自我はものごとを対立させて考えることがとても好きなものです。
この世とあの世、物質世界と精神世界というように。でも、対立させて分けている限りぜんぶストーリーです。壮大なストーリーで、個人的には好きですけど。
ですが、たぶん同じ発想で「非二元VS二元」ということが語られているようです。
で、このブログの読者さんには耳タコ状態かもしれませんが、とりあえず原点に返ると、非二元とは「アドヴァイタ(advaita = not two)、二つではない 」を日本語にした言葉で「二つに非ず」という意味です。
「二つに非ず」のはずが、また見事に二つに分けられている・・・。
しかし、本来非二元はそんな対立思考に終止符を打つものなんです。
で、その二つとは、
空と色の二つではない。(空即是色、色即是空)
観る者と観られるものの二つではない。
ですね。
例えば、多くの人が“音楽を聴いているのは私”、“ラーメンを食べながら、おいしい~と言っているのは私”、“一人で部屋で世の中から取り残されたような気持になっているのは私”とあらゆる経験の「主」は、個の分離した自分だと思っているでしょう。
でも、非二元の「私はいない」というメッセージは、そういう私はいないということなんです。
“テレビを観ている私”も“ラーメンを食べながら、おいしい~と言っている私”も、“一人で部屋で世の中から取り残されたような気持になっている私”もいないということです。
そうではなく、今ここで、まさにここで、ただ“聞く”が起きていて、“食べる”が起きていて、おいし~いという“思いや感情”、そして、取り残されている~という思いや感情が起きていて・・・、すべて主体なしに起きているんです。
そして、それらに気づいているのは純粋意識で、個人のあなたの意識ではないんです。
これを個の自分の意識だと思っているのが、人類の錯覚です。
そして、それが以前にもご紹介したマイスター・エックハルトの言葉、
「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。」
The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.
ですね。(この言葉大好きすぎて、何度でもご紹介してしまう。うふふ♪)
ですから、このブログの文字を追っている目は、神の目であって、あなた個人の目ではないんです。(念のため、物理的な目ではなく意識という意味)
見るが起きていて、目が動いて、理解が起きて、考えが起きているんです。あなたの中は空っぽです。(そして、現象で満ちている)
見事な経験のダンスが起きているんです。
さて、あなたの目が神の目といっても、分離していると錯覚している自我が「自分は神なのだ」と思ってしまったら、それは大悲劇です。
もちろん、そういうことではありません。
なので、主体がいないこと、空っぽであることを認識することは大切だなぁと思うのです。自我が勘違いしないためにも。
そういう意味で、一つの体に一つの意識がくっついていて、その意識がシフトすれば、「空」が分かる!とかそういうものでもまったくありません。
これは大勢の人がはまっている悟りストーリーかもしれません。
または、一つの体に一つの意識がくっついていて、その意識の波動を高め、高次のワンネスと統合するというスピリチュアルストーリーでもありません。
私も一瞥体験をするまでガッツリこれにはまっていました。
でも、渦巻き(現象=色)が自分が無限の水(空)だと知るために必要なことはなんでしょうか? 水の世界を想定して、そこへ到達すること? 水の状態にシフトして、その状態をキープすること? または渦巻きの波動を高めて、ワンネスの水に融合すること?
それとも、たった今自分を見つめ、そして自分の本質は水であることを疑いようがなく、しっかり認識すること?
水と渦巻きが分けられないように、現象と気づいている意識も決して分けられない。二つに非ず。
そこで主体も客体の幻想も終わり、分離の幻想も消える。
そして、渦巻きである“私”は水に完全に降伏し、ずっと見過ごしてきた足元の平和を知る♪
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