「禅の前は、山は山であり、川は川であり、禅を知り、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる、悟った後は山は山であり、川は川になる」
という禅の言葉がありますね。今日はこれを私風に解釈してみよう!と思います。
で、最初の「山は山であり・・・」ですが、これはいわゆる普通の自我の捉え方ですね。あれは山、これは川、あれは良い、あれは悪い、などなどすべてに名前やレッテル、解釈をつけて世界を眺めている状態です。
で、次の句に行く前に一見話が逸れるようですが、ときどき、“なんだかんだいってこの二元の世界では・・・・”とか、“人間ゲームをしにきたのだから”といった言葉を目にします。
まぁ、二元と非二元というふうに分けてしまうことで、あれっ、非二元の意味が・・・という突っ込みはありますが、でも、言いたいことは分かります。
どれだけ真実を理解できたとしても、誰も経験(現象)から逃れることはできないですよね。つまり、人間である私という現象は、「自己の不在」を見抜いた後でも続いていくわけです。
空は即ち色ですから、空だけになるというのは妄想です。また、もし「空」という次元がこの現象の次元と違うところにあると想定していたら、それもストーリーです。
自我が体験できるストーリーの中においては、「空」を体験するとか、ワンネスを体験するというのは、最も高いレベルのものかもしれません。
しかし、体験は必ず始まりがあって終わりがあります。このような始まりがあって終わりがある話、低い波動、高い波動などの対比や区別がある話、次元など空間がある話、どこかにつながるという話、または「いまここ」にない話などなど、すべてストーリーです。
こういうと怒り出す人やショックを受ける人もそれなりにいます。私もスピリチュアルストーリーに心底はまっていました(本も書いたし)ので、気持ちはよく分かります。
私にとってスピリチュアルストーリーは、長い間自分を支えてきた土台であって、また私の中の深い琴線に触れた大切なものでした。なので、“ただのストーリーで何も意味はない”などと、誰かにもし言われたら、かなりムッとしたでしょう。
でも、スピリチュアルストーリーには、やっぱり「私」という主人公がいるんです。そしてその私は時空を旅している私で、あれこれして進化をしていく私でした。
でも、それは夢だったのです。壮大で驚異的、そして愛おしい夢。
しかし、そこからも目覚めたとき・・・・、
私もない、あなたもない、世界もない、意味もない、ワンネスもない、悟りもない、空や高次の次元もなければ、次元上昇もない、ただ「ある」だけ。でも、もちろん、ただあるだけという概念もない。
一切の言葉が使えない、ストーリーがまったくない。空(くう)=気づきの意識。
「禅を知り、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる」とは、この理解を指しているのだと思うのです。
山や川という概念そのものに何の意味もないことを知り、そしてまた、すべては移り変わりゆく実体がないもの(=空)であって、山や川という現象も起きているけど、起きていない。
個人的には、ここはとても大切なポイントだと思っています。なので、できれば“なんだかんだいってこの二元の世界では・・・・”、つまり、 “なんだかんだいって、山は山で、川は川だよね”と言ってしまう前に、
ほんと?ほんとうにそうなの? ほんとうに主体はいないの?ほんとうに私はそれが見えているの?としつこく、かつ正直に見ていくと良いかもしれません。
そうでないと、非二元のメッセージはすべて自我がどう生きるのか?というストーリーに持って行かれ、妥協したもの、誤解されたものになりがちです。
でも、そこをしっかり見抜いた上で、同時にその「空」は「色」(現象)でもあること。
決して逃れることも、止むこともない個の私や世界という現象でもあることを腑に落とす。経験者と経験されるものは二つではない(非二元)と知る。それが本当の意味の、
「悟った後は山は山であり、川は川になる」
だと思うのです。
このとき、景色も自分も何も変わらないけど、主人公は「わたし」から「生命」にとって変わっているでしょう♪
PS:現象として、スピリチュアルストーリーも真剣、かつ楽しく生きています。
☆ご覧頂いた方も多いかと思いますが、スピリチュアルTVに出演しました♪☆