月別アーカイブ: 2015年5月

非二元的に過去生はあるの?

暑くなりましたね。今回もご質問にお返事させてください♪

自己がいない、というのはなんとなくですが、きっとそうなんだろうな、と思っています。そう思っていて、過去生のトラウマと聞くと、ちょっと不思議な気がします。実際にはいない自己に、そして、過去は今あるイメージだけでしかないのに、過去生というものは、あるのでしょうか。言葉で説明してもらってわかることではないのかも知れませんが、よろしければ教えて頂けますでしょうか。

これもある意味、思考が思考を呼んでいるご質問ですね。

ちなみにこのご質問は、こちらの記事→★で癒しについて触れたとき、過去生の話がでてきました。それに関するご質問です。

さて、「自己がいない」のイメージが少し違うかもしれませんね。体や思い、感情、性格、ストーリーなどなどはあるけど、それらの持ち主がいないということです。主体が不在なんです。

車(体)はあるけど、運転手(主体)がいないということですね。

なので、自己はないけど「ストーリーはある」になります。

ですが、それも半分の真実です。

究極的にお返事をしてしまうと、あらゆる事象が“今”という無限のなかで起きていて、そして何も起きていないんです。

過去生だけではなく、現在の“わたしの人生”もです。

現れては去っていくものは、すべて「あったけど、ない」んです。思考は「あるかない」のどちらかに答えを求めよね。ですが、残念ながら思考にとっては、はぐらかされるようなお返事しかできないんです。

ただ、気づきの意識(純粋意識、真の私、など)に充分に寄り添うことができれば、それは明白になっていくはずです。

で、正確なたとえではありませんが、煙の動きをイメージして頂くと、煙は一瞬、一瞬その形を変えていきますよね。ある一瞬は竜が天に上るような形をし、でも同時に変化し、次には横に広がったような形になったり・・・・。

では、一瞬竜が天に上るような形は起きたのでしょうか? 形ができ上がると同時に変化しているのに? でも、確かに一瞬そう見えたからある?

もう一度念を押しておくと、これは正確なたとえではありません。言葉の限界すぎ。

でも、事象はすべて常に変化し、このように「あるとない」の両方を包括しながら生命のダンスを踊っているんです。

癒しの点からすると、これはある意味究極の救いです。なぜなら、この「あるけどない」が差し示すことは、実体として傷ついた人は存在せず、また何事も失われていないからです。

真のあなたは、生まれてもいないし、だから死ぬこともなく、増えたり、減ったりすることもないんです。

それを知りつつ、個人のトラウマ、過去生などを癒す仕事を楽しんでいます♪ ふふ。(*^_^*)

 

 

探求そのものが障害になるの?

真実への探求は障害になるのか?という、ご質問を頂きました。
ご質問をありがとうございます!

“探求、模索こそが障害、と言い切るティーチャーが多いですが、何もしないで解放に至るとは正直思えません。それについてもどう思われますか?”

確かにこういうメッセージよく聞かれますね。

で、どのメッセージもそうですが、そのメッセージのポイントを理解しないで、言葉だけ受け取ってしまうと誤解をしてしまうでしょう。

とりあえず、探求、模索がなぜ障害になるのかを見てみましょう。

ではまず、自分が探求、模索をしているときに何を探しているのか、をちょっと見つめてみてみませんか?

探求や模索は、ほとんどの自我にとって、「今と違った状態」への探求であったり、今分かっていないけど、いつか到達することへの求めだったりするはずです。

二元を超えた状態、時間がない空間に至る、自分の感覚がない状態、または単純に、ずっとポジティブな感覚でいること、などなど。

でも、今自分は二元の状態にいる、時間がある世界にいる、自分っていう感じがバリバリにある、ネガティブな感覚に支配されている・・・、だからなにかをしてその状態や世界に到達するのだ・・・と。

または、例えば瞑想をしようとしたとき、よく自分の思いを見つめてみれば、ほとんどの場合「なにか今より良い状態」や「何かが起きること」を求めているはずです。

つまり多くの場合、「いまここ」にないから求める、ということが前提になっているんです。「いまここ」を離れてしまうんです。

また、一番やっかいなのは、体験から探求するのではなく、思考で探求をしてしまうことです。

“もし、自己が存在しないなら、ではどうして~~~”
“もし、時間がないのなら、なぜ~~~?”

または、頭で聞いた話を一生懸命まとめ、これはこうだとカテゴリー化して、自分が理解できるかたちに持って行こうと頑張っていたり。

確かに今挙げてきたこれらの探求は、すべて障害にしかなりません。なぜなら、無意識に「違う状態になるわたし」や「思考が満足すること」を求めてしまっているため、自我が強化されてしまうんです。

でも、真実へとシフトするために、私はやれることはあると思っています。

探求こそが障害と言い切るティーチャーは、あるとき突然シフトが起き、そのまま自我意識が戻らない人が多いのかもしれません。

イギリスでは、トニー・パーソンズ、リチャード・シルベスター、ネイサン・ギルなどなどの方は、そんなタイプです。

ネイサン・ギルのミーティングでは、自分でミーティングを開いているにもかかわらず、“こんなところに来ても無駄、何やっても無駄”と、連発していました。

一方、アジャシャンティやルパート・スパイラなどは、シフトへのプロセスや一瞥体験後のプロセスを導いてくれます。それは、一見自我が何かをして到達できるかのように聞こえるかもしれません。

でも、彼らのメッセージやガイダンスをよく聞いていると、徹底的に「いまここ」に立ち止まることによって、はじめて見えてくることばかりなのです。

結局、大切なのは自分が探求しているとき、それは「ここにない状態」を探しているのか、または、ここにあるもの(経験)をよく見ていくことによって、探求をしているのか? これが大きなカギになると思います。

なぜなら、いまここにすべてがあり、これ以上ないからです。

このテーマでは、まだ書きたいことがありますが、今日はこのへんで♪

 

言葉の本質は空っぽ♪

般若心経にある「五蘊皆空」。

「わたし」=自我を構成する五つの要素、体、感情、知覚、思考、意識はすべて空っぽだよ~
と言っていますね。

つまり、「わたし」は空っぽなんです。

でも、間違えないでください。わたしがいて、そのわたしが空っぽという意味ではなく、
空っぽ=ない、つまり、「わたしはいない」ということです。

でも、私たちは勘違いしているので、いないはずの自分をそれこそ必死で守ろうとします。

身体面はもちろんですが、精神面でも傷つかないように、悪く批判されないように無意識に頑張っているでしょう。

でも、実際はまさに「五蘊皆空」であって、守る自分もいないけど、それだけではなく相手の言葉も空っぽなんです。相手の言葉がどんなんであれ、なんの意味もなければ、真実もそこにはなく、音のコンビネーションがあるだけです。

つまり、本当はそこに私たちを傷つけたり、おとしめたりするものは何もないということです。

ですが、たとえば「あなたは卑怯だ」と言われたとした場合。

基本的に自我としては、イエスかノーでなければいけません。つまり、「私は卑怯である」か、「私は卑怯ではない」という答えしかないですね。

で、自分が卑怯なら卑怯な自分をどうにかしないといけないし、卑怯でないのなら、反論したり、誤解を解いたりしないといけません。苦しみのストーリーの始まりです。

でも、「卑怯」という言葉の実体は空っぽだから、イエスもノーもいらないんです。

そして、受け止めてもらえない言葉は、力を持つことができません。

もちろん、卑怯だと言われたら腹は立つでしょう。自我が望むような、一切腹が立たなくなる日は来ないですから。

でも、その言葉はもはや脅威にならず、そこから実体のないストーリーへ深く入り込まずに済むんです。

決して、批判に対して“イエスやノーを言ってはいけない”とか、“相手の言葉を空っぽだと思うようにする・・・”みたいな努力を薦めているわけではありません。(自我はやりがち)

というより、ただシンプルに、でも真摯に言葉の「本質」を見てみませんか?

言葉から自分の解釈や文字を取ってしまったら、そこに何があるのか?

とりあえず、「赤いりんご」から。(または、なんでも)

透明な本質のエネルギーが見えてくるまで。(*^_^*)

  

今日も東京は良いお天気ですね。良い一日をお過ごしください♪

ご質問を頂きました♪

今回はご質問にお返事させてください。コメントをありがとうございます♪

「私」がいなくて、経験は誰のものでもないのなら、なぜ私の経験は他人に分からず、他人の経験も私には分からないのですか?覚醒しても、また気づきに境はない、全てにあるといっても、その人の経験しか経験出来ないのですよね。覚醒後もひとつの意識が分離したものしか経験しないのでしょうか。

“「私」がいなくて、経験は誰のものでもないのなら”という表現から、確信のない頭レベルの理解をもとにさらに考えてしまっているかもしれませんね。

聞いた話、読んだ話、知った話をつなげて理解しようとしているというか。間違っていたらごめんなさい。でも、これをしている人がほんと~~に、ほんと~~に多いのです。(2回言ってしまった)

大切なことは、「私がいない」「経験は誰のものでもない」ということをまず、それらが真実なのかどうか、自分の直接体験を通して見抜いていくことかなと思います。

また、誰かのものなら区切りがあって、誰のものでもないなら区切りがない・・・という思考、そして誰かが何かを経験するという二元的な考え(なぜ私=主体は、他の人の考え=客体が分からないのでしょう?)がベースになっているのかもしれませんね。

でもポイントは、そういうことではないんです。

誰のものというような所有的な発想をまず横において、ポイントは、「経験している主体はいない」、そして、「経験者と経験は二つではない」ということなんです。

通常、私たちはたとえば、「私が痛みを感じている」というように捉えていますよね。でも、これが錯覚ですよ~というのがポイントなんです。

体験を直によ~く見つめていくと、私という主体はどこを探しても見つからず、そこにあるのは、痛み、経験(この場合、感じる経験)のみです。そしてそれをよく見ていくと、痛みと経験は、二つではないのです。

そして、私は痛みでもあり、経験そのものでもあり、そしてそのどれでもないんです。

ちなみに「私が痛みを感じている」という文章から、主体(主語ではなく)を取ってしまったら、どんな文章になりますか?

「痛みがある」、「感じるという経験がある」終わり、です。

誰の、とか、誰が、というのは思考が言っていることです。

ということで、さぁ、幻想の溝口あゆかは、肩が凝っているので、明日マッサージにでも行こうかな♪