はじめに“意識”ありき

量子学と非二元がどんどん同じ言葉を発するようになり、欧米では数年前から「科学と非二元の国際会議」が毎年2回開催されています。

例えば、量子学の父といわれているマックス・プランクは、1931年ロンドンでインタビューされたときに下記のように言っています。

“意識がすべての基礎だと思っています。物質は意識から発生したものであり、意識以前のものを私たちは見つけることができません。私たちが語るすべてのものや、私たちが存在していると思っているものすべては、意識の存在を前提としているです。”

プランクがいう“意識”とは、非二元では、純粋意識(pure consciousness)とか気づいている意識(awareness)と表現され、般若心経的には「空」を指しているのかなと思います。

白状すれば、高校生のとき物理学は学年でビリから二番目の成績で、夏休みの補講に出させられた口です。ので、科学と非二元の国際会議でも、せっかく参加したにもかかわらず、科学者の発表のときはほぼ爆睡状態でした。(トホホ)

それでも、例えば「シュレディンガーの猫」(始めて聞く方はググッてくださいね)などは、非二元的にはキタキターッという感じでワクワクしてしまいます。

ただ、私がいつもどうなんだろうか?と思うのは、どんな量子の実験でも「観測者」がいるということが前提となっている点です。

つまり、個別の観測者の存在を前提にしている限り、どうしても発想や見方が個別の私からの視点になってしまうと思うのです。

分離の視点で分離のない世界を観察してしまうというか・・・・・。

真実は私たちに「私という個別の観察者はいない」と教えてくれています。

個別の観察者の幻想が落ちてはじめて、ほんとうの意味で全体が見えてくる・・。

でも観察者がいないのであれば、じゃぁ、一体誰が窓の外の景色を見ているの?と思われるかもしれません。

この窓から見える景色は私にしか見えないのだから、見ているのは私でしょ?とほとんどの人が思うでしょう。

そこをよく見てご覧~、すべては空っぽだね~と言っているのが、私は般若心経だと思っています。

ですがここでは般若心経には行かず、ルパート・スパイラさんの比喩を応用させてもらいます。

ということで、

Aさんが夜夢を見ていて、夢の中ではAさんではなく、砂漠でさまよっている遊牧民だとします。家族と離れてしまい、恐れと焦りを抱きながらさまよっている・・・みたいな夢。

このとき、砂漠の風景を見ているのは誰でしょうか? 遊牧民の私?それともAさん?

もし、家族と離れてしまった遊牧民が私なのだと完全に信じていたら、砂漠の風景を見ているのは当然自分だと思うでしょう。

だって私、今まさに砂漠にいて、迷っているし・・・みたいな。

ところが実際にはAさんはベッドの中で寝ているだけで、砂漠の風景を見たり、焦りを感じたりしているのはAさんですね。

ちなみに奇跡のコースが、“あなたは一度も暖かいベットを離れたことはない”というのは、このことを言っているのでしょう。

お分かりかとは思いますが、この比喩で、ベットで寝ているAさんは、 “気づいている意識”(純粋意識、空)を指しています。

夢があまりにリアル過ぎて、気づいている意識としての自分はすっかり忘れ去られ、遊牧民の私こそが存在しているのだと疑いなく思っているのが、普通の私たちの感覚ですね。

そして、遊牧民の視点から悟りや真実をあれこれ考える・・・・、でも、遊牧民の私を中心に考えている限り、ベッドで寝ているAこそが実体の自分であるということは思い出しにくいでしょう。

念のため、すべての比喩に限界があるように、純粋意識、空、自己の本質、なんと呼んでも良いですが、それが寝ているわけではもちろんありませんし、Aさんといったような掴めるものでもありません。

話を戻して、“遊牧民の私”は現われれ消えていく(生死)現象の一つです。遊牧民の人生もいつかなくなります。遊牧民の私の思いも感情も情熱、喜び、悲しみ、怒り・・・、すべて現われて、そして消えていきますね。

でも、唯一消えないものは何でしょう?

それはそららに気づいている意識、そして現象が起き続けるという生命のエネルギー。

大海と小波のたとえをするなら、小波は常に変化し、現われては消えていくけど、大海は常にありますね。

話がとっちらかって来た気がしますが、個の私の視線を超えたとき、初めて真実が現われだし、夢である自分は現象だったと見えてくるのでしょう。自分は現象の目撃者ではなく、目撃されている側だったと。

もしかすると、夢の自分のはかなさも同時に感じられてくるかもしれません。でも、そこに愛おしさや美しさも伴って。

桜が満開になってやがて散っていくさまを見るように。

でも、桜を咲かせる生命のエネルギーは永遠。

花と生命のエネルギー、不変と変化、目撃者と目撃されるもの、これらは決して分けることができず、そしてそれが私たち♪

☆☆☆ 重要なお知らせ ☆☆☆

この度、こちらのブログとメインのブログを統合させることにいたしました。せっかくブログ登録をして頂いた皆様には大変申し訳ございませんが、こちらのブログの投稿は今後予定しておりません。宜しければ大変お手数ですが、メインのブログのほうにご登録頂けますと嬉しく思います。たいした数はありませんが、とりあえず過去の記事はこのまま残す予定です。

こちらのブログを始めたときは、ノンデュアリティブームの前ということもあり、多くの人の目につくことはまったく予想しておりませんでした。こっそり気楽に始めたブログでしたが、ご愛読いただきまして心より感謝いたします。

癒しとノンデュアリティのカフェは、まだ続けようと思っておりますので(次回は10月)、そちらでお会いできましたら幸いです♪

☆☆☆ お知らせ・パート2 ☆☆☆

非二元の本を翻訳しました!

「ファンタジーの終焉」~生命の充全さへのいざない~

By ダリル・ベイリー

私たちは生命の息吹、エネルギーそのものであるということが感じてもらえればと思います。理解しようとするよりも、ときどき本を置いてダリル・ベイリーがポイントすることをぜひ見て、感じてみてください♪

☆☆おまけ♪☆☆

 ~「シュレディンガーの猫」の実験をしているオウム~

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