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ほんとうの安心と出会う場所♪

イギリスのEU離脱は、実は離脱派にとっても意外だったそうで、イギリス全土がちょっとしたパニック状態になっている感があります。

私たちは、一見「同じことが繰り返される日々」や「今までと同じ状態」が続くものだと錯覚しているため、なんとなくそこに安心を見出しているでしょう。

なので、大きな変化があると、あたかもそこにあった「安心」が破られたかのように感じられてしまいます。

でも、世界(現象)は常に変化していて、その変化の行方は常に未知なものですね。そして、そもそも常に変化するもののなかに、安定や安心を見出すこと自体に無理があります。せいぜい「安心したつもり」になることが精一杯ですね。

じゃぁ、安心、安定はないの?どこかにあるの?と真剣に探してみたとき、一つだけ変化しないものがあります。

それは、私たちの本質♪

呼吸より身近で、すべての前にあり、すべてであり、同時にどれでもなく、「ただあって、そして自明であるもの」。(気づいている意識、純粋意識、それ、全体、神、etc)

自分の生活に関わってくると、 “なんだかんだいって、この二元の世界で生きていくには~” と、あたかも「真実」は平和時の道楽?みたいに捉えている人もそれなりに見かけます。

そういう感覚に陥る気持ちはよく分かりますが、そこで完全に自我視線まるけになってしまうのは、なんだか残念です。

もちろん、非二元のメッセージ(起きることが起きているだけ、とか)も単なる頭の知識であれば、足が地に着かず、ただの現実逃避になりがちです。そんな場合は、実践的な思考を働かせることも大切でしょう。

でも、“どうしたら良いか?”と思考をフル回転させても、サバイバルをベースにした恐れのストーリーにあっという間に巻き込まれ、本質を見失なってしまいます。

なので、辛いとき、苦しいとき、恐れがあるときこそ、ベクトルを起きていることだけではなく、本質にも向けてみたらどうでしょうか?

シンプルに「気づいている意識」に寄り添い続け、そこからどんな感覚やエネルギーが生まれてくるか、ただ静かに感じてみる。

思考がハウツーを必死に探そうとするのに対して、そこは思考が生まれる前の源。

不動で信頼に満ち、ゆるぎなく、すべてを包括し、すべてであって、それが自分そのもの。

恐れや焦りから出てくるおしゃべりや緊張した思考に囚われることなく、地に足を着けていられる場所。(場所じゃないけど)

でも、真の安心は自分を完全にあきらめて、“未知”なるものへ明け渡したとき訪れます。

“Show me the way(道を見せてください)”と神に祈ったとき、それは、「私が神に祈っている」のではなく、一なるものが一なるものに語りかけ、祈り手も受け取り手もいない純粋な「祈り」そのものとして現れるでしょう。

そんなとき、きっと生命への深い信頼が感じられるはず。そして、後はやることをやるだけ。

でも、もし自分を完全に未知なものへ明け渡すことが怖かったとしても、私たちが本質から離れることは不可能で、誰でもそこにくつろげますね♪

「I AM(私は在る)」

「ある」という感覚。

すべてをそぎ落としてただシンプルに、

そこに「ある」だけ。

 

思考以前にあるもの♪

どう考えたら良いのかさっぱり分からないとき、なんとか手掛かりをつかみたいと思いませんか?

人に聞いたり、ネットで検索してみたり、ブログや本でヒントを得ようとしたり・・・。

自我とは、何かしら考える「指針」が必要なものでしょう。

生きる意味や生き方、または、出来事の意味、考え方考といったもの。

どう考えて生きていこうか? こんなときはどう考えたら良いのか?などなど。

考えるベースを見つけ出し、そこに落ち着いて安心したい・・・。
世界のしくみを理解して、その理解のもとに自分や自分の人生を構築したい・・・・。

自我は自分が実体のないものであることをうすうす知っているので、何かにしがみついていないと、崩れてしまうという不安があるんですね。

そこで、「悟り」のメッセージは生きる指針にするに一見もってこいに見えます。

ところがノンデュアリティのメッセージ、例えば「起きることが起きているだけ」などは、しがみついて安心できるものでは決してないでしょう。

それよりも、どちらかというと混乱を招いたり、または、虚無の世界へ落ちていってしまうかもしれません。

というのも、「真実」は自我に生き方を示すツールではなく、「ただある」だけだから。

意味や指針や考えなどがあてはまらない、またはそれ以前の言葉にならないもの。自我の手掛かりにさえならないもの。

でも、私たちはどうしても今までの癖が抜けきれず、それらのメッセージを自分の人生や世界に当てはめて考えよう、理解しようとしてしまいます。

ですが、思考とはそもそも分離のツールです。

どこにも分離のない一つの流れである現象を、「あちら」「こちら」「高い」「低い」「上」「下」などと区切っていきます。

そして、「在るもの」に名前を付けていき、「起きていること」に定義づけ、意味をつけ、解釈していきますね。

で、いつの間にか、区切った状態、レッテルを貼った状態、定義づけや意味づけをした状態が初めにあったかのように錯覚していくんです。

「思考が現実化する」なども、あたかも思考のほうが現象よりも先にあるかのような発想です。現象を常に自分中心に解釈する自我的な世界の捉え方。

でも基本、思考は必殺仕訳人(笑)であって、主体不在のなかで現れては、消えていくものです。なので、思考以前の全体、区切りのない現象を捉えることは不可能なんです。

例えば、海を日本海、太平洋などと区切っていき、それがあたかも実在しているかのように信じれば、信じるほど、ただのレッテルは、レッテル以上の意味を持ち始めます。

でもそれは本質(分離以前の現れ)を忘れた状態ですね。

だから、思考まみれになっているときに私たちは苦しんでしまいます。どんどん細分化されて、本質(愛、静けさ、受容)を見失ってしまうからです。

そういう意味で、そのメッセージがどんなに真実を現していようと、頭で理解している限り、それは、ただの切り取ったイメージに過ぎません。

にも関わらず、私たちは、その頭の理解をもとに、“だとしたら・・・・” と、他の知識(切り取り)と照合し、あたかもジグゾーパズルを組み立てるかのように、一つの絵を創って理解しようとするんですね。

でも万が一、絵が出来上がったとしても、それは「絵」(幻影)に過ぎません。一つの固定されたイメージです。

ということで、思考をできるだけ横に置いて、徹底的に体験を見つめ(ダイレクトパス)てみるのはいかがでしょうか?

思考をはずすとは、思考を静めて、なおかつ、どの思考も一切信じないということ。

レッテルも定義づけも解釈もなにもかも。

そうやってただ在るとき、そこに現れてくるものは?

そこに区切れる何かはある?

そのまま、まったく何も分からない、手掛かりすらない大海原にただ在ってみる。

実はそこが一番安心できると分かるまで、生命にすべてを明け渡しても大丈夫なのだと分かるまで♪