先日のノンデュアリティと癒しのカフェでの会話から思ったこと・・・。
悟った人、悟りを得るなどなど、「悟り」という言葉が発せられるとき、たいてい人は「悟り」についてのなんらかのイメージを持っていると思うのです。
そのイメージに自信があるかどうかは別にして、自我はいつもなにかイメージしたり、定義付けしたり、つかめる物にしてそれを追っかけるという性質がありますよね。
ノンデュアリティのミーティングでも、まず自分が何を目指すのか明白にしてから目指そう・・・という思いが無意識に走っていることもあるかもしれません。
とにかく「つかめる何か」や手がかりがないことには、自我はただ佇んでしまうのでしょう。(実はそれがグッド♪)
中には非二元警察と呼ばれる(笑)、悟りとは~~だ、自己の不在とは~~だ、非二元とは~~だと、ばっちり定義付けがされていて、それと少しでも合わないことを言っている人にピッピーッと笛を吹く人もいるでしょう。
ですが、イメージしたり、定義付けをしてしまうと、私たちが求めているものは、いつの間にか真実ではなく、そのイメージ、定義づけられた状態(空の状態、私がいない状態、常に平和な心の状態、思考がない状態、etc)になってしまいがちです。
でも、真実は何か?という質問を真剣に自分に投げかけてみると、分からないというのが正直な答えのはずなんです。
その正直さをベースにしたとき、探求は、なんらかのイメージや定義を追っかけるものではなく、分からない何かへ心が大きく開かれていくはずですね。
ちなみに、ダイレクトパスとは思考や概念を一切通さず、いまここにあるものをただ観察するもので、求めている何かはここには要らないんです。
思考や概念は、例えそれが正しかったとしても、結局、何かを追いかけるという今までとまったく同じ自我のパターンにはまったままであって、しかも、“私は分かった、見えてきた”というストーリーに組み込まれてしまったりします。
幸せになる、状況を変える、自分を変える、悟りを得る、引き寄せる・・・すべて何かを得よう、掴もうという行為ですね。ある意味自我はこれしか知らないんです。人生疲れるはずだ。
でも、もし、本当に求めているものが、捨てた先にあったとしたら?
もし今、自分が知っているすべてを捨てなさい、何もかも!
自分が人間だとか、男だ女だとか、自分の名前もすべて!
と言われたら?
なにか怖い感じがしませんか?
寄って立つ場所がない気がしませんか?
でも、どれだけ捨てても、どうしても否定できないものがありますよね?
経験の波、あるという感覚、気づいている意識・・・・
そこにただあってみるんです。
知識や概念、思考ではなくて、そのどうしても否定できない何かにゆだねること。
これが真実の入り口ですね♪
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東京ノンデュアリティと癒しのカフェ
5月は満席となりました。6月のカフェの日程はこちら↓
日時:6月4日(日)13時半~16時半
場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/index.html
参加費:5000円
募集は、GW後に始めます♪
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