

      そうそう、その嘘くさい感覚に気づいていて素晴らしいです!けっこう見過ごしがちなんです。そして、何度も聞いていた言葉がある日突然腑に落ちる感覚。ここには雲泥の差がありますよね。(*^_^*)

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      返信
  3. ひとみ

    すべてを捨てて、ただあってみる。
    存在のありようをダイレクトに見る。

    感動!感動!感動!!!!!

    自分と感動のあいだに距離はない。

    感動と存在のあいだに距離はない。

    あゆかさん 最高!!!!!

    感謝

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      ひとみさん、こんにちは☆

      わぁ、そんなに感動して頂いて恥ずかしくも嬉しいです。(*^_^*)

      いつもありがとうございます♪

      いいね

      返信
  4. issei

    記事の更新ありがとうごさいます。

    こちらの記事を見る前に、先日、昼間に色々な認識が起こっていました。

    ●○学者とは、ただ問い掛けをする者であって、自分も学ぶ側なのだ。とか、

    無・空が本当の自分の立場であるというマインドの認識は、それはどの立ち位置というものが無いのに、

    人のマインドは、それが《自ら行っていること》なのにも関わらず、無意識的・無自覚にも、不安になるから、

    どこか安全な(誰からも、後ろ指を差されない、もちろん、自分からも)立ち位置や、

    物事を正確に、正しく見れる基準点を探して(探求)いる。

    だが、一度全てを包含する真実なる観点を知ってしまったら、或いは標準機能として身に付けてしまったら、この一つしかない使っているカメラの設定としてしまったら、

    それは、いつもその様に機能し、そのように認識し、映り込んでしまうだろう。とかです。

    面白いものです。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      isseiさん、こんにちは☆

      おぉ、その気づきとても共感します。(*^_^*)

      最後ですが、誰かが真実の観点を持つのではなく、目覚めとは、観点を持つ人がいなくて、観点や位置が消えていくことですね。(また、読み間違えていたら申し訳ありません)

      いいね

      返信
  5. ひとりしずか

    「私は何か?」 
    すべてであって、すべてでない。 

    あっ!
    境界がなくなる感じが、スーッと入って来ます(*’‐’*)♪

    あゆかさんの優しいお導き、本当に嬉しいです。

    ありがとうございます🌟

    いいね: 1人

    返信
  6. issei

    勘違いではないですよ。共感していただき、幸いです。通常の人の一連の感覚に捕らわれなければ、、

    共感する者も、幸いに思う者も居ないのでしょうけど。こちらにも、そう思う認識の表明が為されます。

    本質的な目覚めは、目覚めた者も、居なくなってしまう。

    しかし、完全に無くしてしまうと、せっかくの人としての察しや思いやりが備えられている(人の認識や捉え方という)働きが希薄になって、そのうち無関心となってしまうのではないかと、このマインド???が、もったいないがっている(との感覚と認識が起こっている)のも事実ですね。(>_<)

    対話をしていただけたおかげで、自身(こちら側での)内省が活発に起き、理解が深まりました。

    ありがとうごさいます。

    いいね

    返信
  7. バレンタイン

    あゆかさん

    お忙しい中、コメントを見てくださりありがとうございます。
    お返事までいただいて感激です。

    昨日コメントを書いた後、
    内観をしていましたら、
    自分自身がそれまでつかんでいたもの(想念、自分のキャラ設定(時間、経験、そのたもろもろ)、自分の五感)、つまり「私」そのものですが、
    恐ろしいほど無意識からきているプログラムを、
    自分がただただ、演じている。本気になって演じている。という姿が見えてきまして、
    その瞬間、「あ~~~っ」と、感じておりました。

    自分を見ても、人を見ても、いつまでも永遠に生きれるような思い込みの設定があったり、
    生まれてから死ぬことに、何の疑問も持たない、設定があったり、
    この短い人生の中で、お金もちになるとか、出世をするとか、肉体をどうにかするとか、
    永遠に続かないことに本気になれるような不思議な設定があったり、、

    なにか、私たちは、プログラミングされているロボットのように感じてしまいました。
    (ロボットは100パーセントの例えではないです。)
    それを本気で信じている。
    無意識からただ起こってくるものを信じて、100パーセント信じて、
    演じ切っている。

    私には、悟りなど全くわかりません。
    真実も見えません。

    昨日のあゆかさんのブログを拝見してから、
    本当に知りたいことは、「私」の延長線上には一切ない、と
    さらにさらに、覚悟?のようなものが深まった感じです。

    今、不思議な安堵感がある半面、少しだけ、こわさのようなものもあります。

    ありがとうございます!!

    いいね

    返信
  8. @nara

    あゆかさん、こんばんは。

    今回もす〜と心に届くメッセージをありがとうございます^ ^

    満たされたい私からするとマインドは本当におもしろいほどやっかいなものですね(笑)

    ある時、はぁっ‼︎と何もかも掴めるものとどめておけるものなんてないんだ、決して知りえるものはないんだと、何かを必死に得ようともがいてもがいてその反動からか、一気に解き放たれたことがありました。

    意識が軽くなりあの時はなんとも言えない解放感でした。

    でもマインドはおもしろいほどに、そこをつかもうとしてくる。その状態をもう一度再現しようとしたり継続させようとしたがる(笑)
    エンドレスです!

    そんな状態を何度か繰り返しもう疲れてしまい、そこから私は何を掴みたかったんだろうと改めて自問し、答えはいくらでもあったけれどそもそも何か求めることに必死で、何故そういう気持ちになったかをあらためて向き合うことはしてこなかったなぁと最近よく感じます。

    求めることに必死で自分の感情に蓋をしてきたなぁ〜とつくづく思いました。
    これは勝手に私が思うことですが、感情に蓋をしているほどそれを押さえつけるために求める気持ちが強くなっていくような感じがしました。
    そこにもう答えはあるのに遠くにあることにして見ないふりをする。
    今はいっぱい感情をためこんでいて向き合うのが恐くまだ誤魔化しているとこもありますが、きっとこれが徐々に軽くななってきたら求める気持ちも自然と静かになってくるような気がしています。
    …というか私の期待です。希望です!

    今回のお話から少しそれてしまいましたがコメント載せさせてくださいm(_ _)m

    非二元のお話はちょっとこりごりなところがあるのですが、あゆかさんのお話は地に足がついた非二元のお話なので大好きです。
    また次回も楽しみにしています♪

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      @naraさん、こんにちは☆

      ほんと、おっしゃる通りだと思います。抑圧すればするほど、不幸感というか満たされない感覚が高まるので、求めてしまいますよね。自我が癒されて、落ち着くと、真実はとりあえずいいや~となる人けっこういます。

      はい、ぜひ心の解剖「問いかけ」をお試しください。(*^_^*) 怖いと言いながら、はまる人多しです。うふふ。

      いいね

      返信
  9. Kyoko

    あゆかさん

    こんにちは。いつもありがとうございます。本当に、何かを掴まないと満足しないマインドはすぐに「わからない」と文句を言いたがります。

    非二元の先生たちの本を読み始めてから、よく「過去は存在しません」と言われるのを目にします。エックハルト・トールさんもどこかで「過去も未来も存在していない、あるのは今だけ」と言われていました。

    これがイマイチわからないのですが、やはりマインドで納得しようとしているからでしょうか? 私にとってはまだ来ていない未来はともかく、過去は「子供のとき、思春期のとき、青春時代、自分の子供が幼かったとき…みんな実在していたような気がするけど」となってしまうのです。

    最近、過去は現実にあるのではなく、結局誰かさんの記憶の中、ストーリーの中にしか存在しない、という意味かしらと思い、少し納得しました。誰かが「過去はこうだった」と今考えていることに過ぎないのだから実在するとは言えない、ということだろうかと。

    でもやはり掴もうとするマインドのこじつけのように思えてしまいます。「過去はない」も、マインドを通してわかろうとしても無理で、いつか直接腑に落ちるものでしょうか?

    いいね

    返信
  10. ひとりしずか

    またまたこんにちは、あゆかさん(^-^) 
     
    まつながさんとの、ノンデュアリティトークの動画を見させて頂きました。 

    とても、素晴らしかったです。

    非ニ元の感覚が、また深く入りました。

    幻の色のこの世界のすべてが、ただただ、愛おしく思えます。

    大切に過ごして行きたいなと、思います♪

    ありがとうございます✨

    いいね

    返信
  11. koo

    久々のあゆかさんの動画を見て久しぶりにブログへ来ました。

    「マインドが欲求不満に陥って、崩壊し、あきらめたところに、真実が優しく佇んでいるかもしれません♪」

    これでもかというぐらいに追い詰められても、まだまだ理解できなくて、また違う形で追い詰められてやっと、目覚めの意識の視点にすぐ戻れるようになり、最悪と思える状況も軽く流せるようになった自分がいます。

    それでもまだマインドにつかまって、後で笑うことの繰り返しです。

    そんな私にとても役に立つ動画とブログでした。

    どうもありがとうございました。
    これからもこっそりと拝見させていただきます。

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