月別アーカイブ: 2018年9月

自由意志はあるの?

久しぶりにある人に7年前の一瞥体験の話をしました。

突然カフェの帰り道で意識がシフトしたとき見えたものは、ものに名前がついていることや起きていることに思考がついてくることが、いかに後付けなのか、ありのままがいかに完全かということ。

今まで何一つ起きていなくて、すべては夢だったということ。ここで私は頑張らなくて良いんだ~と、大きな安堵感を感じました。

そして、体は自分のものじゃないどころか、完全に無関係に感じられ、一瞬体の操作の仕方が分からなくなってしまったこと。(でも、体は勝手に動いたけど)

夕方から夜寝るまでそんな状態でしたが、朝起きたらすっかりいつもの自我の意識に戻っていました。

そして、必ず陥る罠にすっぽり。つまり、あのときの状態よ!もう一度! あの時の状態をキープできれば良いのだ!という勘違いです。しばらくそれを目指して瞑想をしてみたり、もがいていました。

ですが、非常に有難いことに、現代ではインターネットのおかげでかつてよりもティーチャーのメッセージを聞くのがたやすいですよね。

ロンドンでもルパート・スパイラ、トニー・パーソンズ、ジェフ・フォスターといった知られたティーチャー?メッセンジャー?のサットサンが定期的に開催されていて、気軽に足が運べます。

彼らに質問することで、その勘違いからあっという間に抜け出せたことは、ほんと感謝しています。

話がすごく逸れた気がします(笑)。

話したかったことは、体が自分だと思っている「思考」が自我だなぁということです。

ということで、ある本を読んでいて、これは良い自我の説明だと思った箇所があり、訳してみました。

自我とは、“個の私”という感覚をアイデンティティとしているエネルギーフィールドであり、常に抵抗として経験されているものである。自己の意志があるという思い込み、つまり神(気づいている意識、純粋意識)から独立して思考したり、行動したりすることができるという考えを持ち続けているものである。

The ego is an energy field identified as the sense of “me”, and is experienced as resistance, which perpetuates the belief in personal volition : the idea that a person can actually think and perform actions independent of God. (from “Be Still And Know I AM GOD”)

ちなみに、ここでの抵抗とは、あるがままへの抵抗を意味しています。今の状態が嫌だ、今の自分から変わりたい、思いが過去や未来へ飛んでいく状態です。

体は最も重くて濃いエネルギーフィールドであって、重くて濃いからこそ、掴めるものにしか意識がいかない自我は、それが自分だと思い込んでしまう。

また思考もかなりのエネルギー量を持ち、なので考え過ぎると私たちはたいてい疲弊してしまいます。また、感情も嬉しくても悲しくてもその度合いが高いと耐えられませんよね。

マイケル・ジャクソンのコンサートではマイケルがほんの少しステージに現れた瞬間から失神者が続出していたそうですが、嬉しすぎても体が抱えきれなくて、シャットダウンしてしまいます。

つまり、体、思考、感情がそれぞれにエネルギー値が非常に重く、存在の実感がとっても強いために、どうしても“個の私”がいるように感じるんです。

しかも、思いや感情も非常にパーソナルで、隣の人は自分が何を考えているか知らないし、他者と自分は分離しているようにしか見えません。

ある意味純粋意識が作り出した、“分離した個の私”というすごい遊戯です。

一見話は飛びますが、私はフォーカシングというツールが大好きです。フォーカシングでは体にある感覚(フェルトセンス)を見つめ、受容し、友達になることが初めの一歩です。

私はこれを年中やっていたのですが、そのとき気づかなかったことは、フェルトセンスを見つめているとき、私はその感覚と同化していないということです。

そして、それがどんなに不快で気持ち悪く、ひどいものでも受容し、友達になるというのは、限りなく気づいている意識の性質ですね。

つまり、知らない間に私の意識は少しづつ気づきの意識に寄り添って行っていたのだなぁと。

ちなみに、エックハルト・トーレの本に深く感銘し、思考を眺めることも年中やっていましたので、思考と感情、感覚との同化から距離が徐々に生まれていたのでしょう。

とはいえ、それをやっていれば目覚めるのか?というと、それはまた別の話ですが、かなり助けにはなると思います。

話を最初に戻すと、体が私だという思いがなければ、自分の意志があるという幻想も消えていくでしょう。自分には自由意志があり、自分が人生をコントロールしなければいけないという錯覚にどれだけ私たちはエネルギーを使い、苦悩していることか。

自由意志は存在しなくても、あゆかの情熱、あゆかの思い、あゆかの意志は現れ続けます。でも、それが個の私によって所有されるものではなく、神(気づいている意識)の意識に明け渡されたものであれば、自分が頑張るという多大なストレスから私たちは解放されることでしょう。

朝起きて、いきなり今日のTO DO LISTに向かわずに、静かになって自分の中にある神(気づいている意識)の衝動を感じてみるのもなかなか良い一日の始まりかもしれません♪

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ開催♪

キャンセル待ち募集中♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6TYFT

幻を生き抜く♪

ときどき忘れてしまうことは、
私はいつも夢を見ているということだ。

この夢はあまりにリアルで、夢を見ているという実感さえまったくない。

自分がいて、人生があって、大切な人がいて、自分だけの思い、情熱、記憶があって、
これが夜寝ているときと同じ夢だとは、とても思えないから。

でも、真実はささやき続ける。

あなたは夢を見ているのだよと。

私の愛する人たちが幻だというのか?
私が人生をかけて作り上げてきたものもすべて幻なのか?

自我の中で悲しみや怒りがこみ上げてくる。

真実はささやく、

あなたの夢は生命の発露そのもの。
形は実体のない幻であっても、生命である気づきの意識は実体そのものだ。

すべての人生、すべての出来事、自分に関わるすべてのこと、あらゆる形が、
この気づいている意識の中を通り過ぎていく。

一分前、一秒前の自分はもうどこにもいない。
今の自分も常に変化する時の流れの中にしかいない。

留まっているものは何一つなく、
気づいている意識だけが、気づいている意識が作り上げる夢を見ている。

夢は流れ続け、気づいている意識は常にそこにある。

私の愛する人たち、私が作り上げた人生、

執着を手放してごらん、
あなたの夢(人生)は、もっと自由に軽くなるだろう。

生命の流れにゆだねてごらん。
そうすれば、すべてが最初から最後まで讃えられていたことに気づくだろう。

自我は目覚めながら、自分の夢を全力で生きていく。

そして、最後に何も起きていなかったと、心から微笑む♪

そこにすべてを愛した、愛だけを残して・・・。

 

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

ノンデュアリティと癒しのカフェ開催♪

【日時】2018年10月13日(土)18時15分~20時30分
【場所】あうるすぽっと(東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/
【参加費】4500円
【申し込みフォーム】
https://www.form-answer.com/applications/6TYFT