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放蕩息子を無条件に抱き寄せる~目覚めの物語~

前からちょっと書いてみたかった、「放蕩息子の帰還」の私風解釈♪ 文調が断定的ですが、お許しください。大学生の頃にこの絵と出会って、いわゆる説教的なオチになると思っていたので、オチがえっ、それ?とすごく新鮮に感じたのを覚えています。

ということで、まずは放蕩息子の帰還のお話をウィキペディアから抜粋。(挿絵はレンブラント)

ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。

そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)

この聖書の話をどう解釈するかは、たぶん読んだ人それぞれでまったく構わないでしょう。ということで、ノンデュアリティの視点から見ても、とっても的を得ているなぁと思うのです。

ここで「父」を「本質、純粋意識、I AM」とし、放蕩息子を自分の本質を忘れて分離のストーリーにすっかりはまっていた自我として見たとき、父が息子を許す理由は、死んでいたのに生き返ったから、つまり、本質をすっかり忘れていたのに思い出したからと読めます。

分離の夢を現実と信じ込み、放蕩にくれる。ここでいう放蕩は、全体というつながりを忘れ、自分の快楽や自分さえ得すれば良いといった、最も分離感が強い自我の活動です。

例えば、社会を見回しても、自国さえ良ければ、我が社さえ良ければ、自分の立場さえ守られたらなどなど、自我的なふるまいや活動はたくさんありますよね。

でもどんなに自分にとって良いと思っていることをしていても、分離に基づいている限り、心の中では愛やつながりを失っていき、心が闇に落ちて行く。つまり、分離を生きすぎて心の飢えが始まる。(放蕩しすぎて飢える)

苦しくてたまらなくなったとき、道端で飢え死にするか、ほんとうは帰る家があったと思いだせるか、ここが大きな分かれ目になります。

なぜなら自我はあまりに自分のストーリーにはまりすぎて、帰る家の存在そのものを覚えていないからです。

でも、幸いなことにこの息子は、帰る家があること、そしてそこには無限の富(創造の源)があることを思い出せました。でも、まだ自分がしたこと、自分の旅は現実だと思い込んでいるため、自分は罪ある人間だと思い込んでいます。

奇跡のコースには、ほんとうは許す必要もないと何度も書かれています。なぜなら、本質を離れた旅は、すべて分離の夢、幻想であって何一つ起きていなかったのだから。

だから、父は息子が口を開く前に走り寄って抱き寄せ、息子が本当の家を思い出してくれたことを祝福したいと願ったのです。

また、「お前はいつも私といる、わたしのものは全部お前のものだ。」も、本質とともにいるものは、いつも本質そのものを享受しているよということですね。

私たちは本質の目覚めるよりも、人生をより良くする、または自分を高めるという方向に惹かれてしまうものです。もちろん、それは悪いことではないですし、そこにある種の愛おしさも感じます。

しかし、もし人生が思うように行かなくて、文字通り夢破れたとき、実は本質回帰を思い出すチャンスなのかもしれません。

このブログを読んでくださっている皆さんは、もうすでに帰る家があること思い出しているのでしょう。でも、ここで気を付けなくてはいけないのは、「本質に帰る私」という夢に陥らないことです。

この夢は普通の夢よりやっかいで目覚めにくく、「私は目覚めた」というもっと深い眠りにも落ちやすいです。

ので、この物語に書いていないことを付け足すと、父と息子は二つではなく、全体である気づきの意識であって、気づきの意識のみが実体である。気づきの意識の眠っていた部分が自分に目覚め、何一つ起きていなかった、壮大な夢幻(リーラ)だと分かる。

だから、自我は存在していなくて、分離した個の私が全体に目覚めるのではないんです。自我の存在自体が夢だと分かるんですね。

なので、あなたの人生を経験しているのもあたなではない。あなたは存在していないけど、実体として、全体としてのあなたは不滅で、いつもここにある♪

 

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