月別アーカイブ: 2018年7月

“私”を動かしているもの

私たちは普段、何の疑問もなく、「私の思い」、「私の感情」、「私の体」という言い方をしますよね。

あたかも、「私」がそれらを所有しているかのように。

でも、純粋に観察をしてみたら、その所有者である「私」はほんとうにいるでしょうか?

真剣に探してみましょう。。。。。。。

どうしても見つからないはずなんです。

つまり、自我(自分)とは、所有者のいないある特有の体、特有の思考、特有の感情の合体物ですね。

一つ一つの花がユニークであるように、ユニークな一つ一つの自我。

でも、所有者がいないなら、何がこの体、思い、感情を動かしているのでしょう?

自我は思考や脳に高い価値を置いているため、脳の機能だと考えがちですが、ほんとうにそうでしょうか?

であれば、人とAI搭載のロボットの違いは基本的に全くないわけですね。

でも、ほんとうに人とロボットは同じ?

おそらく大きな違いは、意識があるかということ、生命のエネルギーが流れているか?ということでしょう。

ロボットは自分が何をしているのかを把握しているでしょうか?もちろんしていないですよね。

私たちが自分が何をやっているのか、何を考えているのかを把握できるのは、それを見ている意識があるからですね。(思考が思考を見ることはできない)

また、新しい生命を誕生させるているものは、生命のエネルギーであって脳が生み出しているわけではありません。(脳は生命のエネルギーによって生み出された)

つまり、自我(私たち)を誕生させ、動かし、そしてその動きや変化を捉えているものは、生命のエネルギーと気づいている意識です。

そして、その二つをよ~く見つめていくと二つは同じもの。

でも、気づいている意識は気づいているだけであまねく存在し、一切形ももたず、徹底的に静かで、まさに「空」。なので、決して捉えることができません。

一方、生命のエネルギーは常に様々な形を生み出し、変化変容し、見えたり、感じたり、聞こえたり、捉えることができる、まさに「色」。

そこに思考がやってきて、あれは鳥だ、あれは建物、あれは~~、これは~~、宇宙は~~~、悟りとは~~とレッテルを貼ったり、区別したり、定義づけたり、そしてだんだん、将来の不安というまだ現われていないもののストーリーを作ったり、または、抽象的な概念を作り上げていきます。

そのうちにあたかも思考がすべてを捉えることができる、真実を知ることが出来るはずだと錯覚し始めます。(だから悟りも理解によって到達できるはず・・・)

しかし実際は、思考は生命のエネルギーの一つの形に過ぎず、一日でも膨大な思考が現われ、消えていきます。また、思考を観察できるということは、それは主体ではなくて客体ですね。

生まれては消えていく観察される側の客体が、常にあって分離のない全体を捉えることはできるでしょうか?

思考という有限であるものが、無限を捉えることはできるでしょうか?

思考が現れて消えていくのが分かっているのは、気づいている意識ですね。変化が分かるとうことは、常にあるものがあるからです。

では、どちらがより真実を知ることができるでしょうか?

現れては消えていくもの?

または、常にあるもの?

よ~く観察してみませんか? 思考を通らないただ純粋でダイレクトな観察を。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考が静まったとき、いつもそこにあるもの、ものすごく静かで、すべてを受容し、ただあるだけ、在って気づいているだけの本質が顔をだしてくるでしょう。

だから、古今東西の悟りのマスターたちは、思考のない沈黙の大切さを教えてくれるのでしょう。

ということで、まずは頭の中のおしゃべりを横において、「ただ在って」みませんか?

これ以上になく最高にシンプルに。

「ただ在って」みる♪

You are what you are looking for.

右手を見ているのは誰?

右手を見てください。

いえ、バスの中の風景ではなく(それでも良いですが)、右手です♪

それを見ているのは誰でしょう?

恐らく99.9%の人が自分だというでしょう。

私が私の右手を見ているよ、と。

それが多くの自我の勘違いなんです。

右手を見ているのは個の自分ではなくて、気づいている意識です。

ノンデュアリティ(=悟り)の探求をしている多くの人が、右手を見ているのは自分であるという前提で、その自分がいつか「私がいない」状態になる、無の境地になる、真の自分になると考えています。

そのために思考の観察とか瞑想とかやるのだ!と。

でも、保障しますが、その前提ではいつまで経っても「頑張っている自我」がいるだけでしょう。皮肉ぽくてごめんなさい。

私が毎回毎回しつこくご紹介している、14世紀ドイツのマスター・エックハルトの言葉、「神があなたを見る目は、あなたが神を見る目と同じ。」

神が神を見ていて、この世に神しかいなくて、だからすべては神の遊戯♪

これはスピリチュアルなメッセージであると同時に自然科学です。

見たままを言っている言葉です。

ということで、見ている自分を分解してみましょう。

見る機能の目がある(肉体)
見ていることに気づいている意識がある(気づいている意識)
見たものを「右手だ」と判断している思いがある(思考)

この中のどこに個の自分がいるでしょうか?

頭で考えないで、観察して探ってみてください。

ちなみに、このように思考を介さないで観察することがダイレクトパスなんです。

この観察をしても、多くの人が、それでもどうしても個の自分がいる感じがする。。。と言います。

その「いる感じ」をよく観察し、分解してみてください。

ほんとうにそこに「個の自分」がいるかどうか。

ということで、これは夏休みの宿題です♪(ウソ)

個の自分がいないと本当に腑に落ちたとき、

カミングホームとは、今と違うところ(高次の世界、無の境地、あの世など)に帰るのではなく、私(気づいている意識)がいつもいつもいたことに気づくこと。(思い出すこと)

自分は家から一度も離れていなかったと気づくこと。

皆様、良い週末をお迎えください♪

 

PS: 思考の観察も瞑想もお薦めですが、それは違う状態を目指してやるのではなく、ただ純粋に「見る」、「座る」というシンプルなものが良いですね。