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人間を深く、人間を超えて♪

ノンデュアリティブームでは、「私はいない」、「すべてはストーリー」という「空」の側面を強調したメッセージが讃えられた。「ない」が強調されたメッセージ。

そのメッセージを好む人たちは、人間という営みやストーリーの愛おしさを語るメッセンジャーに、“まるで私がいるかのように話している”一貫性がない、ぶれていると批判。

その一方で、「空」を強調するメッセージに、人間味がない、愛が感じられない、高いところから話していると批判する人たちもいる。

アジャシャンティによると、これは昔からあった戦い(笑)だそうだ。

でも、きっと大切なことは、真実を分断しないことだろう。

翻って私はどうだろう?

私は“生命”を生きたいと思う。今の場合は、人間を生きたいということだ。

でも、生きるという意味をほんとうに見つめると、どうしても自分の本質は何か?という問いにぶちあたる。

自分の本質を知らずに、どうやって人間を深く、微細な心の動きまで充分に生きられるだろうか?

その問いは、私自身を人間を超え、ストーリーを超えた真実へと導いていく。

すべては夢であって、実は何一つ起きていない。

と同時にどうしても否定できない人間としての営みが延々と続く。

徐々にアイデンティティもストーリーもない本質が自我を浸透していく。

そして、人間を深く生きることと、人間を超えることが同じであるという矛盾を生き始める。

それは赤ちゃんのような歩み。

なんてことだろう。私は今まで生きるということを知らなかったのだ。

人生を生きるのではなく、人生をやっていただけだった。

生きるとは、生命に真にオープンになるということ。

守りの城壁を落として、脆弱さを抱きかかえるということ。

ユニークな現れ(あゆか)として、その現れが持つ葛藤、迷い、喜び、情熱、恐れ、混乱をすべて感じ尽くすこと。

「私の人生」というドラマにはまりすぎて、ただ盲目に生きていた。

「私」というドラマにはまりすぎて、思考のおしゃべりと怒りや恐れに振り回され過ぎていた。

やっと目が開いて、人生をよちよちと歩いている。