月別アーカイブ: 2016年5月

真実?or 蜃気楼?

“スピリチュアル、ノンデュアリティ、引き寄せ、思考が現実化する、心のしくみ(思いや感情の解放)が、けっこうごっちゃになっている人が多い”というお話を耳にします。

確かにそんな感じあるかも~と思うのです。

私もノンデュアリティと癒しというお話会をやっていますので、もしかするとそれに加担しているのかもしれません。

ですが、自我の目線ではなく、真実の視点から自我の活動を見たとき、なぜ人が苦しむのかがよく見えるという利点はやっぱりあります。

が、とりあえず話を戻して、もしこの中で仲間外れは誰だ!ゲームをすれば、明らかにノンデュアリティはまったく違うものですね。

つまり、「スピリチュアル、引き寄せ、思考が現実化する、心のしくみ」などは、「(個としての)自分がいる」ことが前提にならないと成り立たない話です。

一方、ノンデュアリティは、その「自分」は不在ですよ、空っぽですよ~とお話ししています。

前提がそもそもまったく違います。

それでも私たちが混乱してしまうのは、どうしても「自分がどうなるか?」ということがやっぱり一番大切で、それを大前提にどの話も聞いているからでしょう。

真実が分かれば、不安を感じなくて済むようになる・・・・
悟れば、いつも充実した気持ちでいられる・・・・
ノンデュアリティの状態になれば、いつも愛の状態でいるはずだ
(飢えた気持ちなど沸いてこない)・・・・
空を体現すれば(空の状態にとどまっていれば)、苦しみに終止符を打てる

などなど。

つまり、自分が「ある状態」になることを目指しているんです。

「悟った状態」、こうなっているはず・・というイメージ。

そして、そのイメージと今の自分の状態を比べて、まだ悟りに到達していないとか、前より進んだとか図ったりもするでしょう。

もちろん真実が深く腑に落ちたことで、恐れがどんと落ちるとか、余計な思考が減るといった、「副産物」もあるでしょう。

でも、自我はそもそも常により良い状態を求めているので、真実ではなく、副産物のほうへわ~っと意識が向いてしまうんですね。

すると、ノンデュアリティのメッセージもまたたくまにそれを得るツールとなってしまいます。引き寄せが自分が望むものを得るツールであるのと同じように。

本当の目的が真実ではなく、「愛に満ちた状態」、「苦しみがない状態」、「高次な状態」などである限り、引き寄せでも、スピリチュアルな教えでも、ノンデュアリティのメッセージでも、それが手に入れば良いわけです。

あくまでも「(個の)“わたし”が幸せになる」ことが目的だから。

もちろん、より良い状態を求めることがいけないわけではありません。

苦しいのなら、必ずなにか真実ではないものを握りしめているわけで、それは手放したほうが良いに違いありません。

また、恐れに縛られているより、愛ベースで生きているほうが楽に決まっています。

でも、「状態」を求めている限り、それがいくら正しそうなイメージでも、ある意味「蜃気楼」を追っていることと同じです。(自我は、不変の状態があると幻想を抱いていたりしますが)

最終的に「私がどうなるとか、もうどうでもいい。ただ真実が知りたい」というシンプルな思いになっとき、はじめて「私が・・・」、「私が・・・」という思いが緩み始めるでしょう。

目指す状態もイメージもなく、ノンデュアリティのティーチャーやメッセンジャーの言葉に耳を傾けたとき、意識が「自分がどうなるか」ではなく、ただ「真実」へと向かっていくんですね。

なので、もし、自分の求めているものが、シンプルに「真実」であるなら、自分がノンデュアリティや悟りにどんなイメージを持っているのか、自分が求めているのは何か?を見つめてみるのも良いかもしれません。

そして何らかのイメージがあったら、それをそっと落としてみても良いかもしれません。

そのとき、きっと自分が何を求めているのか、または求めているものがなんなのか、まったく分からなくなるはずです。

そして、求めているものが分からなくなったその空白、静けさが、真実の入り口となるでしょう♪

非二元としてのお金は・・・?

非二元ではお金をどう捉えているのですか?というご質問をしばしば頂きます。

“実際には社員に給料も払わないといけないし・・・”
“年金暮らしの親が障害を持つ子供を支えていて、お金にほんと困っています・・・”

こういう思いや状況の前に、真実だ、空だ、自己不在だとか、なんだかんだいってやっぱり現実の問題もね・・・・という思いが横切るのでしょう。

(これを聞くたびに、私はやっぱり夢を選びます、と言っているように聞こえてならない)

とりあえず前置きとして、非二元は思想でも宗教でもスピリチュアルでもなく、「太陽は東から昇って西へ沈む」と同レベルの話です。つまり、自明の事実です。

思考を横に置いて直接「ここにあるもの」をよ~く見れば、「いまここ」は空っぽであることと満ちていること、主体と客体、不変と変化、個という現象と全体は決して分けられないという不可思議なダンスしかない・・・・といった自明の事実を言っているだけです。

ですので、「生きる知恵」みたいな話ではなく、そういう意味でこの質問自体がジャンル違いでもあります。

とはいえ、なぜそういう質問が出るのかもよ~く分かります。

なぜなら「お金」は、最終的に「食べていけるか?」という自己の生存(自我にとって)に関わっているからですね。

なので、言い換えれば、“死ぬ直前までうまく生きていたい”のだけど、それを非二元的にどう捉えたら良いか?ということでしょう。

もし、お金がなくても、自分が思うような人生が送れ、死ぬまで安全が確約されていたら、そんなにお金はテーマにならないはずです。

でも、分離して広い社会の中でなんとか生き抜いている私にとっては、「お金」がその保障になるというわけです。地獄の沙汰も金次第ですから。

なのでここはやはり、自我の目線をぐんと超えないと真の解決は見えてこないでしょう。解決といっても、もっとお金が入ってくるとか、人生がうまくいくようになるとか、そういうことではまったくありません。

それを願っているうちは、深い夢の中です。

非二元のメッセージを生きる術や考え方にしているだけであったら、メッセージそのものが真実を指していても、単なる思考活動です。(夢)

思いは勝手に湧いてくるのか? それともそこに思いを製造する主体はいるのか?
興味や好奇心、性格、性質は自分で決めたのか?それとも勝手にそうなっていたのか?
~~をしようという思いは、湧いてきたのか? それとも思いを持つ以前に誰かがその思いを作ったのか?

ただ、シンプルに起きていることを見ていくだけなんです。

“起きることが起きているだけなんですか?”といった類のご質問もよく頂きます。これは明らかに事実を見ないで頭で考えている質問です。

そうすると、たいてい“起きることが起きるだけだったら、自分が何しても無駄ではないのか・・・”という思いになりがちです。

なぜなら、やっぱりそこに“個の自分が何かすること”を想定しているからです。(だったら、私はどうしたら良いの?)

ということで、繰り返しになりますが、起きていることをシンプルにかつ徹底的に見ていくこと。

ものごとを起こしている誰かはいないこと、生まれたときからずっとすべて勝手に起きていたと知ること。

自分は時のない永遠の「ある」(存在)であると知ること。

どこまで?

自然に降参が起きるまで。そして、自分は生命そのものであると確信できるまで。

それまでは私たちはどうしても不安を抱きつづけるでしょう。

または、どうにか人生がうまくいくことを願い続けるでしょう。

でも、自分の本質が深く理解されたとき、生命、人生そのものへの信頼が生まれるはずです。

そのとき、お金の心配よりも、あらゆる状態の中で自分は本質を生きているか?がきっと思いの中心になってくるでしょう♪

私は・・・・・・

私は・・・・

私は・・・の後に様々な言葉が入る。

私は「人間だ」、私は「男だ」、私は「日本人だ」・・・・・・。

でも、

人間だ、日本人だ、男だ、女だ、大人だ、セラピストだ、母だ・・・、これらはすべてレッテル。

生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が人間であることも、日本人であることも、性別もなにもかも知らないけれど、溌剌とした生命の輝きを放っている。レッテルなしに、見事に存在している。

私は優しい、醜い、頭が良い、ユニークだ、価値がない、親切だ・・・、これらもすべて思考が貼ったレッテル。

自分に関するあらゆる定義、説明、思い、解釈がすべてただのレッテルに過ぎず、言葉の中には何も実体がなく、だからそこに真実を見い出すことはできない。

にもかかわらず、私たちはそれが自分自身だと信じ始める。私は日本人で、女で、○○才で、料理が得意で、人前で話すのが苦手で・・・・・・。

自分に関する数多くのレッテルが私たちの心のなかで何重にもなって、あたかも「個人」がいるかのように重量を増していく。

でも、よ~く見れば、そこにあるのは思いの集積ばかり。

あるクライアントさんとの会話

クライアント:“ありのままの自分は受け入れてもらえないんです。”
私:“ありのままの自分ってどんな自分なんですか?”
クライアント:“人を楽しませる話ができないというか・・・”
私:“人を楽しませることができない自分って、どんな自分?”
クライアント:“ダメな自分”
私:“どんな風にダメだから人を楽しませられないんですか?”
クライアント:“・・・・・・、何も持っていないから”(←涙ぐむ)

「私は何も持っていない」

数多くあるレッテルの中で自分が密かに一番信じているレッテル。一番信じているから、一番隠しておきたい、一番ないことにしたい。

そうやって心の深いところに抑圧されていった自分に貼ったレッテル。

「私は何も持っていない」

私の話なんか空っぽでつまらない、私を面白がる人なんていない、私といて楽しいはずがない・・・、様々な思いがそこから生まれてくる。人が自分に関心がないように見える。久しぶりの同窓会に行ってみたけど、やっぱり輪の中に入れなかった・・・、傷つくなぁ。こんな自分嫌だ、どうしたら変われるのだろう?

ないことにしたはずのレッテルは、別の思いや外に投影されて現れてくる。

でも「「私は何も持っていない」という思い自体、そもそもまったくなんの真実も指さないただの思い(=ビリーフ)。

私たちはそんな自分に貼ったレッテルを信じ切って、自分の世界を作り上げていく。

夢から覚めるとは、そんなふか~く刷り込まれたあらゆる思い、レッテル、ビリーフ、解釈が何も真実を表していないと知ること。

私に関して、あらゆる定義づけ、レッテル、ビリーフを剥がしていくと、そこに何か残るだろうか?

「私は・・・・・・」

その後に来る言葉を一切信じなかったら?

もはや、自分が何者なのかもさっぱり分からない。

「ありのままの私」でさえもなく、

「私は・・・・・・」

そこは空っぽでしかない。

でも、一つだけどうしても否定できないこと、それは、

あらゆることが「在る」ということ。

そして、ただその「在る」に留まってみる。

そのとき、「私」は個ではなく、存在全体に属していたことが分かるだろう。

純粋意識、気づいている意識、I AM(私は在る)、決して定義がつけられない、レッテルも貼れない。

そして、それがあなた♪

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