月別アーカイブ: 2017年4月

すべてを忘れてみる♪

先日のノンデュアリティと癒しのカフェでの会話から思ったこと・・・。

悟った人、悟りを得るなどなど、「悟り」という言葉が発せられるとき、たいてい人は「悟り」についてのなんらかのイメージを持っていると思うのです。

そのイメージに自信があるかどうかは別にして、自我はいつもなにかイメージしたり、定義付けしたり、つかめる物にしてそれを追っかけるという性質がありますよね。

ノンデュアリティのミーティングでも、まず自分が何を目指すのか明白にしてから目指そう・・・という思いが無意識に走っていることもあるかもしれません。

とにかく「つかめる何か」や手がかりがないことには、自我はただ佇んでしまうのでしょう。(実はそれがグッド♪)

中には非二元警察と呼ばれる(笑)、悟りとは~~だ、自己の不在とは~~だ、非二元とは~~だと、ばっちり定義付けがされていて、それと少しでも合わないことを言っている人にピッピーッと笛を吹く人もいるでしょう。

ですが、イメージしたり、定義付けをしてしまうと、私たちが求めているものは、いつの間にか真実ではなく、そのイメージ、定義づけられた状態(空の状態、私がいない状態、常に平和な心の状態、思考がない状態、etc)になってしまいがちです。

でも、真実は何か?という質問を真剣に自分に投げかけてみると、分からないというのが正直な答えのはずなんです。

その正直さをベースにしたとき、探求は、なんらかのイメージや定義を追っかけるものではなく、分からない何かへ心が大きく開かれていくはずですね。

ちなみに、ダイレクトパスとは思考や概念を一切通さず、いまここにあるものをただ観察するもので、求めている何かはここには要らないんです。

思考や概念は、例えそれが正しかったとしても、結局、何かを追いかけるという今までとまったく同じ自我のパターンにはまったままであって、しかも、“私は分かった、見えてきた”というストーリーに組み込まれてしまったりします。

幸せになる、状況を変える、自分を変える、悟りを得る、引き寄せる・・・すべて何かを得よう、掴もうという行為ですね。ある意味自我はこれしか知らないんです。人生疲れるはずだ。

でも、もし、本当に求めているものが、捨てた先にあったとしたら?

もし今、自分が知っているすべてを捨てなさい、何もかも!

自分が人間だとか、男だ女だとか、自分の名前もすべて!

と言われたら?

なにか怖い感じがしませんか?

寄って立つ場所がない気がしませんか?

でも、どれだけ捨てても、どうしても否定できないものがありますよね?

経験の波、あるという感覚、気づいている意識・・・・

そこにただあってみるんです。

知識や概念、思考ではなくて、そのどうしても否定できない何かにゆだねること。

これが真実の入り口ですね♪

☆☆☆☆

東京ノンデュアリティと癒しのカフェ

5月は満席となりました。6月のカフェの日程はこちら↓

日時:6月4日(日)13時半~16時半
場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋)
http://www.owlspot.jp/access/index.html
参加費:5000円
募集は、GW後に始めます♪

☆☆☆☆

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安心、安全、でもとっても深い。

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愛とはネガティブを十分に感じられる場♪

明日から熊本へ行ってきま~す。ということで、ノンデュアリティと被災地における心の癒し。(なんか論文のタイトルみたいだ)

究極の観点からは、誰もいない、癒す人もいない、ストーリーはすべて幻想となるわけです。

なんとなく、ノンデュアリティのメッセージを発信している人は、ところかまわず「起きることだけが起きている」と振れ回っているみたいな誤解があるかもしれません。

ですが、そんな概念だけ振りかざしても、被災地に行けば、それが役に立たないどころか相手を傷つけてしまうかもしれないことはすぐに分かりますよね。

究極の真実であっても、それを概念化して言葉にして押し付けてしまったら、もはや害にしかならないことが多いものです。

では、そんなときは真実をすっかり忘れて、ただストーリーに埋没しておくのが良いのでしょうか?

お話会でも、ヒーラーやセラピストさんから“自分の仕事に意味はあるのか?”というご質問をそれなりに頂きます。

でもその葛藤は、メッセージを頭で捉えていて、ハートで捉えることを忘れていることから来るのかなと思うのです。

アジャシャンティなども話しているように、ハートの目覚めやお腹レベルの目覚めなど、自我が真実に目覚めていく様相はいろいろでしょう。

主体と客体の幻想が落ち、「私とあなた」「私と机」「私と景色、音、匂い」ではなくて、ぜんぶが「I AMのわたし」であることが露わになったとき、ハートは勝手に緩み開いていきますね。

分離した自分を外界から守ろうとしていたハートが、全体性に開いていくんです。

そして開かれたハートを通して起きていることを見たとき、概念に邪魔されない言動というものがあり、概念に邪魔されない知恵というものがあります。

それは頭から生まれてくるものではなく、言葉なしに静かに見せてくれる智慧です。

例えば、愛する人を失って悲しんでいる人がいれば、その人の悲しみは受容されていて、その人は悲しんでいて良いのであって、悲しみをすぐさま取り除く必要がないことが見えてくるでしょう。

でも、つい私たちは、その人が悲しんでいるのを見ることが耐えられなくて、十分に悲しむことを許してあげる前にどうにかしようともがいたり、または、他の人を苦しませたくないと自分の悲しみを呑み込んでしまったりもするかもしれません。

でも、ハートはとてもシンプルで相手の悲しみも、それを見ている自分の苦しみも受容していて、十分に感じることが許されていて、そしてそれが成し遂げられる安心な空間がそこにあります。

ハートは、寄り添って、ただそこにいて、受容と安心な空間で支えてくれるんです。それは、すべてはすでに癒し(愛)の中にあるという真実の海なんです。

それが見えれば、あとは本質の流れに従って、悲しみは違うものに変化し、自分が何かに支えられていることが感じられるでしょう。

ただ、ネガティブな感情でいっぱいになっている自我にとって、その安心さや受容を見ることはかなり難しいものです。そもそも苦しんでいる理由が、ネガティブな感情に抵抗しているからで、その抵抗を握りしめながら、受容という正反対のエネルギーを感じるのは至難の業です。

なので被災地などででは、EFTを使って、セラピストが安心安全な空間を作り、トントン軽く経絡をたたきながら、感情を感じきってもらいます。

真実(愛)は、すべてに浸透していて、あらゆる形になりますね。人をなでる優しい手、強く引っ張っていく手、支える言葉、押す言葉、優しい眼差し、ゆるがない眼差し・・・・。

緩んで開いたハートを通して、その人なりの個性、その人なりの才能(ヒーリングでもセラピーでも、パン屋でも会社員でも)で現象というストーリーの中で真実の発露となれば良いのかなぁと思います。

さて、一か月を切ってしまいましたが、5月7日(日)東京でノンデュアリティと癒しのカフェを開催しま~す。宜しかったら気軽にいらしてください☆

ついにで、EFTの宣伝もさせてください。(*^_^*)

今回は少人数です。じっくり教えてもらえるチャンスかも!

☆☆☆☆

東京ノンデュアリティと癒しのカフェ

満席になりました。ありがとうございます♪

日時:5月7日(日)14時~17時
場所:CTW表参道
http://www.cultureomotesando.com/access-map/
参加費:5000円
お申込みフォーム

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“ある”が分かれば、“ない”が分かる♪

ある意味よく分かりますが、ノンデュアリティ=「私はいない」のように思っている人もそれなりにいるようで、「私がいない」状態になれば良いのだ~と思っている感じのご質問をけっこう頂きます。

でもたぶんこの発想だと、状態や感覚を追い求める勘違いに陥ってしまう可能性大です。

「私がいない」であれ、「空(くう)」であれ、ある状態になるとか達することを目指すと、どうしても「そのようになる誰か」が前提となってしまいます。まぁ、たいてい自分。

また、私が私がいない状態になれば良いのだ・・・というのがすでに矛盾しすぎていますよね。私がいないのを私が確かめるみたいな。

でも例えば、ラマナ・マハルシにしても、エックハルト・トールにしても、彼らが示しているものは、“あなたはアイデンティティを間違えていますよ~”ということなんです。

つまり、なくそうとしている「私という感覚」は、体や思い、感情に付随しているものでもなく、またそれらに制限されているものではなくて、気づいている意識そのものなのだという理解です。

その理解が起きたとき、きゃっ、ここに誰もいないの!まじ~っ、コワッ!というのが見えてきますよね。

“Who am I? ”という有名な問いは、ダイレクトパスの始まりとも言われています。つまり、私は体だ、私は日本人だ、私は人間だ、私はセラピストだ、私は女だ・・・・というアイデンティティが本当に「私」なのか、ダイレクトに見ていくんです。

それらのレッテルをすべて取り去ったら、何が残るのか?

そこには切れ目のない経験の波と「私という感覚」だけがあるはず。(経験者はいなく)

そして、そこで終わらせず、「私という感覚」にただ留まる。「あるにただある」
これはまた、ニサルガダッタの先生が伝えてくれたこと。

つまり、まず真のアイデンティティを確立すること。

そうすれば、自己の不在も時空の幻想、主体と客体の幻想もあらゆることが自ずと見えてくるはず。

そして、あるにあり続けるとは、空(くう)にぼんやりとあり続けることではないことは一秒もしないうちに分かりますね。

空(くう)は、現象で満たされたダイナミックなエネルギーであって、時がないところにあらゆることが起きていて、それが止むことがない。

あらゆる現象がすべて自分であって、何も知らないものはなく、自我のハートが自然に緩んでいく。

ハートが緩んで開いていけばいくほど、「色」の微細さ、深さ、摩訶不思議に圧倒され、いかに何も分からないかが分かってくる。

と、同時に最も身近な自分の思いや自分の気持ちもその摩訶不思議さの一部であって、謎と永遠性に包まれた愛おしいもの。

“私がいないって分かれば、嫌な感情を感じないはずだ”という思いもそこではもう意味はなく、怒りも沈んだ気持ちもショックも摩訶不思議なダンスの現れ。

とはいえ、ここで気をつけなくてはいけないのは、“すべてはダンスなのさ~~”という言葉で、自分という豊かで深い「色」の現れをバサッと無視しないことですね。

つまり、自分のユニークで複雑な心の存在をきちんと見つめ、ケアしてあげること。

空(くう)の目線だけで、色である心の動きをないがしろにしないこと。ねじ伏せないこと。

空は色を含み、色は空そのもの。

空を確立すれば、そこは色で満ちた世界で、色を深く見つめれば、そこには空しかない。

どこまでも終わりがなく、すべてはただ不可思議な愛だけ。

あぁ~~、ただそれだけ。(*^_^*)

 

※ウパニシャッドをまた訳してみました♪→★

☆☆☆☆☆☆

ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪

気軽なノンデュアリティトーク・パート1

気軽なノンデュアリティトーク・パート2

大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました!

気軽にいらしてください♪

4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、満席となりました。

5月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは一般募集いたします。

(ブログにも近々アップいたします!)

※一度お申込みいただいた方は、ご案内を差し上げます。

今後の開催案内ご希望の方は、こちらからお申込みください。