月別アーカイブ: 2016年3月

ただ深く知るだけ♪

自我は物や状態を追っていくのが好き。
そしてそのために何かをしないといけないと信じているだろう。

例えば、

幸せになりたいとは、幸せな状態でいること
ポジティブになりたいとは、ポジティブな状態でいること
自分の波動を高めたいとは、高い波動の状態でいること
悟りたいとは、空の状態でいること
今ここにありたいとは、今ここにいる状態でいること。

でも、状態には必ず始まりと終わりがあり、そして状態は変化して消えていくもの。

だから状態を目指している限り、それが「悟り」や「空」であっても自我の夢の中。

そうではなく、

すべてが空っぽだと分かること
今ここしかないことが分かること
幸せと降参は同義語だと分かること

真の理解は決して去ることもなく、維持する必要もなく、
それは自明の理解。

すべての質問が消える理解。
すべての執着や努力が自然に終わる理解。

物質だと思っていたもの、実体としてリアルだったもの、
それらに重みがなくなる理解。

見渡す限り空っぽで満ち満ちている。

真の理解を通して世界を見ること。

ただそれだけ。

あなたはどんな状態にもならなければ、
賢くなるわけでも、すべてが分かるわけでもないだろう。

反対に自分は常に未知の世界にいたことを知る。
そして、自分がその未知の世界そのものであることも。

もはや分離を見ることは不可能で、
驚くことに自分はあらゆるすべてを愛していたことを知る。

だから、何か状態を目指すことを辞めて、
今ここにあるすべてをただ感じてみませんか?

生命のエネルギーがただただ動き、変化しているいまここを。

あなたが何一つしなくても、次から次へと思考は起き、感情は湧いて、あらゆることが起き続けている今ここの生命のエネルギー

それをただ知るだけ。深く知るだけ。

 

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二つに非ず♪

自我はものごとを対立させて考えることがとても好きなものです。

この世とあの世、物質世界と精神世界というように。でも、対立させて分けている限りぜんぶストーリーです。壮大なストーリーで、個人的には好きですけど。

ですが、たぶん同じ発想で「非二元VS二元」ということが語られているようです。

で、このブログの読者さんには耳タコ状態かもしれませんが、とりあえず原点に返ると、非二元とは「アドヴァイタ(advaita = not two)、二つではない 」を日本語にした言葉で「二つに非ず」という意味です。

「二つに非ず」のはずが、また見事に二つに分けられている・・・。

しかし、本来非二元はそんな対立思考に終止符を打つものなんです。

で、その二つとは、

空と色の二つではない。(空即是色、色即是空)
観る者と観られるものの二つではない。

ですね。

例えば、多くの人が“音楽を聴いているのは私”、“ラーメンを食べながら、おいしい~と言っているのは私”、“一人で部屋で世の中から取り残されたような気持になっているのは私”とあらゆる経験の「主」は、個の分離した自分だと思っているでしょう。

でも、非二元の「私はいない」というメッセージは、そういう私はいないということなんです。

“テレビを観ている私”も“ラーメンを食べながら、おいしい~と言っている私”も、“一人で部屋で世の中から取り残されたような気持になっている私”もいないということです。

そうではなく、今ここで、まさにここで、ただ“聞く”が起きていて、“食べる”が起きていて、おいし~いという“思いや感情”、そして、取り残されている~という思いや感情が起きていて・・・、すべて主体なしに起きているんです。

そして、それらに気づいているのは純粋意識で、個人のあなたの意識ではないんです。

これを個の自分の意識だと思っているのが、人類の錯覚です。

そして、それが以前にもご紹介したマイスター・エックハルトの言葉、

「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。」
The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.

ですね。(この言葉大好きすぎて、何度でもご紹介してしまう。うふふ♪)

ですから、このブログの文字を追っている目は、神の目であって、あなた個人の目ではないんです。(念のため、物理的な目ではなく意識という意味)

見るが起きていて、目が動いて、理解が起きて、考えが起きているんです。あなたの中は空っぽです。(そして、現象で満ちている)

見事な経験のダンスが起きているんです。

さて、あなたの目が神の目といっても、分離していると錯覚している自我が「自分は神なのだ」と思ってしまったら、それは大悲劇です。

もちろん、そういうことではありません。

なので、主体がいないこと、空っぽであることを認識することは大切だなぁと思うのです。自我が勘違いしないためにも。

そういう意味で、一つの体に一つの意識がくっついていて、その意識がシフトすれば、「空」が分かる!とかそういうものでもまったくありません。

これは大勢の人がはまっている悟りストーリーかもしれません。

または、一つの体に一つの意識がくっついていて、その意識の波動を高め、高次のワンネスと統合するというスピリチュアルストーリーでもありません。

私も一瞥体験をするまでガッツリこれにはまっていました。

でも、渦巻き(現象=色)が自分が無限の水(空)だと知るために必要なことはなんでしょうか? 水の世界を想定して、そこへ到達すること? 水の状態にシフトして、その状態をキープすること? または渦巻きの波動を高めて、ワンネスの水に融合すること?

それとも、たった今自分を見つめ、そして自分の本質は水であることを疑いようがなく、しっかり認識すること?

水と渦巻きが分けられないように、現象と気づいている意識も決して分けられない。二つに非ず。

そこで主体も客体の幻想も終わり、分離の幻想も消える。

そして、渦巻きである“私”は水に完全に降伏し、ずっと見過ごしてきた足元の平和を知る♪

 

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死んだら意識はどうなるの?

さて、死んだら意識はどうなるの?
もし、気づきの意識しかないなら、隣の人の考えがどうして分からないの?

といったご質問をよ~く頂きます。しごく最もなご質問かと思います。私もそんな疑問を抱いていました。

ですが、たいていの質問がそうであるように、これらの質問も「個の私の視点」がベースになっているんです。肉体の自分が自分であるというか。で、その視点でいる限り、この謎は見えてこないでしょう。

ということでまず、「私がいない」というメッセージをがっつり見てみませんか?

体、思い、感情はあるけど、私はいないんです。

それなりに多くの人の勘違いは、個という感覚がなくなるまでそれは分からないと思っていることでしょう。でもそんなことはなく、ちゃんと経験を見ていけば良いだけです。(=ダイレクトパス)

体はありますよね? 思いも感情、感覚もありますね? では、その所有者はどこにいるでしょうか?

よ~く見つけ出してみてください。こんなに「私がいる」感じがあるのですから、どこかに体や思いや感情のように掴める「わたし」がいるはずです。

じっくり探してみませんか?

さて、ときどき、「思い、感情、感覚、体」の総称、集まりが「わたし」なのでは?という人もいます。確かに一般的にそれを自我と呼んでいます。

でもその場合、例えばある土地を「東京」と呼んでいるのと同じですね。実際にあるのは土地だけです。または「会社」も、実際にあるのは建物や人であって、会社があるわけではないです。

ので、総称である「私」も「東京」や「会社」と同じように単にレッテルです。もちろん、レッテルは便利ですが、実体ではありません。

じゃぁ、話を戻して、それらの所有者はどこにいるのでしょうか?

私の体、私の思い、私の感情、私の意識・・・・・

その所有者は?

そう、どうしても見つからないはずです。

ということは、私の思いがあるのではなく、思いがあるだけ、私の感情があるのではなく、感情があるだけ、私の体があるのではなく、体があるだけ。

そして、“私の”気づいている意識ではなく、気づいている意識があるだけですね。

では、体、思い、感情(感覚)、気づいている意識のなかで、唯一つかめなくて、変化しないものはどれでしょう?

もう答えは知っていると思わずに、
また頭で考えずに自分の経験を探索してみてください。
これが体験的な理解に結びつくんです。

ここがしっかり体験的に認知されたとき、あらゆる質問が消えていくはずです。

私がいないのに「見る」が起きている
私がいないのに「聞く」が起きている
私がいないのに「感じる」が起きている

経験の所有者なく、あるのは「気づいている意識」だけ。

そこに見る、聞く、感じるというすべての経験、そして見る対象、聞く対象、あらゆることが現れて、そして去っていく。

でも、気づいている意識は変化せず、去っても行かない。

そして、あなたは認識するんです。体が去っても「気づいている意識」であるあなたは決して去らないことを。時間なき「いま」にただあることを。理解するのではなく、深いところから分かるんです。(生まれもしなければ、死にもしない)

そしてまた、認識するんです。自分は「気づいている意識」という全体(空)でありながら、同時に「個」(色)であることも。全体と個という二つがあるのではなく、この対極がなんの矛盾もないことに。

空であって色であって、不変であって変化であって、全体であって個であって、気づいている意識であって、気づかれているものであって、それらは決して分けることができない、(二つではない=ノン・デュアリティ)

その摩訶不思議な「それ」があなたであることを。
 

☆☆☆☆

PS:私自身は、臨死体験をしたことがありますので、死んだら「魂の世界」へ行くというスピリチュアルストーリーを個人的には信じています。ですが、これも計り知れない壮大な“ストーリー”ですね。愛し、尊ぶべきストーリーです♪