“スピリチュアル、ノンデュアリティ、引き寄せ、思考が現実化する、心のしくみ(思いや感情の解放)が、けっこうごっちゃになっている人が多い”というお話を耳にします。
確かにそんな感じあるかも~と思うのです。
私もノンデュアリティと癒しというお話会をやっていますので、もしかするとそれに加担しているのかもしれません。
ですが、自我の目線ではなく、真実の視点から自我の活動を見たとき、なぜ人が苦しむのかがよく見えるという利点はやっぱりあります。
が、とりあえず話を戻して、もしこの中で仲間外れは誰だ!ゲームをすれば、明らかにノンデュアリティはまったく違うものですね。
つまり、「スピリチュアル、引き寄せ、思考が現実化する、心のしくみ」などは、「(個としての)自分がいる」ことが前提にならないと成り立たない話です。
一方、ノンデュアリティは、その「自分」は不在ですよ、空っぽですよ~とお話ししています。
前提がそもそもまったく違います。
それでも私たちが混乱してしまうのは、どうしても「自分がどうなるか?」ということがやっぱり一番大切で、それを大前提にどの話も聞いているからでしょう。
真実が分かれば、不安を感じなくて済むようになる・・・・
悟れば、いつも充実した気持ちでいられる・・・・
ノンデュアリティの状態になれば、いつも愛の状態でいるはずだ
(飢えた気持ちなど沸いてこない)・・・・
空を体現すれば(空の状態にとどまっていれば)、苦しみに終止符を打てる
などなど。
つまり、自分が「ある状態」になることを目指しているんです。
「悟った状態」、こうなっているはず・・というイメージ。
そして、そのイメージと今の自分の状態を比べて、まだ悟りに到達していないとか、前より進んだとか図ったりもするでしょう。
もちろん真実が深く腑に落ちたことで、恐れがどんと落ちるとか、余計な思考が減るといった、「副産物」もあるでしょう。
でも、自我はそもそも常により良い状態を求めているので、真実ではなく、副産物のほうへわ~っと意識が向いてしまうんですね。
すると、ノンデュアリティのメッセージもまたたくまにそれを得るツールとなってしまいます。引き寄せが自分が望むものを得るツールであるのと同じように。
本当の目的が真実ではなく、「愛に満ちた状態」、「苦しみがない状態」、「高次な状態」などである限り、引き寄せでも、スピリチュアルな教えでも、ノンデュアリティのメッセージでも、それが手に入れば良いわけです。
あくまでも「(個の)“わたし”が幸せになる」ことが目的だから。
もちろん、より良い状態を求めることがいけないわけではありません。
苦しいのなら、必ずなにか真実ではないものを握りしめているわけで、それは手放したほうが良いに違いありません。
また、恐れに縛られているより、愛ベースで生きているほうが楽に決まっています。
でも、「状態」を求めている限り、それがいくら正しそうなイメージでも、ある意味「蜃気楼」を追っていることと同じです。(自我は、不変の状態があると幻想を抱いていたりしますが)
最終的に「私がどうなるとか、もうどうでもいい。ただ真実が知りたい」というシンプルな思いになっとき、はじめて「私が・・・」、「私が・・・」という思いが緩み始めるでしょう。
目指す状態もイメージもなく、ノンデュアリティのティーチャーやメッセンジャーの言葉に耳を傾けたとき、意識が「自分がどうなるか」ではなく、ただ「真実」へと向かっていくんですね。
なので、もし、自分の求めているものが、シンプルに「真実」であるなら、自分がノンデュアリティや悟りにどんなイメージを持っているのか、自分が求めているのは何か?を見つめてみるのも良いかもしれません。
そして何らかのイメージがあったら、それをそっと落としてみても良いかもしれません。
そのとき、きっと自分が何を求めているのか、または求めているものがなんなのか、まったく分からなくなるはずです。
そして、求めているものが分からなくなったその空白、静けさが、真実の入り口となるでしょう♪