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理解から見ることへ

ただ今、年に一度のカウンセラー養成講座をイギリスで開催中です♪ ということで更新が遅れ気味。今回はご質問にお返事いたします。

気づきの意識の中では、全てが受け入れられていて、安心して生きられるんですよ。忘れられた人は一人もなく、愛に包まれているんですよ。というような趣旨のお話を地球ひろしさんや小泉テディさんの番組で聞きました。そうだとどれだけいいだろうと思うのですが、私は暴力が怖いのです。痛いのが怖いのです安心して暮らしてて、ある日、そんなことに遭遇したらと思うと、それも全て受け入れられているから、暴力や犯罪や痛いこともあるのは仕方がないのでしょうか。実際、暴力や犯罪、世界にいくと戦争もありますが、私がいないから、加害者も被害者もいなくて、起きていて起きていないから、受け入れられているのでしょうか。屁理屈に聞こえたらごめんなさい。でも、本当に私はここに引っかかっているのです

とってもまともなご質問ですね。と同時に、多くの人がある意味とっても陥りやすいご質問だとも思います。

まず、どうしても引っかかってしまう理由は、たぶん頭の中で理解しきろうとしているからかなと思います。実際に真実を見ようとするよりも、頭で理解しようとする努力のほうへ向かっているというか。

しかし、真実が提示しているものは頭の理解を超えたところにあるため、引っかかったままどうにも先に進めないのだと思います。

また、万が一理解できたところで、頭で納得した安心感は偽モノなので、何かあればすぐに吹っ飛んでしまいます。また、分離感覚がバンバンにある自我が常に安心して生きられるというのは、基本的に無理でしょう。

分離感がある限り、恐れはどうしてもつきまとうからです。

また、ご質問の中心が「自分が出来事をどう受け入れるべきか」という目線になっていらっしゃいますね。

これもやりがちなことですが、自分がいるということが無意識に大前提になっているまま、頭のレベルでは「私はいない」という理解だけ進み、「本当は私はいないのだから・・・」とやってしまっている状態です。(間違っていたらごめんなさい)

でもそれでは、単なる思考活動ですね。

ということで、理解しよう、知ろうとしようということをやめて、「見よう」「感じよう」としてみませんか?

たとえば、今この瞬間いろいろなことが起きているけど、もし、ここに私がいなかったら、それはどんなふうに見えるだろう?とイメージしてみるとか。

ここに自分がいなくて、私なしですべてが起きている・・・・。

自分というものが完全に消滅してしまって、ただものごとが起きている・・・とイメージしてみたら?

自我はいつも自分が世界の中心にいる感覚でいますよね。私が世界を把握する、私が社会で~~をする、などなど。自分を軸にして世界を見ているはずです。

何かを見たり、聞いたりすれば、必ず「それは自分にとってどうか?」と自分に照らし合わせて、ものごとを意味づけしていきます。

でも、その中心が不在だったら? 照らし合わせるものがなかったら? 世界はどんなふうに見えるでしょう?

自分を中心にしていたときは、自分を基準に上や下、右左と位置づけられていた空間が、位置づけがなくなった瞬間、全体の動きだけが現れてくるかもしれません。

または、自分がいたから意味があったものが、その意味を失い、ただ単にあらゆることが起きているだけに変わるかもしれません。

こうやってさんざんイメージをしながら、中心がない世界を感じてみるんです。

そして、ふと振り返ってみるのです。

そもそも自分はいないのに、なぜ「私がいない」ふりなどしているのだろう?

・・・・・・・、この問いが真に響けば、かなり衝撃的です。

これで特になにかが起こるかどうかはゼロ保障です。でも、頭でいろいろ考えているよりは良いかも。

いずれにせよ、自己の不在をきちんと体験的に理解することで、非二元のメッセージが知識ではなく、見たままの真実に変わっていくでしょう。

その視線から犯罪や暴力、戦争をみたとき、一人一人が経験している苦痛、そして人類の集合としての嗚咽のような悲しみがつき刺さるように感じられるかもしれません。と同時に、それらを含めたすべてに慈悲と静けさといった粒子がくまなく浸透し、包まれていることも見えるのです。

こういったすべては、仕方がないと自我の小さな頭で納得してしまうには、あまりに深く神秘的すぎるかもしれません。

そして、現象である溝口あゆかは、暴力が恐ければ、それなりに自分を守るようにし、また戦争や苦しみをこの世からできる限りなくしたいと願って、自分なりにできることをただやっていくんです。

げっぷもおならも非二元♪

さて最近、「非二元」VS「二元」みたいな捉え方をときどき目にします。

ん? どういうイメージになっているのだろう・・・。

たぶん、「非二元」=「空、無、真我、全体、etc」みたいに捉えているのかなと思います。

または、「非二元」=高次元、あちらの世界、ワンネスの次元と捉えている人もいるかもしれません。

あと、二元の世界では~~という表現もそれなりに見かけます。

ですが、これでは今までの対立させるパラダイムと何一つ変わらないですよね。

なのでせっかくの対立させない“二つではない”という非二元の意味そのものがおじゃんになってしまいます。

また、そうやって非二元をなんとなく高いところに置いてしまうことで、それを話す人達まで高みに置いてしまったりするかもしれません。

ですが、はっきりさせておきたいのは、ここがすでに非二元の世界なんです。(世界じゃないけど)

あなたが今このブログの記事を読んでいること、見ることが起きていて、考えが沸き・・・という、起きているすべてが非二元です。

あなたがおならをしていても、ゲップをしていてもぜんぶ。ぜんぜん高次じゃないし、神聖でもないし、嫌になるぐらい普通で日常であるこの瞬間のすべてが非二元です。

二元の世界などというものは存在しませんし、空だけの世界というのも存在しません。

そうやって分けられないんですよ~、お~い、というのが非二元(二つではない)のメッセージなんです。

ただ、強いて言えば、「二元的な思考」は存在しますよね。「私が~~をする」といういわゆるほとんどの人の世界観ですね。「私が~~」、「あなたが~~」、「社会が~~」、「神が~~」と主体が必ずいる世界観。

主体がある限り、分離が存在し、分離がある限り、時間と空間も存在します。

そして、私が今日~~をして、明日は~~を東京でやる予定・・・という「私のストーリー」が生まれるわけです。ものすごくリアルですし、何も起きていないなんてとても思えない。

その世界観に私たちはあまりにも慣れすぎてしまっているので、ここがあたかも二元の世界のように感じてしまうんです。

でも、いまここがまさに空であり、色(現象)であり、主体がないままあらゆることが起きていて、そして何も起きていないんです。

「起きている、終わり」でもなく、「起きていない、終わり」でもなく、「起きていて起きていないん」です。

あっ、これについては長くなりそうなので、次回か、または「魂のケア」のほうで書こう。

分離の幻想が落ちたとき、次元が低く見える普通でつまらない日常に、親密さと神秘さが浸透し始めていくでしょう。

起きているという観点から深く見ていけば、そこには躍動的で満ちた生命の動きがあり、起きていないという観点から深く見ていけば、そこには深遠で静かな平和がありますね。

そしてすべては愛♪

わたしは、わたしを探している?

今回はご質問にお返事をしたいと思います。

気づいている側がこっち側(意識?)だと思うのですが、それに寄り添い・・・となると、なにか位置の決まらない漠然と広がった透明の「気づき意識」をイメージしてしまうのですが、それではないですよね?それ(イメージとかも含め)を意識しているこっち側にとどまる、って感じで続ければよいのでしょうか?

イメージは思考ですので、そうです、確かにそれではありません。こっち側という言葉がちょっと分からないのですが、たぶんそれだと思います。(笑)

アジャシャンティの話の中によく出てくる、14世紀ドイツの神学者、マイスター・エックハルトの言葉の中で大好きな言葉があります。それは、

「私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。」
The eye with which I see God is the same eye with which God sees me.

最初に聞いたとき、私の中で何かが崩壊し、がん泣きしてしまいました。

すべての人が持っているこの「私」という感覚。これが「神、気づいている意識、純粋意識、それ、真我、etc」なんです。

自我の勘違いは、この私という感覚が、体や思い、感情にくっついていて、個別のものだと思いこんでいることです。

現代科学では、脳が意識を持ち、脳が死んだら意識もなくなるという考えがベースとなっていますよね。つまり、まぁ物質主義です。ただ、じゃぁ、無機質な物質である粒子が、どの段階で意識を持ち始めるのか、という点は仮説があるだけで、まったく研究されていないそうです。(参考:Why materialism is so balony by Bernardo Kastrup

一方、科学と非二元の国際会議では、量子学者などが、脳が意識を持っているのではなく、実は統一された意識があるのでは?みたいな話がされています。

科学は私の門外漢なので話を戻すと、「私という感覚」が思考や感情、体に属していると錯覚すれば、沸いて来る思いや感情を「私の思い」、「私の感情」と当然思ってしまいますよね。

私しか知らない思い、私しか感じない感覚・・・、だから「私」は個であると。ここからたぶん思考が追いつけなくなると思うのですが、全体と個が決して分けることができず、同時に起きているんです。

でも、「私」は、全体の私と個の私があるわけではなく、全体である私しかないんです。

もちろん、「私」も「私はある」も言葉であって、実際にそういった意識を持っているわけではありません。もっと言えば、私感覚もない、ほんとうに純粋に空の意識、意識ともいえなくて・・・・、言葉は不可能ですね。

ルパート・スパイラもときどき、気づいている意識(awareness)のことを、「I(私)」と言っています。最初聞いたときは、あれっ、「私はいない」んじゃなかったけ?と一瞬混乱しましたが、いわゆる「私はいない」の私は、個人としての私、個としての主体はいないという意味です。

私が8~9歳ぐらいのときだったか、夜布団の中で、目を閉じても暗闇の模様が様々にまだ見えることに不思議さを感じていました。そしてふと、考えている私と、それを知っている私の二人がいる、あっ、でも、知っている私を知っている私がいる、どこまで行くんだろう?

と思ったことがありました。また、病気をして横になっているとき、様々な音や匂いが通り過ぎ、小さな子供でしたが、私はこのすべてが去っていく感覚をずっと太古の昔から知っていると感じたりもしていました。

きっと、多くの人が何かの瞬間にふと“永遠”を知っている感覚になったことがあると思います。

思考を通らないアートなども、ときどき私たちの中の永遠に触れますよね。

この8歳のとき、私が分からなかったことは、考えている私も知っている私も同じ一つの「私(I AM)」だったことです。ただ、考えている私はいなくて、考えだけが現われていただけでした。

思い、感覚、感情は現れては去り、歩く感覚、流れる景色、聞こえてくる音、すべては去っていきます。

たった一つだけいつもあるのが、この「私(I AM)」です。決して、観察することができず、透明で位置づけることもできず、まったく静かで、変化することなく、なんの努力をしなくとも常にあるもの。

この私を個の私だと勘違いして、神(真理)を探し求めていたけれど、私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものだったんです。

☆もうすでにご覧頂いたと思いますが、スピリチュアルTVに出演しました♪