今回は、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ウパニシャッドを訳したので、それをご紹介させてください♪
あるきっかけで禅を覗いたらとても面白く、そうこうするうちにインドまで辿りついてしまいました。古典は、今まであまり興味がなかったのですが、読んでみるとシンプルで素朴な匂いがなんともたまらない。
読むというより、吸い込むみたいな感じ。
私の解釈などいらないかも~ですが、書いちゃおう。
私たちは自分が見ている、聞いている、話している、考えている、呼吸していると思っているけど、そこに主体(経験者)はなく、一切捉えることができない「それ」がその経験そのものなのだよね、ということです。
自我にとって分かりにくいことは、自分が経験していないのなら、「それ」が経験しているんじゃないのか?と、どこまでも主体を想定してしまうことかもしれません。
また、自我は経験している対象物、音や景色、思考、言葉に囚われすぎ、例えばそもそも「見る経験」など「経験」そのものがあることを見過ごしがちです。
または、物質主義的な考え方が深く刷り込まれているので、脳が捉える、目が見ているという発想から抜けられないかもしれません。
でも、脳や目は主体ではなく、臓器であって、それを活かしている生命がそもそもありますね。
また、いまここにあるものをダイレクトに見つめてみれば、あらゆることはあるけど、経験者だけが存在しないことが見えてくるはずです。
気づいている意識があって、(経験に気づいている意識)
経験があって、(見ること、聞くこと、考えること、感じること・・・)
経験されるものがある。(風景、音、思い、感情・・・)
そして、さらにダイレクトに見ていけば、音と聞く経験は決して分けられず、気づいている意識とそれらも分けられない。
気づいている意識=経験=経験されるもの=「真の私」
ここには意識しかない
ここには経験しかない
そして、
経験されるものはすべて幻想(色)。
だから私はすべてであって、そのどれでもない。
真の自分は、意識そのもの、経験そのもの、存在そのもので、そして同時に気づいている。(being and aware)
真の自分は、体に制限されないもの。決して消えてなくならないもの。そして唯一思考でも目でも、耳でも感覚でも捉えられないもの。
つい長くなってしまいましたので、ウパニシャッドはこちらからどうぞ!
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こんにちは。はじめまして。
主体は「気づきの意識」なのではないでしょうか?
主体がなければ何も気づくことなく感じなく、自分が存在していることさえ
わからないのではないでしょうか。
思考や感情や五感に気づいているものが主体ではないのですか。
だから気づきを主体と表現した方がいいと思います。
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ビンセントさん、こんにちは☆
はい、おっしゃっていることすごく分かります。(*^_^*) ある意味その通りです。
とっても良い感じなので、もう一歩進めさせてください。まずでは、気づいている意識が主体だとしますね。
ちなみに、この理解に至っていること、そして気づいている意識が真の自分だと認識していることを、私の先生のルパートさんは「悟った二元」とおっしゃっています。
というのも、まだ主体(気づいている意識)と思考や感情(客体)という二つがあるからです。
ただこれが、頭でそう思っただけなら、悟った二元というより、単に頭の理解ですが。
ちなみに、ウパニシャッドも、
“無知なものは、真の自分を知的な理解で知ることができると思っている。
しかし、明晰なものは真の自分とは、知る者と知られるものという二元を超えたものだと分かっている。”
と言っています。つまり、気づいている主体と気づかれている客体という二元を超えたものだと。
主体を想定している限り、必ず客体があって、そこには分離がありますね。これは例えですが、水が気づいている意識だとして、渦巻きが現象だとします。水と渦巻きは分けられるでしょうか? 水は主体?それとも客体?
感情も思考も気づいている意識そのものですね。(これはダイレクトに見ることで、否定しようもなく見えてきます)
う~む、ここでは書ききれないなと思いました~。というか、実際に自分で徹底的にダイレクトに経験を見つめることでしか、真の理解にはつながらないんじゃないかなと思います。
宜しければ、これからもときどき遊びに来てください♪ (*^_^*)
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気づきは、絶えずどこでも?起こっているのでしょうか?
探査のアンテナを張り巡らせているのでしょうか?
『気づき』と『対象』はセットで、その対象の何かに気づいたときが、或いは何かの対象に気づいているときが、
『意識してる』状態、それを『意識』というのでしょうか?
また、同じ質問ですが、気づき・《意識していること》は、いつも、途切れず、どこでも?在ると、されていると、
感じらるでしょうか?(感じらることが起こりますでしょうか?)
>>または、物質主義的な考え方が深く刷り込まれているので、脳が捉える、目が見ているという発想から抜けられないかもしれません。
でも、脳や目は主体ではなく、臓器であって、それを活かしている生命がそもそもありますね。
また、いまここにあるものをダイレクトに見つめてみれば、あらゆることはあるけど、経験者だけが存在しないことが見えてくるはずです。
経験者や知覚者?が居ないなら、更にその先の現象の「自我」が~するとかいうのはおかしいのではないでしょうか?
しかしながら、その根本的な働き、衝動、現象は、知性や、欲求と呼べる働きと捉えても宜しいでしょうか?
あゆかさんもご存知かも知れないですが、YouTubeなどで、ジュンコ・セレンディーという日本の女性が、一年前くらいから、
『すべては、脳が作り出すイリュージョン』ということをシェアし、かなり反響を呼んでいると思います。
簡単に言うと、五感の感覚を脳内でそのように認識し、イメージや印象を創り上げ、
その背後からの根本的な生命力、或いは知性と呼べる衝動は、それらに気づき・意識をするということが起こっているということを言われていると思うのですが。
脳は、受信機もするし、自らのシステムで、イメージや、幻想、解釈も創り出す。との認識が、ここに起こるのですが?
たくさんのことをお訊ねしてすいません。
どれか、一つでも、感想を述べていただけないでしょうか。
しかし、あゆかさんのブログの記事は書かれている内容に関わらず、いつもとても‘柔らか’で、拘らないというか・・何か、透明というか、感じられますね。
これは、いったい、何でしょう?
これも、脳内で創り上げられた、一つのイメージに過ぎないかも知れないですが。
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isseiさん、こんにちは☆
>気づきは、絶えずどこでも?起こっているのでしょうか?探査のアンテナを張り巡らせているのでしょうか?
↑
気づいている意識は、動詞ではないんです。つまり、「気づいている」をやっているのではないんです。存在していて気づいている。あまねくすべてが気づきの意識です。すべてが、机も椅子も。大海で言えば、気づいている意識が水で、あらゆる現象が波だとして、すべてはあまねく水と言っているのと同じなんです。
どこから説明をしたら良いかわからない感もあり、ぜひ、一度セミナーにいらして頂くかして、一対一で会話させてくださいませ♪ (*^_^*)
とりあえず、理解や考えに行かずに、ダイレクトに見るということをしてみるのはいかがでしょうか? 文章と文章のやりとりではとうてい無理です~。
さて、欧米で科学と非二元の国際会議が毎年開催されていますが、そこで発表されている脳科学の話はとても面白く、脳が何かを生み出すというより、脳は単なる受信機で量子フィールドに情報やイメージや記憶があり、脳は単にそれを受信しているという説明があります。量子論ともマッチし、個人的には非常にしっくりきています。(その方と同じ話かどうかわかりませんが)
また、先ほどの水と波の例えのように、脳と気づいている意識という別のものがあるわけではありませんよね。すべてが気づいている意識です。背後とか、場所があるものでもないです。(言葉のあやかもしれませんが)
脳の機能はまだまだ未知数で、現在トップの脳科学でも意識と脳の関係は、仮説でしかないそうです。
ので、脳の仕組みを知るのも楽しいとは思いますが、知識や理解ではなく、ダイレクトに見ることがやっぱり一番良いかと思います~。
また、脳の話を中心にすると、どうしても自分は体であるという幻想から抜けにくいかもとも思います。
気づいている意識は、体や臓器などに制限されるものではありませんし、ウパニシャッドの昔から、臓器の説明なしに真実は明らかにされてきました。ので、そこにあまり囚われなくても良いかな~と思います。
逆に知識や理解を捨てて、いまここにあるものをダイレクトに見るというシンプルさが一番♪
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こんにちは。
Cocoです。
個人的に、量子論ってすごく興味があります。
思いっきりざっくり言うと、「電子のようなミクロの世界では、観測される前は波で、観測されると粒になる」という理論らしいですが、私が面白いと思ったのは、「人間が」観測(見た)したとたん粒子として実体が現れ、観測しない限り、そこには実体はなく、位置も決まっていなくて、無数の重なり合った可能性があるだけだというところが、非二元そのものだなあ、と。
見てそこにあるなら、見る前からそこにあったでしょ、って普通は思いますが、誰も見てないんだから、断定するのはおかしいですよね。実際には「ダイレクトな経験」だけがあり、それ以外は、想像であり、思い込みであり、概念であり、あくまでも「可能性」なんだと。科学が「観測される前がどうだっかたなんて証明できないよ。だって観測できないんだから」って言ってるところが非常にいいなあ、と(笑)
科学と非二元の国際会議って面白そうだ~(^O^)
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ブログの場で、込み入った問い合わせにも関わらず、誠実に対応していただき、まことに感謝の極みです。。。
自分・このダイレクトな感覚は、(取り敢えず“自分・このと表現させていただきます)ここだけに発生していることかも知れませんので、たとえ、ここでどのような実感が起こったとしても、
昔から、鵜呑みにせず、この移り変わります感性を“参考に”、疑っては、確かめて来ましたので、起こっていることは、すべて事実であり、幻想でもありますが、だからといって、思い込みに陥るのは嫌ですし、わかってしまった後では、見て見ぬ振りは出来ず、困りもしますので、いい加減に自らが、信用を置くわけにはいかないのですね。
いつか、カフェで会えるといいんですが。
このような問い掛けは、これからは、控えようと思います。
ありがとうごさいました。
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こんにちは あゆかさん
フランスに住んでいます。
近くのスーパーに、絶対に挨拶を返さないキャッシャーがいます。(笑) 白人には感じよく対応してますが。
私は居ない、あるのは経験と気づいている意識、というのも、落とし込んで理解したものの、やっぱりそのキャッシャーが居るレジには行きたくない!という思いが起こります!
私はいない、のに、やはり私が嫌な思いをするという感情が起こって、それを避けようという思いも起こります。
コレって、私が居ない、ってことを体感していないからでしょうか? 悟りに関わらずやっぱり嫌なことは避けますよね。。
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みおさん、こんにちは☆
このご質問が出てくるということは、たぶん、no self(私はいない)というか、非二元の真実自体が誤解されているようなが気がします。
そして、私がいないって私が分かったのに、私の嫌だ!という気持ちが出てくるとおっしゃっているように聞こえてしまいます・・・・。
「私はいない」という言葉は、すごく誤解されやすいですが、行為者、決定者(doer)がいないという意味です。
「私が嫌いな思いをする」とおっしゃっていますが、その“嫌いな思い”は、「私」のものではありませんよね。
「私という感覚」は、思いや感情、体に付随していないのに、それらが「私」のものであるかのように私たちは勘違いをしていますよね。
ので、嫌だ!という感情は、私に属しているのではなく、気づきの意識のなかに現れ、また気づきの意識そのものです。私(I AM)=気づいている意識(awareness)です。
あぁ、書いて説明するって難しい~~。そして、日本では「私はいない」という言葉だけが注目を浴び過ぎている感があります。
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あゆかさん
お返事ありがとうございます。
質問したそばから、何か理解してないぞ。。と思って1日を過ごし、経験者は居ないんだ→嫌な思いをする”私”が居ない!! と言うことに気づきました。。
あゆかさんのおっしゃる通りです。
わかってるつもりが全然でした!
感情は起きても所有者、経験者もいないんですね。
そうなると本当に楽になる気がします。
何が起きても、抱え込む自我の”私”はいないんですものね。
ただ、前もって嫌な思いを避ける行動、という行為は起きると思いますが。前例で言うとあの人のレジには近寄らないぞ、みたいな!
あゆかさんのブログ、何度読ませて頂いてもいい感じです! ありがとうございます。
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みおさん、こんにちは☆
ご返信をありがとうございます♪
自己の不在(空)が真に腑に落ちれば、いろいろな点で心が軽くなることは間違いないでしょう。でもだとしても、人間としての営み(色)が消えたり、すっかりすべてが受け入れられるといったことが自動的に起きるわけではないですよね。
誰かに対して嫌な気持ちになるのであれば、それはそれでどうしてだろう?と自分の中を見てみることが、人間としてのユニークな自分へのケア(愛)となると思います。
自分はいないことが分かれば、そういうこともなくなるはず・・・とか、または「自分のものじゃないし・・・」という「空」の理解だけで、色を放置してしまわないことが大切かなぁと思います。(*^_^*)
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