月別アーカイブ: 2017年3月

いにしえがあなたの耳にささやく真実♪

今回は、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ウパニシャッドを訳したので、それをご紹介させてください♪

あるきっかけで禅を覗いたらとても面白く、そうこうするうちにインドまで辿りついてしまいました。古典は、今まであまり興味がなかったのですが、読んでみるとシンプルで素朴な匂いがなんともたまらない。

読むというより、吸い込むみたいな感じ。

私の解釈などいらないかも~ですが、書いちゃおう。

私たちは自分が見ている、聞いている、話している、考えている、呼吸していると思っているけど、そこに主体(経験者)はなく、一切捉えることができない「それ」がその経験そのものなのだよね、ということです。

自我にとって分かりにくいことは、自分が経験していないのなら、「それ」が経験しているんじゃないのか?と、どこまでも主体を想定してしまうことかもしれません。

また、自我は経験している対象物、音や景色、思考、言葉に囚われすぎ、例えばそもそも「見る経験」など「経験」そのものがあることを見過ごしがちです。

または、物質主義的な考え方が深く刷り込まれているので、脳が捉える、目が見ているという発想から抜けられないかもしれません。

でも、脳や目は主体ではなく、臓器であって、それを活かしている生命がそもそもありますね。

また、いまここにあるものをダイレクトに見つめてみれば、あらゆることはあるけど、経験者だけが存在しないことが見えてくるはずです。

気づいている意識があって、(経験に気づいている意識)
経験があって、(見ること、聞くこと、考えること、感じること・・・)
経験されるものがある。(風景、音、思い、感情・・・)

そして、さらにダイレクトに見ていけば、音と聞く経験は決して分けられず、気づいている意識とそれらも分けられない。

気づいている意識=経験=経験されるもの=「真の私」

ここには意識しかない
ここには経験しかない

そして、

経験されるものはすべて幻想(色)。

だから私はすべてであって、そのどれでもない。

真の自分は、意識そのもの、経験そのもの、存在そのもので、そして同時に気づいている。(being and aware)

真の自分は、体に制限されないもの。決して消えてなくならないもの。そして唯一思考でも目でも、耳でも感覚でも捉えられないもの。

つい長くなってしまいましたので、ウパニシャッドはこちらからどうぞ!

☆☆☆

ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました!

気軽にいらしてください♪

◎4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、

今回キャンセル待ちの方に優先案内させて頂きます。

優先案内希望の方は、3月のカフェに一旦お申込みください。

マインドの苛立ち、それは真実への道♪

私たちが“分かった”というとき、二種類の“分かった”があると思うのです。

一つは、言葉によって説明され、それを頭でなるほど~と分かった、というもの。

これは、マインドにとって極上に気持ちが良いはず。

すっきりした!目からウロコが落ちた!分かった!そうか!

もちろん、目にウロコを貼ったままよりはきっと良いでしょう。

でも、反対につかめない、分からないという場合。マインドは非常に落ち着かないはず。

“起きていて起きていないって?どういうこと?どう見えるの?”

(なんとかつかみたい、分かりたい、分からないもやもやが気持ち悪い・・・。)

“私がいない”ってどんな感じ?どういう状態?

(つかみたい、つかめれば、そこを目指せるのに!)

マインドは何かをつかむことしか知らないので、つかめないものも必死につかもうとします。

なのに、ノンデュアリティが示しているものは、唯一つかめないもの。

マインドにとっては悪夢ですね。

そこでマインドがしてしまうことは、“たぶん、こういうことだろう”、“こういう感じだろう”というつかめるイメージを作り上げてしまうこと。

そして、いつの間にかそれを追ってしまう・・・。

でも、もう一つの“分かった”があると思うのです。

それは、頭を経ない理解。

例えば、夕陽が照らされる空の美しさにうっとりしているとき、その美しさは頭で捉えられているのでしょうか? または、マインドを通らないダイレクトな体験的な理解?

ダイレクトで深い理解であるほど、説明するのが難しくないでしょうか? または、言葉にすると、なんだか虚しく感じられないでしょうか?

私たちが“言葉にならない”というとき、実は頭の理解よりもうんと深く“分かって”いませんか? 全身で捉えていませんか?

マインドは追いついていないけど、全身で分かっていて、自分と感動の間に距離もまったくない。

悟りたいという言葉と真実を知りたいという言葉は、微妙だけど大きな違いがあると思うのです。

悟りたいという場合、悟りとはこういうもの、こういう状態というイメージがあって、それを得たい、そうなりたい・・という感じ。

そうであれば、悟りたいと言いながら、マインドがつかんだイメージを追っかけているだけですね。空の境地に達したい、苦しみがない状態になりたい・・・・。

でも、 “真実を知りたい”と言うとき、何が真実なのか分からないから知りたい、真実がなんなのかさっぱりイメージもできない、知らない状態を受け入れているオープンなスペースがそこにあります。

自我=マインドといって良いほど、自我にとって何かを理解する、イメージするということは、息するほど自然なことでしょう。

でも、そのマインドの癖の延長線上で真実を知ろうとするのは、いつまで経ってもマインドの輪の中。

知識やイメージをすべて捨ててみたら?
未知の世界へオープンになってみたら?
なにも分からないことを受け入れてみたら?

マインドにとってこれは恐怖でもあり、怒りにもなるでしょう。

なぜなら、マインドにとって蓄積された理解は、進歩であり、成長であり、真実へ近づいている証拠だから。それはまた拠り所でもあって、大切にしてきたものだから。

もちろんマインドは人間の夢には欠かせないツールであって、気づいている意識が生み出す魅惑的なダンス、タペストリーの一部。決して悪いものではないですよね。

それでも、マインドが満足しているということは、夢の中にいるということ。

すべてを捨てて、ただあってみる。

存在のありようをダイレクトに見る。

マインドが欲求不満に陥って、崩壊し、あきらめたところに、真実が優しく佇んでいるかもしれません♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

東京ノンデュアリティと癒しのカフェへの多数のお申込みをありがとうございます!

今回キャンセル待ちになられている方々みなさんメーリングリストに入れさせて頂きました。
次回の先行案内をお送りさせて頂きます。
(不要な方は、お手数ですが、nondualseminar@gmail.comまでお知らせくださいませ)