非二元とは、もともとサンスクリット語であるアドヴァイタ(ad=not, vaita=two、「二つではない」を日本語に訳した言葉です。英語では、Non Duality(ノン・デュアリティー、二つではない)と訳されています。
非二元を不二一元論とか非二次元(次元とは関係ありません)と訳すものや、二元を「二極」と解釈している人などもみかけます。ですが、非二元とは単純に「二つではない」という意味です。ポジティブ、ネガティブ、熱い、寒い、善、悪という相対的なことではなく、「主体」と「客体」の二つではない、「私」(見る者)と「世界」(見られる物)という二つがあるのではない、ということです。
また、日本語では、「論」とつけることのあるように、まるでそのような思想があるかのようなイメージを与えていますが、非二元は思想でも、論説でも、ましては仮定でもありません。たとえば、太陽が東から昇ることを「太陽東昇説」などと言わないように、非二元とは自明の真実です。
多くの非二元のティーチャーがいう、「この世は幻想である」とは、「私(主体)が、世界(客体)を見る」という主体と客体の二つがあるという世界観は幻想だよという意味です。
実際に、自己をよく見つめていけば、「私」という主体はなく、経験(色)があるだけです。そして、経験をよく見つめていくと、それは気づきの意識そのもの(空)です。つまり、色は空であり、空は色であって、空と色の“二つではない”ということです。
経験されるものと経験する人は、二つではなく、経験がただ起きています。それは生命そのものであり、生命が紡ぎだす事象が消えることは決してありません。そして、あらゆる事象が移り変わる中、生命である「それ」はずっと静かに存在し、同時に気づいています。
そして、それが真のあなたなのです。紛れもなく、否定しようもなく、永遠であり、静けさであり、ダイナミズムであり、大いなる愛です。
時のない永遠の中で、あなたのダンス(色)がやむことはなく、幻想と現実を同時に舞って、舞う。
返信ありがとうございます。
>大和田さんにしても、誰にしてもそんなことはおっしゃらないと思いますよ~。
ぜひそうであって欲しいですね。
ですが、もしそうであれば、それはダブルスタンダードで一貫性がない態度だと思うのです。
私は若い時に(仏教で云われるところの)≪解脱≫を経験しました。(と思われます)
ですが、仏教や禅の修行をして≪その体験≫をしたわけではないので、私にとっては≪アレ≫と表現すべき体験でもあります。
その体験は
『自我と意識が分離(detach)』したことで
『それまでの自分は ≪自分の観念に弄ばれていただけ≫ だと、体験によって理解した』
というものです。
それ以来、僧侶や宗教家がいかに一般人のココロを弄んでいるのかがよく理解できるようになりました。
動画サイトには『悟った』という禅師の法話がありますが、私には『ただの茶飲み話』にしか聞こえないのです。
しかし、参禅者の時間と労力と布施を得ながら、得々と『ありがたい話』をする老師に少なからず≪怒りの感情≫を覚えます。
「他人(参禅者)の時間を何だと思ってるのだろう?」と。
『観念のない世界がある』という『観念』があります。
『人は実体のない観念にだまされている』という『観念』があります。
これは≪説明(コトバに)した瞬間≫に、矛盾した説明になってしまいます。
つまり、「すべてはひとつ」とか「問題などないのだ」という思想を「観念として表現した瞬間に」それは『矛盾』になるのです。
解脱(といわれる)体験をして30年以上たって、私が理解できたことがあります。それは
禅が言っているのは
『人間が≪観念の中で生きている≫ことを体験的に理解したうえで、その観念を叩き壊す視点を身につけて、観念に巻き込まれないようにしようね』
ってことです。
そういう考えを持っていますので、アドバイタの『すべては一つ』『問題はない』という≪観念の表現≫だけで終わる説明スタイルは、他人を惑わす要素をばら撒いているようにしか見えないのです。
以上です。
失礼しました。
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Punna Sakuraさん
ほとんどの点で共感いたします。(*^_^*)
また、ほんの少しですがPunna Sakuraさんの精神の旅?の一端に触れさせて頂けたこともなんだか嬉しく思います。ありがとうございました♪
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