ノンデュアリティブームでは、「私はいない」、「すべてはストーリー」という「空」の側面を強調したメッセージが讃えられた。「ない」が強調されたメッセージ。
そのメッセージを好む人たちは、人間という営みやストーリーの愛おしさを語るメッセンジャーに、“まるで私がいるかのように話している”一貫性がない、ぶれていると批判。
その一方で、「空」を強調するメッセージに、人間味がない、愛が感じられない、高いところから話していると批判する人たちもいる。
アジャシャンティによると、これは昔からあった戦い(笑)だそうだ。
でも、きっと大切なことは、真実を分断しないことだろう。
翻って私はどうだろう?
私は“生命”を生きたいと思う。今の場合は、人間を生きたいということだ。
でも、生きるという意味をほんとうに見つめると、どうしても自分の本質は何か?という問いにぶちあたる。
自分の本質を知らずに、どうやって人間を深く、微細な心の動きまで充分に生きられるだろうか?
その問いは、私自身を人間を超え、ストーリーを超えた真実へと導いていく。
すべては夢であって、実は何一つ起きていない。
と同時にどうしても否定できない人間としての営みが延々と続く。
徐々にアイデンティティもストーリーもない本質が自我を浸透していく。
そして、人間を深く生きることと、人間を超えることが同じであるという矛盾を生き始める。
それは赤ちゃんのような歩み。
なんてことだろう。私は今まで生きるということを知らなかったのだ。
人生を生きるのではなく、人生をやっていただけだった。
生きるとは、生命に真にオープンになるということ。
守りの城壁を落として、脆弱さを抱きかかえるということ。
ユニークな現れ(あゆか)として、その現れが持つ葛藤、迷い、喜び、情熱、恐れ、混乱をすべて感じ尽くすこと。
「私の人生」というドラマにはまりすぎて、ただ盲目に生きていた。
「私」というドラマにはまりすぎて、思考のおしゃべりと怒りや恐れに振り回され過ぎていた。
やっと目が開いて、人生をよちよちと歩いている。