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すべてはすでに決まっているの?

すべてはすでに決まっているの?

しばしば聞かれるご質問です。

例えば、今自分が難病で苦しんでいたら、この苦しみは仕方がないことなのか? すでに決まっていてどうにもできないことなのか?と思うかもしれません。

ですが、非二元が指しているのは、この問いを超えた先なんですね。

すべてはすでに決まっているの?という質問は、どうしても時間と空間の意味合いが含まれてしまうでしょう。

ある意味運命論的で、あらゆることがすべて“すでに”決められていて、だから私の未来も決まっている・・・・みたいな。

また、誰がすでに決めているのか? それはなんとく神、純粋意識、宇宙意識などとなるのでしょうか?

いずれにしても、時間を想定している時点で、「空」の観点は切り捨てら、100%現象という「色」の話だけを語っているものでしょう。

また、この質問で一番知りたいことは、おそらく“私の人生はどうなのだろうか?”、“私のやることに意味があるのか?”ということですね。

今日の夕ご飯に私が何を食べるのかも決まっているの? それじゃぁ、いろいろ献立を考えても意味ないの?みたいな。

しかし、個の自分を中心に世界を見たり、考えたりしても、自我ワールドを超えたものは見えてこないでしょう。というのも、自我はどうしても現象にしか目がいかないからです。

現象の中では、現象を生み出し、維持していく様々な法則があるに違いありません。でなければ、いつ月が地球に向かって落ちてくるか分かりませんよね。(あり得なさすぎる例でごめんなさい)

ですが、現象の世界の法則がいくら解明されたところで、「空」の観点から見れば、それはどれも「色」というストーリーの世界です。

見る者(主体)と見られるもの(客体)は二つではないという、ノンデュアリティの言葉に立ち返ってみれば、それはイコール時間も空間もないということで、ここに時空前提のあらゆる法則が消えてしまいます。

でも一方で、主体と客体という分離の幻想が生み出す時空の現象を否定することもできません。

つまり、空と色が同時にあって、それは一つとも言えなければ、二つとも言えない。一番近いところで「二つではない=非二元」

そして、それが私たちの本質。法則があり、法則がないところ。

変化そのものなのに常にそこにいて、

時間をともなって起きるあらゆる事象であると同時に

時間のない常に静かで平和と受容の意識でもあります。

空の上にヘリコプターの音が聞こえてきたら、

それを聞いている客体としての(個の)あなたという経験者はいなくて、あるのはヘリコプターの音とそれに気づいている意識(=聞くという経験)だけ。

そして、ヘリコプターの音はそのまま「気づいている意識」であって、それらは決して分けることができません。

ヘリコプターの音を生み出す「気づいている意識」は、同時に一瞬の時間差もなく音そのものでもあるんです。

だからあなたは、ヘリコプターの音でもあって、「気づいている意識」でもあり、そこに一瞬一寸たりとも時間も空間も存在しませんね。

すでに~とか、誰が~とか、そういった言葉は当てはまらないでしょう。

すべてを決めるものと出来事がどうしても分けられないとき、私たちがせいぜい言えることは、“分からない”です。

でも、その“分からない”は、自我が不安や混乱を抱いてつぶやいているのではなく、生命に身を捧げた(サレンダー)信頼とピュアな信仰心♪

信仰心とは、神など何か対象への信仰心ではなく、“分からない”ということがはっきり見えたとき、存在のすべてに対して勝手に起きてくる信じる心。

個としての自分が、全体である自分へ持つやすらぎとなつかしさ、そして安堵感。

私はどうなるの? 私の人生はどうなるの? 

それらの思いも「気づいている意識」によって受け入れられ、それはまた「「気づいている意識」そのもの。

そこは、“私は?”という視線を超えた地平線。

そしてその地平線があなた♪

 

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悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

どうしても残ってしまう誤解とは、例えば、

悟ったら、出来事や記憶やあらゆることに囚われなくなる
悟ったら、苦しい状態から抜け出せる
悟ったら、思考をコントロールできるようになる
悟ったら、すべてが明晰になる
悟ったら、ありのままに常にいられる
悟ったら、いまここにいつもいる

これはぜんぶ今と違う状態になるというお話ですね。私もこの幻想(妄想?)に長い間、深くはまっていました。

ティーチャーたちにどれだけ違うと言われても、そして、頭ではわかったと思っていたけど、それでもはまっていました。

自我にとってこの「求める」という行為は、ほんと根深いなぁと思うのです。求めて、得て、そして良い状態になる。決して悪いことではありませんが、それしか知らないというのがたまにキズです。

そのため、ノンデュアリティのメッセージは“りんごは赤いです”みたいなレベルの話であるにもかかわらず、自我改善活動のツールとして解釈されてしまうこともしばしば。

また、自分がどれだけ真実に近づいたのかを、例えば、どれだけものごとに囚われているか、囚われていないかといった「自分の状態」によって図られたり。

自分の状態が基準であったり、自分が楽になることが目的であると、どうしても自我目線のままになってしまうでしょう。

で、自我目線のままメッセージを聞いても、誤解したり、意味が分からなかったり、“結局、二元で生きている自分で良いのさ”とちょっとやさぐれた気持ちになってしまうかもしれません。

もし誰かが“りんごは赤いです。バナナは黄色です。”と言って、それを確かめたければ、一番良いのは、おそらく実際に自分で「見る」ことでしょう。

そのとき、りんごについての本を事前にたくさん読んだり、または、りんごの定義について理解しておく必要もないですよね。

ただシンプルに「見る」ことで、明白に理解されるはず。

同じように、もし「私はいない」というメッセージを聞いたら、本当に「私」という主体がいないのかどうか、たった今、見てみれば良いですね。

私の体、私の思い、私の感情と当たり前のように言うけれど、「私」というそれらの所有者がほんとうにいるのかどうか? それとも、体と思いと感情があるだけなのか? 考えに行かないで見ること。

もちろん、見るのはこれだけではありませんね。なるほど「私」は見つけられないけど、どうしても「(個)の私」がいるように感じる、だからやっぱり「私はいる」ようにしか思えない・・・。

そうであれば、それもまた見てみる。どのへんに自分がいる感じがするの? 顔のあたり?胸のあたり?(体の中は内臓だけしかないし)

では、そこにほんとうに「私」はいるの? それとも最後まで感覚があるだけ?

自我が絶え間なく、“ということは・・・”、“ということは・・・”と、考えてつかもうとするかもしれません。

その誘惑を静かに横に置いて、ただ見る。徹底的に。

そしてどうしても、「私」が見つからなかったら、じゃぁ、一体経験しているのは誰?

それもただ見てみる。

この「見る」ということは、あまりにシンプルなため、求める行為も必要でなければ、何かに到達するというストーリーにもはまりようがありません。

この自我活動が最もないところで見えてくるもの、純粋意識、気づいている意識としての私、それが忙しい自我活動の中でいつも見過ごしていた真実への入り口になるはずです。

やがて真実が腑に落ちて、自分がそれそのものだと分かっても、自分の状態を良くしたいという衝動、自分をすごく気にするという思い、今に抵抗しようとする動き、未消化の蓄積された感情の爆発、さまざまな自我の動きがあるでしょう。

でも、それら一つ一つ、純粋意識によって理解され、あることが許され、そして“あゆかという私”の働きとして捉えられるのです。

あゆかがそれらを捉えているのではなく、受容という本質がそれを捉えている。

だから、“まだ囚われてしまうんです”という思いもなく、すべてはあって良いし、起きていることに抵抗もなく、ただ自然な流れがあるだけ♪

PS:同時に自我解体、自分を見つめて癒しを進めることもおススメ~☆