月別アーカイブ: 2016年8月

矛盾を軽々と超えるハート♪

自己の不在を見抜くことは、分離の幻想から抜け出す一つの大きな鍵であることは間違いないでしょう。

でも、今日は個人的にはもっと大切だと思っていることを書いてしまおう。うふふ。

ということで、自我=思考といっても良いぐらい、人ってほんとうに考え、考え、そして考えていますよね。なので、悟りやノンデュアリティも頭では捉えられないと知っていても、つい考えてしまったり。

そこでご提案です。

世界や出来事を考えではなく、ハートを通して捉えてみませんか?

これを読んだ瞬間、戸惑ってしまう人も多いかもしれません。

長年に渡って思考で把握する訓練(学校教育などで)や癖をある意味強いられてきましたから、“ハートで捉えるって?どうやるの?”みたいな。

でも、一般社会はともかく、心を扱う分野でも、また悟りやノンデュアリティの世界でさえも、思考がものすごく活躍しているなぁと感じるのです。

というより自我は、“なるほど!分かった!そう考えれば良いのだ、そうすれば良いのだ!”、という理解&方法を知ることに快感を感じているものです。

なので、経験やハートに持っていこうとすると、とたんに興味を失う人も多いですね。

ですが、ハートの持つ智慧は、思考の智慧よりもはるかに深く、思考が超えられない矛盾を軽々と超えることができるんです。

世間で起きている悲惨な事件を思考は、こんなひどいこと、かわいそうなことが起きているのに、“起きていることが起きているだけ”とか、“すべてはありのままで完璧”とか言ってしまうの???

と、悲惨なことと完璧がどうしても相容れないでしょう。

でも、これらをハートを通して眺めてみるとどうでしょうか?
ハートの声は思考とはまったく違うことを言っているはずです。

例えば、家族が突然困難な病気になってしまったとしますね。

思考は、どうしたら良いのだろう? こんなことがなぜ自分に起きるのだ? 治らなかったらどうしよう。これからやっていけるのか? あのときなぜ気づかなかった・・・などなど、HowやWhyや過去や未来に思いが飛んでいくでしょう。(それが悪いことだと言っているのではありません)

でも、ハートで感じてみたら?

ハートは、シンプルに“私の大切なものが壊れていく、怖い、悲しい”とだけ言っているかもしれません。

そしてそこでどうにかしようとせず、よ~くハートに留まり続けたら、それらの思いや感情がなんの批判もなしに、100%受け入れられていることが分かるはずです。そこはもうハートという気づいている意識(awareness)のスペース。

気づいている意識のなかに、その思いや感情が現れ、それは無条件の愛で支えられている。

そこで、これらの思いや感情はこの無条件の愛によって変容し、癒されていきます。

そこにはなんの矛盾もなく、良い悪いもなく、なくそう、変えようという操作もなく、あるがままが完全に許されているんです。

で、それが癒しであり、完全性であることを思考には理解できないでしょう。思考は悲惨なことはそもそも起きるべきではないなど形にこだわるので。

また、思考に引っ張られていると、私たちはこのハートの声をすっかりスルー(抑圧)してしまいます。結果、これらの思いや感情は癒される機会を与えられず、そして私たちは苦しんでしまいます。

様々な思いや恐れ、自己否定感などでハートを閉ざしている人も多いでしょう。
自我にとってハートを開くことは、無防備になることだったりもします。

しかし、現れるあらゆるものが支えられていることをよ~く感じれば、ハートがいかに教鞭で思考がいかにもろいものかも感じられてくるはずです。

思考には受け入れられないことがたくさんありますが、ハートは常にすべて受け入れているんです。

そして、そこにただあり続ければ、すべての出来事は現れては消えていく物語であって、そこで傷ついた人もいないことも見えてくるでしょう。

なので、真実を理解しようとするよりも、自分の心がどれぐらいオープンになれるのか?どれぐらい分離の幻想から自由になっているか?

今日はそれをちょっと振り返ってみませんか?

自分を投げ出すと・・・・

かつて大海の荒波の中で方向を見失い、どう泳いでいけば分からなかったとき、
差し出された浮き輪(ハウツー、自己啓発、様々な教え)は、とても役に立った。

そのうち、浮き輪がなくても自分のハートを聞いていれば良いのだと気づき、
大海の荒波は荒波ではなくなった。

自分のところに来るどんな波も深く潜って、寄り添い、受け入れ、変容を見届け
ているうちに、ある日気がついた。

私は大海だったのだ!

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私たちは無意識にいつも、自分はどうやって生きるべきなのか、
どう考えて生きていれば良いのだろう・・と考えているでしょう。

ある意味、自我のふか~い刷り込みで、そう考えていることさえ当たり前すぎて
気づいていないかもしれません。

だから、“真実では決して頭で理解できないですよ~”と聞いても、
「頭で理解できないのだから・・」などとやっぱり考えてしまう。

または、頭の中で真実をていよくまとめて、ノンデュアリティって
結局こういう意味だよねと納得し、人生に活かそうとしたり。

なんとか真実を自分の手中に手なずけようとしているから、
ノンデュアリティは生きるために役立つメッセージではないと聞くと、
反乱を起こしたくなるかもしれません。

“人を救わないなら悟りってなんの意味があるの?”
“じゃぁ、なんであの人たちは発信しているの?”

でも、すごく矛盾しているのは、自分を投げ出したときに
私たちはやっと家に帰れるということ。

ノンデュアリティを理解してどう生きていくか?という発想がベースにある限り、
ノンデュアリティと書かれた浮き輪につかまっているだけ。

ホームカミングとは、ストーリーを持った私が生まれる始まりの始まり。
自分がどう生きてきたか、今どう生きているか、これからどう生きるのか、
というストーリーがない場所。

それは呼吸よりも近く、いまここにすべてに現われ、すべてに浸透している。
それは開かれた愛であって、すべてを包括する救い。
真実は自我が生きるためのツールではなく、自我が真実の表現のツール。

のんびりと行こう♪ (*^▽^*)