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エゴがエゴをなくそうとする矛盾

さ~て、「私はいない」は、スピ界隈(ってどこだ?)では、昨年の流行語大賞と言えるかもしれませんね。

ちなみに、英語では「no self」とか「no doer」などと表現されています。で、皆さん、もうよくお分かりかと思いますが、これは「行為者」がいないという意味です。

つまり、コントロールしている主体がいない、何か物事を決めたり、選択している主体がいないということですね。

ということで、自分が思考を作り出していないということをよ~く見つめてみると良いかもしれません。常に思考は自動的に沸いて来ているだけ。そこに思考をコントロールしている主体は見つからないはず。

私は真実がどうしても知りたかったので、これをしつこ~く見ていきました。とはいえ単純に細かく観察しただけです。

するとどんなに見ても、すべては勝手に現われ、その直後に思考がコメントをしているだけなんです。そこに何かを選択したり、生み出したりしている主体はどしても見当たりません。

多くの人が「私はいる」と強く感じていますよね、というか、それを疑いもしていないでしょう。でも、それもよ~く観察すると、「私がいる」という思いとその感覚があるだけで、それ以外には何もないんです。

空っぽ。

イギリスでのリトリートでも、また日本でも最近見かけるのが、この「主体はいない」ということをきちんと腑に落とさずに、目覚め、真実を求めているケースです。

そうすると、どうしても“自分がいつか分かる”、“自分がいつかシフトする”というように、無意識のうちに「自分」が頑張ってしまいます。

または、自分そのものがまるごとエゴ(自我=自分)なのに、エゴ(自分)がエゴをなくそうとする、エゴがエゴと同化しないように頑張るという不可能な作業をしてしまいがちです。

というのも、「主体がいない」ことが腑に落ちていないと、あたかも自分のなかにエゴがある、または自分がエゴを持っているかのように感じてしまうんですね。

ということで、私たちは普段、

私の体
私の思い
私の感情

と、「私の~~」と言っていますが、そのそれらの所有者である私、個別の私がどこに一体いるのか?じっくり見てみるのはいかがでしょうか?

また、思考の主がいないことを見抜けてくると、思考にあまり囚われなくなるでしょう。なぜなら、思考はただ沸いて来る実体のないもので、まったくもって頼りにならないことが見えてくるからです。

で、思考が一切当てにないことが分かると、残されたものは、皆目検討もつかない、分からない世界、「ただある」ことだけがある。

でも、そこに恐れはなく(恐れは思考が作るから)、

何も分からないことが、これほど安心で自由だったとは・・・。うふ♪

 

あざやかな分離のトリック♪

思考や感情が常に起きているけど、
その感情や思いを隣の人は知らない。

ポジティブな思いが浮かべば、わくわくする感覚がしたり、
ネガティブな思いが浮かべば、胸が締め付けられるような感覚がするかもしれない。

自分だけにしか知らない思いや感情、そしてそれに反応する体。
これらは、自分は分離しているという勘違いが生まれるには充分な証拠だ。

体の数だけ違う思い、感情、そこに流れているストーリーがある。
ある意味それは「神の遊戯」の醍醐味。あざやかなトリック。

でも、その遊戯を見ている目はたった一つ。
その遊戯に気づいている意識は、たった一つ。

「わたし」の後につく言葉はすべて、遊戯に属し、それらはすべて変化する。体も、思いも感情も。

でも、「わたし(I AM)」は常にそこにあって、どんな属性も持たず、動かず、変化せず、だから時間や空間も知らない。

じっとそこに居続けてみよう。

そして、ちょっとダイレクトパスなんかをやってみても良いかもしれない。
(※ダイレクトパスとは、思考を通さずに直接体験を見ていくこと)

エアコンの音と
お湯が沸いている音
外から聞こえてくる音に間に距離はある?

エアコンはあそこ、台所はあっち、家の外に道がある、といった記憶(思考)取り除き、ただ、今現れていることに意識を持って行ってみよう。

もう一度、音と音の間に距離はある?

次に体の感覚に意識を持っていってみる。
どこかにくすぐったいという感覚があるかもしれない。

そして、体があるという記憶(思考)を横に置いてみる。
くすぐったい感覚と音には距離がある?

思考は、感覚は自分のもので、音は自分のものではない、と言うだろう。
でも、その思いを取り去ってみたら、
感覚も音も現われているすべては、どこで起きている?

気づきの意識の中ですべてが現れている。いつも、いつも。

そして、気づいている意識と現われているすべての間にも距離はなく、それらは決して二つに分けられない(二つではない=ノン・デュアリティ)。

そして、その全体が真のわたし。
空っぽで、そして満ちている。

もう一度言おう。
遊戯を見ている目はたった一つ。

探求者は、その目を通して真実を探し続ける。

いつの日か、常にあるその目が探し物だったと気づくまで。
そこに居続けようとしていた“探求者”は、探している主体ではなく、
その目が見つめる客体であったと気づくまで♪ (=探求者はいない)

(※探し物に気づくこと。それは決してゴールではなく、真実が現われ出てくるほんの始まり。)