おそらく、真実に目覚めるために最初に大切なことは、ある意味あたり前過ぎるけど、意外におざなりにされていること。それは、自分が眠っていると真に自覚することなのかもしれません。
そうでない限り、眠りの中での目覚めストーリーを追い求めてしまうと思うのです。眠りを自覚するとは言い換えれば、自分がどれだけ思考にはまっているのかを真に知ってみることです。
インテグレイテッド心理学では、いつも「事実と解釈」を分けるエクササイズをします。多くの人にとって分かりにくいことは、例えば「メールの返事がこない」「子供が歯を磨かない」「私には子供がいない」が事実ではなく、解釈であるということです。
ここはほとんどの人がクエスチョンマークを飛ばしまくります。しかし、ここでいう事実とは思考をすべて横に置いたときの「ありのまま」を指しています。
このとき、「~~がない」は、どこにも存在せず、唯一自分の頭の中にあるだけです。
つまり、自分の頭の中にしかないことと実際にあるものの区別を私たちはほとんどしていないんです。
一瞥体験をしたとき、椅子という概念を通さない椅子の姿は、見事にありのままで美しく、完ぺきでした。
ですが、私たちは見るもの、聞くもの、感じるものすべてを定義づけ、解釈し、世界を思考によって分かりやすいものにしていきます。そして、それが事実となって動き始めますね。
また、自分に対しても「私は~~だから、能力が足りない」「~~だから、私はバカだ」というように定義づけていきます。そして、それは紛れもない真実であると信じてしまいますね。
でも、自分に関するありのままの事実は「私がいる」、終わり、です。それ以外の私についての思いはぜんぶ頭の中にしか存在しないですよね。
でも、これも多くの人にとっては、いやいや私は男だ、女だ、日本人だなどは、明らかに事実でしょう、とゆずれないかもしれません。
またセッションでは、それがいかに事実、真実かを数々の証拠(通信簿がオール1だったとか、彼に振られたことしかない、誰かにバカだと言われたなどなど)を差し出してくる人もとても多いです。
しかし、通信簿オール1は本当にバカなのか?、深く考えていくと、バカの定義がいかにあやふやか分かるはずです。
ので、頭が悪い私、女として魅力がない私、バカな私などなどは、思いとして頭の中に存在しているだけなんです。実際、その思考が一切なくても自分はそのまま存在していますよね。
これはある意味、ものすごく自明で、ものすごくシンプルな話ですが、この話自体が多くの人にとってわかりにくく、実感が伴わないものでしょう。それぐらい私たちは頭の中にしなない思考にはまり、頭のストーリーの中を生きていきます。
あまりにそのストーリーにはまりすぎているため、椅子を椅子と見ない圧倒的なリアルさにはほぼ気がつけないものです。
ましてや、ストーリーに感覚や感情が伴い、体にも組み込まれていけば、そちらのほうが圧倒的にリアルに感じられ、私たちは全身全霊でストーリーにはまってしまいます。
でもそのストーリーが悪夢になってきたとき、ある意味私たちの意識は目覚めに向かっていくのかもしれません。
いずれにしても、「頭の中にしかないもの」と「実際に起きていること」を徹底的に区別してみることが目覚めの第一歩となるのでしょう。
そして、私たちの本質とは思考によって決して定義づけることのできない、生まれては去っていく思考に気づいている意識であり、夢の中の私ではない、実体の私。
深い静寂♪
PS: 日常生活の中で解釈するなとかそういった薦めではまったくありません。例えば、誰かが虐待を受けているは、解釈だ~などとせず、早急に対応することが大切ですよね。(空即是色)
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ヤスです。
今回も分かりやすく、目から鱗的で驚きです。
「頭の中にしかないもの」と「実際に起きていること」を徹底的に区別してみることが目覚めの第一歩となるのでしょう。
上記の内容から、確かに・・なるほど・・・
けれども、徹底的に区別してみることは、努力以外の何ものでも無いのでは?
そこまで思考に侵されているのか?まだまだ甘いのか?
そして、「どんなワークも探求を深めるだけ」過去に習ったフレーズを思い出します。
しかし、方向の正しい努力は必要なのではないでしょうか?
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ヤスさん、こんにちは♪
嬉しいコメントありがとうございます☆
ワークや努力になるというより、人によってはワークや努力にしてしまうかもしれませんね。
自我は修行癖があると思いますので。(*^_^*)
私はシンプルな観察だと思っています。とっても楽しいですよ。
シンプルだけど真摯で徹底した観察。思考を眺めて、これは頭の中だけ?という観察です。
瞑想やinquiry(自分への問い)、観察(ダイレクトパス)など昔から多くのマスターたちがいろいろ目覚めへのワークを紹介しています。私はすごく役に立つと思っています。
ただ、記事に書きましたように、“私が”目覚めるというように、夢の中で目覚めようとする人があまりに多いので、そういったことが言われているのだと思います。私が目覚めるのではなく、その私がいるのかどうか、そこも観察で見えてきますよね。(^_-)-☆
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今まさに私に必要なメッセージでした。
ストンと落ちました。
このメッセージに出会えたことに感謝いたします。
ありがとうございます。
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あゆかさん、記事の更新ありがとうこざいます。
今、複数の人と家族に近い状況で長い時間接する環境の職場なのですが、気づくことが本当にたくさんあります。
思い込みをなるべく持たないで、接することを続けると、こうなるかもしれないという自分の恐怖心がいかに実体のないものか知らされます。
また、植物を扱うのですが、植物と動物は元は一つの細胞から分岐したものであるという説があると知り(詳しくは知りません)、魂とは癒されていない想念のようなもので、輪廻転生は厳密に言うとなく、(本当は何も起こっていないため)人間は植物や動物より最大に知覚する存在なのではないかなどと、取り留めもないことを考えてしまいます。人自体(体を含めて)が額縁なのかもしれないと。
人が自然を無意識に求めるのは、解釈の消えただ在るということを喚起するからではないかとも思います。
また、物語を書いていたことがあるのですが、世界で共通に見られる元型のようなヒーローズジャーニーは帰還が結末です。(このこと自体が、本当は一つの意識であるという現れかもしれませんが。でもやはり物語としては放蕩息子の帰還が近いような気がします。)
分離が癒される、あるいは最初から全ては受容されているのだと、人が余すことなく思い出せたらこんなに平和なことはない、と思います。
非二元自体、本当は真偽を追求するべきなのに、今までの世界に対する疑問への辻褄が合い、一瞥体験をしていないのに、どこかで真実に限りなく近いと感じています。
などと壮大なことを考えながら、毎日の沸き起こる不満などの感情はものすごく小市民的で、いつも後から笑えてきます。
また、長々とコメント失礼します。
どちらのブログもいつも楽しみにしています。
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