自我の真の望みは自分の消滅?

もしかすると私たちは「悟り」という言葉に幻想を抱き過ぎているのかもしれません。

悟った人の脳の状態は~~である・・・、

悟った人は常に心が穏やかである・・・、

悟った人は風景が自分とは違って見えている・・・、

というような。

または、

悟れば、悩みがなくなる、苦しみが消える、いつも受容と喜びを感じていられる・・・、

というのもあるかもしれません。

とりあえず、私はこういった幻想の中に長く深くはまっていましたので、一瞥体験をするまで自分には悟りは無理、関係ないものだと思っていました。

ただ、ティーチャーのメッセージは好きだったので、自分のためにあれこれ読んでいたものです。

自我はものごとを複雑にするのが大好きで、また複雑なものを理解したときに、あぁ~~、なるほど、それが真実か!と分かるもの・・・というストーリーも抱きがちかもしれません。

でも、もし悟りの定義が、「真実を知ること」だとすると、シンプルになればなるほど、それは否定しようもなく常にいまここにあって、ちょっとした問いをすれば、それは誰もが分かるはずです。

ちょっとした問いとは、

ラマナ・マハルシから始まったSelf Inquiry(自分への問いかけ)で、例えば、“私はなにもの? Who am I”など。

このときのコツは、頭で考えずに、今起きていることをじかに観察することですね。

“体、思い、感情、感覚を所有し、コントロールしている私はどこにいるのか?”

“個の私という感覚は一番どこに強くあるのか?”

“その感覚は何でできているのか?”

“所有者の私が見つからないのなら、経験しているのは誰?”

自然観察をしているかのように自分に問いかけ、見つめていく。

葉っぱの生態が知りたかったら、葉っぱについて考えるより、できるだけ正確に観察したほうが良いですよね。

それと同じで、自分について知りたかったら、考えないで、できるだけじっくり観察したほうが良いでしょう。

こういったシンプルでダイレクトな観察で、誰もが真実を知る(=思い出す)ことができるはずです。

そして、このシンプルでダイレクトな問いは、“私”を分解し、その存在の幻想性を見抜くので、“私が悟った”にはなりようがありません。

ノンデュアリティという言葉が入ってきたころ、“私ができることは何もない”という言葉に、“じゃぁ、何もしないほうが良いんだ”と、思った人もそれなりにいたようです。

が、私が悟ろうとすれば、自我を強めますが、私を分解する方向で見つめていけば、それは自我の崩壊につながります。

個の所有者、行為者、経験者がどこにも見つからないこと、

思考は勝手に浮かんできていること、

思考と感情と感覚、体という見事な連結プレーだけがあること、

私が癒しで目指していることも、ストーリーの改善ではなく、ストーリーの解体です。“無力な私”を癒して、“できる私”にすることではなく、無力な私そのものが幻想であると知ってもらうことです。

改善されたストーリーの中で、できる私を維持するよりも、解体して、気づきの意識が土台となったとき、ほんとうに休まった気持ちでいられるでしょう。

自我が真に望んでいること、つまり、真実を知りたい、楽になりたい、真の平和を感じたいという欲求の行きつく先が、自分の消滅であるというのは、ある意味ショッキングなことです。

でも、言い換えれば、それは真の私がもう幻想の私をやめて真の自分に戻りたいという熱い欲求ですね。

ただ、それにほんとうに気づくまで、自我は自分の生き残りに全人生をかけ、自分がどうしたら楽になれるか?どうしたら人生をうまく生きていけるか?ということに情熱をかけていくのでしょう。

もちろん、それも悪いことではなく、今その人に起きている生命の衝動ですね。

でも、きっとどこかの段階で人生が苦しすぎて、または人生のドラマに飽きすぎて、または純粋に疑問が浮かんで、自分の生き残りよりも、本質、真実へ帰りたい欲求が上回るのかもしれません。

と、考えれば、人生が苦しすぎて行き場がないと思ったとき、人生の意味って何だろう?という本質的な思いが自然に沸いて来ることは、ホームカミングへの大切な岐路で、悪いことではないですね。

つれづれに思うまま書いてきましたが、久しぶりに名古屋でノンデュアリティと癒しのカフェを開催しま~す♪

自我の解体と問いのデモなども致します。(なんかマグロの解体ショーみたいな言い方)

皆さんと直にお会いし、カフェにいるかのように気軽にやりとりができたら嬉しく思います♪

 

☆☆☆ ノンデュアリティと癒しのカフェ in 名古屋 ☆☆☆

非二元の本質について、自我の構造、苦しみが生まれるしくみ、デモカウンセリングなど

日程:2019年4月21日(日)
時間:10時半~16時半
場所:愛知学院大学名城キャンパス(2502、2503教室)
http://www.agu.ac.jp/project140/campus/access.html
参加費:8千円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/TMMFK

自我の真の望みは自分の消滅?」への5件のフィードバック

  1. miwa

    あゆかさん、こんにちは。いつも胸に沁み入る言葉やお話をありがとうございます。
    今回あゆかさんがつれづれなるままに書かれた記事をゆったりとなぞっていたら、何かが込みあげてきて涙がこぼれてきました。こぼれながら「なんなのこれ?」と問う自分もいるのですが、よくわかりません。感情のすべてが混ざっているような、でも明確にはそれでないような。あゆかさんの「つづられたことば」にふれながら、ただただこみあげてくる感覚です。あたたかさにふれているような、、、。 よくわからないながらも(笑)、胸はあったかなので、「あゆかさん、ありがとうございます!」が伝えたくなりコメントしました。。なんだか不明なコメントですみません。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      miwaさん、こんにちは♪

      素敵なフィードバックをありがとうございます!
      時間を取って書いてくださったことがとても嬉しいです。
      私もなんか胸がジーンとしました。
      あまり頻繁なアップをしていませんが、今後もぜひブログをお読みくださいませ♪

      いいね

      返信
  2. yuriko

    こんにちわ。
    オンライン・オープン・アウェアネス・カフェ、毎回楽しみに視聴させてもらってます。
    他の方の質問も楽しくシェアさせてもらってます。
    中々オンライン中では聞く方に集中してしまって頭の中にある色々な疑問が整理できずに
    その場で質問ができずにいますのでこちらで質問させて頂きます。

    >きっとどこかの段階で人生が苦しすぎて、または人生のドラマに飽きすぎて、または純粋に疑問が浮かんで、自分の生き残りよりも、本質、真実へ帰りたい欲求が上回るのかもしれません。

    人生が苦しいと思ったことはあまりないのですが、
    まさにこの人生のドラマに飽きてしまっているのです。
    なので常に純粋な疑問が浮かんできて、真実を知りたい欲求が溢れてきます。

    よく一瞥体験と目覚めは関係ないと言いますが、
    一瞥体験なしで目覚めは起きるのでしょうか?
    自我が前面に出ている時は決してわからないと言いますが、
    そうなるとどうやって「分かった!」が分かるのでしょうか?
    自分という主体はどこにもいないというところまでは感じられますが、
    じゃあ誰がこの体験を体験しているの?となると
    その先がどうしても何というか頭?がモヤモヤしてそれ以上追いかけられなくなります。
    いつもそこで止まってしまいます。
    まるで自我が自らの消滅を拒んでいるかの様です。

    何も自分で出来ることはないと言いますが
    例えば3Dイラストをじーっと見つめていると、
    ある時突然立体のイルカ等が浮き出てきますよね?
    それは見ようとしないと見えないわけです。
    ただイルカが浮き出てきた時にはどうやったら見える様になったのかは
    うまく言葉では説明できないけど
    何となく焦点をぼやかしてみるといいとか、
    コツ的な事は指し示す事は出来ます。

    そんな感じでずーっと真実を知りたい!と思い続けて
    モヤモヤした時にもそのモヤモヤが一体何なのかを
    追い続けるとか?

    何かアドバイスがありましたらよろしくお願いします。

    よろしくお願いします。

    いいね: 1人

    返信
    1. ayukablog 投稿作成者

      yurikoさん、こんにちは♪

      オンラインカフェにご参加頂きありがとうございます。
      質問が少ないのは、そういった事情もあるのですね。なるほど~。

      さて、

      そうなるとどうやって「分かった!」が分かるのでしょうか?

      これすごく分かります。ほぼ同じ質問を私もルパート・スパイラさんにしました。
      一瞥体験は、ほんとうに体験でしかなく、また分かった!という感じになるわけでもないです。
      また、文字通り一瞥なので、真実の一部を体験したに過ぎません。

      ので、その後も、どの時点で自分が真実が見えたのか?がどう分かるの?という疑問はありました。
      で、ルパートさんの答えは、“マラソンのゴールのテープを切るようなものではありませんよ、強いて言えば、人生で起きるすべてに対してイエスと言えているかどうかかもしれません”でした。(ちなみにこの言葉、ルパートさんの先生のフランシス・ルシールさんに始めて会った時に言われた言葉だそうです)

      とりあえず、yurikoさんの場合、誰が体験しているの?という質問よりも、気づきの意識に深く寄り添うほうが良いかもしれません。自分のモヤモヤを晴らすという視点から、モヤモヤが起きているという視点に変わってきたら、そこで今度は、このyurikoという愛おしい存在があって、どの部分が一番同化する部分かな?と見ていくなど、ステップがあるわけではまったくありませんが、その人、その人のジャーニーがあるかと思います。

      そしてできましたら、良いご質問は皆さんとシェアをしたいなぁと思いますので、今ある疑問などは次回のオンラインでご質問いただくのも宜しいかと思います。

      いいね

      返信
      1. yuriko

        早速の返答ありがとうございます!

        「マラソンのゴールのテープを切る様なものではない」
        この言葉優しいですね。
        玉ねぎの皮を一枚一枚むく様にというのもありですね。
        でもイマイチピンとこないのが「気づきの意識」です。
        オンラインでも毎回ワークしてくれますが、
        どれの事を指しているのかが、まだハッキリと分かりません。
        全てを見て聞いて感じている私という感じでしょうか?
        全てとは周りの物事や自分の身体や心さえも含むという全て。

        オンラインの方も定期的に受けていると
        日常に紛れて忘れがちな大事な事を思い出させるチャンスになってくれて
        とても助かっています。
        この4回が終わってもまた次もあるなら続けたいです。
        他の方の質問も大変興味深いものばかりで、もっとずーっとお話を聞いていたいです。
        顔出ししないのは、寝っ転がってめっちゃリラックスして観ているので
        ちょい恥ずかしい為で、大した理由はありません(笑)
        そうゆう方結構多いかもですね(笑)
        それがオンラインのいいとこです〜
        また次回も楽しみにしていますね!

        いいね: 1人

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