真実を知りたくて探求を長く続けているけど、今だに頭の理解でしかない・・・とおっしゃる方がそれなりにいます。
知識は増えていくのに、実感がまったく伴わない・・・。
一つは、確かに真実を知りたいのだろうけど、思考を手放す準備がまったくできていないという場合があります。思考(頭)を手放さないから、いつまでも頭の理解だけ・・・。ある意味当然の帰結です。
思考を手放すとは、瞑想の時だけ思考を鎮めるという話ではありません。すべての思考をあてにしないということです。ほんと~にすべての思考を。
私はセラピスト養成講座を長く続けていますが(次回で一応終了)、実は癒しのベースも「中立で透明な立ち位置(考えが邪魔しない立ち位置)」というのがとっても大切です。
考えに邪魔されず、しかもどの思考も信じない、という立ち位置です。
例えば、クライアントさんが“いつも相手(彼)がウソをついて自分が傷ついて関係が終わる”というテーマでいらした場合、
相手がウソをつく・・・は、事実ではなくて解釈ですね。その人はどんな相手の言動を“ウソをついた”と解釈したのか知るためには、“彼は実際なんて言ったのですか?”と聞く必要があります。
すると、
“火曜日に仕事に行くと言ったのに、行っていなかった。”
というお返事。
私は年中日程を間違えるので、私なら“日にち間違えたのかな?”と解釈してしまうでしょう。
しかしこの人が“彼がウソをついた”と解釈した理由は、“私はすべてを正しく把握していないとダメ”→“把握していないということは、頭が悪いという意味”→“頭が悪い私は生きていけない”という思考のストーリーが潜在意識にあったからです。
なので、自分が把握している事実と違うことが起きていることが許せなかったのですね。
でも、“頭が悪い私は生きていけない”というストーリーが解体された時、その人はその思考の同化から自由になり、また、彼がウソをついているという投影も落ちるんです。
ここで、いつも“でも相手は本当にウソをついているかもしれないじゃないか?”という質問を頂きます。
もし相手が本当にウソをついていても、反応がぜんぜん違います。ストーリーに支配されていると、“このウソつき野郎~~!!!”となるかもしれません。一方ストーリーがなければ、なんでウソついたの?と話し合いができるかもしれませんね。
究極的にはどちらもストーリーですが、後者のほうがはるかに穏やかなストーリーです。
しかし、私たちは普段これをストーリーとしてはみなさず、真実、事実として捉えています。深い眠りの状態です。
自分の中にたくさんのストーリーを“真実”として握りしめ、ストーリーに同化しながら知識を深めても、ストーリーが私たちを夢にとどまらせてしまいます。
しかし、自我は自分を見たがらないもので、たいてい意識が外にいつも向いています。
ので、自分の握りしめているストーリーにはほぼほぼ無関心です。それよりも瞑想や何か(外からもらうもの)が真実へ導いてくれないかと「やり方」を知りたい!みたいな。
ちなみに自分の気づいていない潜在意識のストーリーを知るために、私は「気づきの問いかけ」を使っています。
基本、皆さん、“難しい、使い方がさっぱり分からない”とおっしゃります。
でも難しい理由は、「中立で透明な立ち位置」を忘れて、ストーリーをそのまま聞いてしまうからです。
あらゆるストーリーを鵜吞みにしない、シンプルだけどものすごく難しい。
自我の長年の自然な行動(ストーリーに同化し、ストーリー上で考える)に相反する上に、ストーリーという楽しく、苦しく、エンターテイメント性たっぷりの世界から離れる、ある種のつまらなさ。
ここまで書いて、真実を知るには、自分の無意識のストーリーを知ることが必須だね、と書いているわけではありません。
すべての人にすべての人の道があり、様々な目覚め方があるでしょう。
しかし、私たちはどこかで自分のストーリー(思考)を手放す準備がないといけないかもしれません。
そして、トニー・パーソンズがリチャード・シルベスターの耳ともとに“I wish you die soon.あなたが早く死にますように”とささやいたように、最終的にストーリーだけではなく、自分そのものを明け渡し、真実の中へある意味死にいく準備が必要なのかもしれません。
それは肉体の死という意味ではまったくありません。肉体の死は、始まりがあって、終わりがある自我のストーリーですね。死んだり、目覚めたりする誰かをあきらめるということ。
個の消滅♪
小波が小波であることをあきらめるということ。
そして、小波は大海となる♪
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苦しみのストーリーを解体し、本質にくつろぐ♪