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禅と父と許し♪

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今日はすごく個人的なお話で失礼します♪

さて今、盤珪(ばんけい)の「不生禅」を英語版で読んでいます。なぜ、英語なのかというと古文が苦手だからです。

禅の美術も禅寺やお庭も大好きなのですが、今まで禅を深めたいという気持ちがあまりありませんでした。

というのも、昔から「偉そうなおじさん」が苦手だったからです。
つまり、私の頭の中では高僧=偉そうなおじさん。
もちろん、100%私の歪んだ解釈です。

そんなくだらない理由で手付かずでいたですが、
盤珪の「不生禅」を読んだところ、ものすごく面白い!
面白すぎる、この盤珪おじさん!(失礼、やっぱりおじさん扱い)

ということで、今更ながら「盤珪」をネットで検索してみたところ、
「盤珪の不生禅と王陽明の良知心学」という短い論文を見つけました。

ものすごいショック!(後で意味が分かります)
というのも、私の父は東京大学で中国哲学を教えていたのですが、
王陽明は、その父の大切な研究の一つだったのです。

恐る恐るその論文を読むと、王陽明という人物、そしてその教えに
ものすごく興味を抱きました。
(※個人的にはウィキベディアの説明はいまいち・・・)

そして、アマゾンで検索してみたら、父の翻訳本(伝習録)があったのです。父が亡くなってから、書斎にあった何百冊という本は、お弟子さんたちの手に渡りました。で、この本が実家にあるのかどうかはまったく分かりません。

そもそも私は父の本を読んだことが一度もなく、実は今も読めそうにないのです。それを考えただけで、涙が出てきてしまいます。

それは、父を偲んでいる涙ではなく、私の中にある葛藤の涙。
尊敬したい気持ちと反抗したい気持ち。後悔や怒り。

長い間、父の仕事に興味を示さないことで、支配的な父から自分を守っていたつもりの抵抗。父とは全然違う道を歩んできたつもりの抵抗。そんな抵抗があることさえ忘れていました。

でも、涙が教えてくれたことは、その抵抗はまだ生々しく生きていたのです。私の中にある父を許していない部分。未だに逃げたいと思っている緊張。

でも、今一つ分かっていることは、その抵抗もすべてすでに許されているということ。

そして、私はその許しを温かい飲み物を飲むように味わう日がすぐそこにあることも。

許しとは、自分はダメージを受けることができる存在だという幻想を溶かすエネルギー。(あなたは決して傷つかない)

近い将来、気持ちの良い公園で私は父の本を読むのでしょう♪

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盤珪の教えが、ものすご~くダイレクトパスだと感じた部分をほんの少し翻訳してみました☆
(古文で読んでいる方、私の現代日本語に目をつぶってください)

「あなた方がこちらを向いて私の話を聞いているとき、スズメがチュンチュン鳴く声が背後したとしたら、あなたはそれをカラスだと間違えたりしない。鐘の音を太鼓の音と間違えたり、男性の声を女性の声、大人の声を子どもの声と間違えたりしない。光明な智慧が見事に正しく働き、あなたはただ一つの間違えなしにそれらの違う音を聞き分けることができる。あなたたちのどの一人もあらかじめそれらの音を聞くと決めていたからその音を聞いたのだ、といえる人はいない。もしそうだとしたら、正しいことは言えないだろう。

あなたがたみな、こちらを向いて私の話に熱心に耳を傾けている。そのときあなたの頭の中には背後で聞こえるかもしれない音についての思いなどひとつもない。しかし、音を聞いたとき、聞こうとしなくても、あなたは音の違いを聞き分けられる。なぜなら、あなたは不生の仏心で聞いているからだ。」

※不生の仏心=気づきの意識、純粋意識、本質、etc
※すべては自動的に起きていて、聞いているのはあなたではなくて、聞くが起きて、理解が起きていている。

無知の知~何も分からない世界へ♪

以前、私は長い間スピリチュアルな夢を見てきたと書きました。
スピリチュアル・レッスンという本まで出版しましたし。
私の魂を成長させる旅を生きること、これこそが真実だという夢です。

でも、一瞥体験をしたときスピリチュアルなストーリーからも目覚め、
魂はもちろん、次元、波動、二極を超える、現実の創造、自由意志・・・
ぜんぶ何も起きていなかったと知りました。

自分を支えていたものの崩壊であったと同時に、私が何かするという話し
ではなかったことに大きな安堵もありました。

だから大切じゃないとか意味がないと言いたいのではありません。
そういう解釈の問題ではなく、単に見たままの話です。

ときどき、ノンデュアリティが見事にスピリチュアルストーリーの中に
組み込まれているのをみかけます。

でも、ノンデュアリティが指し示しているのは、それらで語られるものではなく、
それ以前のものですね。

椅子を見て椅子だとただ信じていれば、それはストーリーですね。
椅子はたんにレッテルであって、椅子というレッテルを取り去った
ときに始めてありのままが見えます。

二極も思考がレッテルを貼っているだけ。
熱いと冷たいの境は誰がどんなふうに決めるのでしょうか?
ぜんぶ思考の判断です。
解釈をやめたとたんすでにここが二極を超えた場所。

右とか左、上とか下、これらもすべて思考の判断ですね。
上下左右の解釈はあなた(体)がいる場所によって常に変化します。
自我は常にそうやって世界を把握しているものです。

でも、ノンデュアリティが示しているものは、レッテルが貼られる以前の
いまここにあるすべてです。

思考が介入してきて、上だ、下だ、次元だ、二極だと解釈をし始める前のありのまま。

あなたは(もしあなたがいるなら)何か現実を創造したかもしれません。
でももし、思考が起きたことに何も解釈をしなかったら?
“私は~~を現実化した”と言わなければ、そこには何が起こっているのでしょう?

この壮大なストーリーの中に誰もいないのであれば(no one is out there by ACIM)、
一体誰が自由意志を行使するのでしょう?

スピリチュアルなストーリーの中で“あなたは愛である”、“私たちは一つである”

というのと、

ノンデュアリティが指し示す、“あなたは愛である”と“ワンネス”が違うものを
指しているのに気づいているでしょうか?

ノンデュアリティが “あなた”というとき、あなたは不在であって、主体と客体もなく
本当の意味では、気づきの意識が気づきの意識に話しかけている。
(言葉の限界すぎてあきらめました・・・。)

そして、“私たちは一つである”= We are all oneではなくて、ただ一つ。Just one。
私たちの不在。

自我は、どうしても自分がいることが前提となって、世界やしくみを把握しようとするかもしれません。

また、解釈することがあまりに当たり前すぎて、自分が解釈をしているということも忘れていることもあるでしょう。

ある意味、自我=ストーリーですから。

もちろん、私自身セラピストで、癒しというストーリーに魅了され、そしてまたあゆかの魂の旅という壮大なストーリーもやっぱり愛おしい。

あゆかの中は空っぽだけどとてもユニークで、あゆか特有の恐れや不安、喜びや優しさなどが一つの人間性を生み出し、そして生かされていく。

一人一人のユニークな現われそのものが奇跡的なストーリー。

でも、ストーリーを本質だと勘違いすると、結局ストーリーしか知らないことになるでしょう。

決して変化することなく、常にいまここにあって、静けさよりも静かで、徹底的な受容である本質。ストーリーに全く影響されない場所(←場所じゃないけど)。

まずは、解釈や判断、レッテルをすべて剥がしたところをベースにしてみませんか?

つまり、何も分からない状態になるんです。上下左右も。

何も分からなくなって、でも確実にあるものを見つめていく。

あなたは、自分がいることを解釈しないと確認できないのでしょうか?

それともそれは自明のことでしょうか?

では、その自明であるもののなかに誰かいるでしょうか?

そして、それらはすべて変化しているものばかりでしょうか?

それとも、その中で唯一変化しないもの、捉えられないものはありますか?

・・・・・・・・・・・・・・・

そしてただそこにあってみる。

真実が顔を出してくるまで♪

 

普通が普通になったとき♪

目覚める前と後の違いについての質問をそれなりに聞かれます。

この質問自体がなにか悟りや非二元の特別性やメリットを期待しているようで
実は答えるのが非常に難しく感じられるんです。

とりあえず私の場合、そんなにはっきりビフォー・アフターはありません。
(徐々に目覚めたタイプですし、目覚めたのかどうかも?・・・・)

また、真実が分かった!なんてこともとても言えません。
前よりもっと何も分からなくなったかもしれないぐらいです。

ただ、「私は何か?」は疑いようもなくはっきりしています。

すると自己の不在も時空の幻想もすべて何もしなくても自明となってきますね。

そして、普通のことがとっても普通になって、それがまさしく家に帰った感じ。

普通にすべてがあるという存在の香り。

普通に台所で水洗いして、包丁の音がして・・・・。

でも、どこかこそばゆい嬉しさがあり・・・・。

一つ一つがごく普通で、そして完結している。

机に乱雑に置いてあるもの、
風の音
壁に映る影
自分の吐息

ぜんぶがあまりに当たり前で、それ以上でも以下でもなく
完璧なままに起こりつづけている。

自我は形や時間にこだわるので、完璧という言葉に敏感に反応するでしょう。

えっ、この病気が完璧ということ?
このお金がない状態が完璧?
私の苦しみも完璧なの?
戦争は、飢えは、世の中の不正は?

ここでいう完結も完璧とは内容を指しているのではなく、そこに何一つ過不足がないということ。

風の音はほんとうはもっと大きいはずだとか、戦争はもっと早く終わるはずだとか何もなくて、
飛行機が空を飛んで、その音の長さも大きさもそれはそれで完結していて完璧。

すべてが徹底的に普通で、あれこれ言っているのは思考だけ。

「(個)の私がいる」という思いから、私たちはものすごく濃い投影のストーリーにはまっていき、
その目が見る普通は、実は解釈だらけの曇った普通。

自己否定のストーリーを私たちは意識上でも意識下でも、あらゆるレベルで信じている。

だから目に映っているのは、投影のストーリーであって、それそのものではまったくなくて、
ありのままという言葉でさえ、投影まみれで解釈される。

でも、ストーリーが落ちれば、すべては優しくて、なつかしく、過不足はどこにもない。

そしてそれがあなた♪ (*^_^*)

皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします♪

 

PS:自己否定は、あなたを分離した個として存続させる一番のストーリー♪