月別アーカイブ: 2015年11月

世界とノンデュアリティ

ノンデュアリティ(非二元)というこの言葉。

人によっては、まったくもって意味不明で、
人によっては聞きすぎてげっぷがでてしまうかもしれません。(笑)

でも、私はこの“二つではない”という言い方がとても好きなんです♪

無償の愛とか、真我とか、ワンネスとか、そういった言葉に比べると、“二つではない”というと、なんだか無味乾燥な感じがするかもしれません。

イギリス人の友人には、“ノンデュアリティ?何それ?科学の用語?”とさえ言われました。

でも、この“二つではない”には、ものすごく深く豊かなものがあって、だから、昔の人は、ワンネスと言わずに、アドヴァイタ(“二つではない”)とわざわざ言ったのではないかなと思うのです。

例えば般若心経、

色は空であり、空は色である。(=この二つは分けられない)

この色と空を、もしひとまとめにワンネスって言ってしまったら・・・・。

色と空というまさに正反対で、実に対照的であるものが分けられないというミステリー、驚異、本質の深さが見過ごされてしまう感じがするのです。

相反するものが同時に真実であって、決して分けられないという、自我にはまったくお手上げなところに、途方もない深さの真実があるわけです。

でも、そんな理解不能なミステリーよりも、無償の愛や感謝を体現しようとか、高次の波動を目指すとか、空の状態になれば良いのだとか、そういった分かりやすい話のほうに流れてしまう気がするのです。

パリでテロが起きて、それは「ほんとうは起きていないし、誰も傷ついていないし、苦しんでいる個人もいない」のだけど、それがまさしく真実である一方で、テロリストを生んだ土壌に染み込んだ怒りや憎しみ、テロによって犠牲になった人々の無念さや悲しみ、そしてそれに心を痛める人たちの様々な思いや反応がある。

両方を深く感じること。

深く、深く、感じる。そうすると、私はハートの中にいて、また真の自分はハートそのものであると分かる。

私はテロの怒りであり、悲しみであり、犠牲者のショックであり、消えていく体、そしていろと家族の目に流れる涙でもある。憤りや憎しみ、愛や共感がダンスをしながら駆け巡る。

と、同時に無音よりも静かで、深い平和と愛でもあって、そこから見えるもののすべてが夢。

テロって非二元的にはどうなの?と聞かれると、さぁ、分からないけど、ただ両方を深く感じるんです、とお返事したくなります。

色と空を深く感じる。

決して言葉にならず、頭で理解できないけれど、確実にそれがあって無限に深い真実☆

もう自分は真実が分かった、悟ったなどとはとても言えない、この永遠の果てしない深さ。

はぁ~、そしてそれが最も身近で常にここにある真のわたし♪

☆☆☆ お知らせ ☆☆☆

大阪:ノンデュアリティと癒しのカフェ、お席若干あります。→☆

「わたしはある(I AM)」♪

ノンデュアリティーブーム?のおかげで、「自己の不在(私はいない)」というメッセージが浸透してきたかもしれませんね。

このメッセージなしに真実を語ることはできないでしょうし、「私が修行して、いつか悟るのだ!」という自我の勘違いを解くのにもと~っても大切です。

とにかく、「(個の)わたし」が頑張っている限り、真実はいつも頭の中で歪曲されてしまいますから。

一方で、「わたしの消失」、「わたしという個の感覚」がなくなることが、唯一の悟り(目覚め)のシフトだと思い込んでいる人も増えてきたかもしれません。わたしという感覚、わたしがいなくなることが、あたかも悟りの切り札のように。

でもきっと、真実の見え方は一つではないでしょう。

例えば、「わたし(主体)はいない」が真実であるその一方で、紛れもなく確実にあるものがあります。

つまり、なぜ「わたし(主体、コントロールしている存在)はいなかった」と気づけるのか? 自分がいないのなら、一体それに気づいているのは何?

そうです。いつも確実にあるもの、それは「気づいている意識」ですね。

「気づいている意識」なしに宇宙も、銀河系も、次元もなにもかも存在していることが分かりません。

ここでルパート・スパイラのたとえを使わせてもらい、映画にたとえた場合、映像(宇宙、存在のすべて)は、スクリーン(気づいている意識)があってこそ観ることができます。

このスクリーンである、常にある「気づいている意識」、これが「I AMである“わたし”」、そして「私はあるの“わたし”」なんですね。

70億人の勘違いは、この気づいている意識、私があるという感覚が、個の体や思い、感情に付随していると思っていることです。

つまり、一人一人に世界を捉えている分離した意識があるという勘違いです。ちなみに意識です、思考ではなく。自我は思考に同化するあまり、思考と意識の違いが分かっていないことも多いですね。

話を戻して、で、実にこれは巧妙ですよね。だって、隣の人の考えていることは分からないし、体をつねられて痛い!と感じるのは、私だけだし・・・。

だから、意識は個別のものだ・・・。分離した意識に分離した体、私ししか知らない思いや感情。これで分離の幻想は、見事に出来上がります。

なので、実はこの「気づいている意識」が個人に付随しているのではなく、全体の意識「I AM」であるなど誰が分かるでしょうか? なんて巧妙なトリック!(笑)

いつもある一番知っているこの感覚。常にあって、見過ごすこともできないこの感覚。これが求めて止まない「I AM」(真我、純粋意識、それ、神、etc)であるなんて!

だから、ある意味トニー・パーソンズが言うように、これは「オープン・シークレット」なんです。

そしてまた、ニサルガダッタの師が「“私はある(I AM)”という感覚を掴み続けなさい、根気よく、その感覚から一瞬たりともはなれないように」と言った「I AM」でもあります。

でも、そう知ったとたん、がっかりする人も多いんです。なぜなら、あまりに普通だし、ぜんぜんシフトした感じがしないし、個の自分がいる感じがバンバンにあるし、非二元のメッセンジャーが言うようなことがまったく見えないし・・・・・と。

それは、この最もよく知っている感覚が「気づいている意識(I AM)」だと分かっても、自我のエネルギーの方が強い、つまり、自我である自分という感覚が強すぎて、「気づいている意識(I AM)」の視点のほうへシフトしていないからなんです。(視点じゃないけど)

小波(自我)の認知が、“私は小波だ”から“自分は大海だった”へシフトしたとき、小波の中に主体がなく空っぽだったこと、そして、小波が自分で流れていく方向や形を決めているのではなく、大海のなかでそれは勝手に起きていたことが見えてくるでしょう。

でも、認知がシフトしても、小波という現象は相変わらず続きます。だから小波は隣の小波の考えていることは分からないんです。

また、もちろん「私はいなかった」とびっくりしたり、言葉を発しているのは自我です。気づきの意識はまったく言葉もなく、ただあって(being、presence)、気づいている(aware)だけです。

ものすごくざくっと書いてしまいましたが、とりあえず「ない」ばかりに気を取られず、「ある(I AM)」の感覚にも注目し、そこにただあり続けるということも、良いんじゃないかと思うのです。

そうすれば、まったく見過ごしていたスクリーンが少しずつ前面に現れ出し、そしてどの景色を見ても、またなにをしていても、起きている出来事よりもスクリーンがいつも見える、感じられる(←言葉の限界)ようになるかもしれません。

“どこに目を落としても、そこには神の顔が見える”(byウィリアム・ブレイク)ようになるまで♪