月別アーカイブ: 2019年7月

すべての思考を信じるのをやめてみる♪

なぜ私たちの思考はいつもぐるぐると忙しいのでしょう?

瞑想しようとしても、すぐに何か考えてしまう。
もういい加減考えたくもないのに考えが浮かんできてしまう。
ハートの声を聞こうとしても、すぐ考えに戻ってしまう。

ある意味、私たち、または自我は思考中毒ですよね。

どうしてでしょう?

自我の構成要素とは、思考と感情、感覚、そして体ですね。この要素のどの一つでも欠けると、いわゆる「(個の)わたし」は成り立ちません。

つまり、思考が完全になくなってしまうと、「自我のわたし」は消えてしまいます。

え、ほんと?と思う方は、誰か人数が、“今からあなたから考えるという能力を一切取り去ります。体と感情だけはありますが、考えはゼロになります。”と言われたと想像してみてください。

把握できるものがなくなり、まったくわからない世界に突入していかないでしょうか? 個としての自分がいるかどうかさえ分からない。

そう、自我にとって思考は存在の拠り所でもあるんですね。ですから当然手放せません。なので、基本的に私たちは思考によって安心しようとする強い癖があります。

例えば、何かチャレンジが続いたとき、“神はあなたが乗り越えられないチャレンジは与えない”といった言葉に出会い、そうか!乗り越えられるはずだ、私はその力があるとみなされているだ、大丈夫なんだ、と苦しい中でも安心できます。

この言葉が真実かどうかは実は誰にも分りません。でも、ある思いを信じることで、私たちは安心できるんです。

もちろん、そういう思いを持ってはいけないという話ではまったくありません。自分に力をくれる言葉、前向きにしてくれる言葉は、どんどん活用したほうが良いと思います。私自身もいくつも好きな言葉があります。

または、“心の弱い人が鬱になる”とどこかで読んで落ち込んでいたのが、“鬱は自律神経の不均衡で起きるもので性格とは関係ありません”と知ったら、少し気分が楽になるとか。

鬱であるという状況は変わってはいないけど、“弱い自分”という考えから“自分が悪いわけではない”という考え(理解)に変わって少し安心できますね。

再び、どちらの情報もどこまで真実か分かりませんが、ある思いになる(=ある思いを信じる)ことでちょっと救われる。

こうやってみれば、思考が私たちを苦しめるというより、思考を信じることが私たちを苦しめ、またある思考を信じることで安心するんですね。
ただ、普段の私たちは、思考を信じているという自覚はなく、頭に浮かぶ思いはすべて鵜呑みにして、ただ考えているだけですが。

ともかく、繰り返しになりますが、思考で安心したいという傾向が強いため、大変なときほど無意識に私たちは考えの中で安心する思いを探そうともがきます。 “そうか、そうだよね”と安心できる思考、“なるほど、だからなのか”と腑に落ちる思考、“そうすれば良いのだ!”と解決方法を見出してくれる思考などなどを無意識に探しているんですね。

そう振り返ってみると、悩んでいるときの思考には、“なぜあの人は・・・”、“どうして私に・・・”、“これに何か意味はあるのか?”など、“なぜ?”思考や意味を求める思考が多くないですか?

楽になる思いを見つけて、それを信じることでほっとしたい。心の悩みでアドバイスを求めるのも、誰かの言葉を信じたい。

さて、思いを信じるといえば、自我が究極に信じている“思い違い”があります。

それは、“自分は分離した個であって、個としての自分が世界を経験している”という思い違いです。

エックハルト・トールがいうように「アイデンティティの勘違い」をしているんです。

ということで、思考を止めるというよりは、すべての思考を一切信じることをちょっと辞めてみてください。一切です。

繰り返しますが、思考を止めるより、信じることをやめてみるんです。(思考は浮かんでくるので)

思考というより事実でしょう~というような思い、私がいる、社会がある、世界がある、みたいな思いもすべてです。

な~~んにも信じない。

うまくやれていたら、あなたは未知の世界に突入しているはずです。

そのままそこにじっとしていましょう。

もはや自分の人生を図る尺度もなく、時系列も消えて、なにもかもが定義できなくなっているはずです。

さらに続けてみてください。

自分というものの境界があやふやになり、時系列を失えば、自分の人生もあやふやになり、感情(楽しい、悲しいといった定義も手放す)や体の感覚も捉えられないものになるでしょう。体の所有者が消え、“あなた”とは関係のないものになっていきます。

それでも、“あなた”は完ぺきに存在していますね。すべてがあやふやになっても、存在そのものはあって、そしてただ気づいている。

それだけが唯一の実体で、それがほんとうの「わたし」(I am that I am)です。

そして、その「わたし」があたかも実体があるような「個の私」を経験しているんですね。

これを頭で理解しようとすると迷い子になってしまうかもしれません。

でも、どうでしょう? 思考を一切信じないだけで、本質の自分があっという間に顔をだしませんか?

ここにくつろぐことができれば、何もわからないにもかかわらず、絶対的な存在である自分が安心そのものであると感じるでしょう。

そして、頭で理解できなかったことも、だんだん体験的にわかってくるはず。

ぜひ何度もお試しを~♪