私たちは普段、何の疑問もなく、「私の思い」、「私の感情」、「私の体」という言い方をしますよね。
あたかも、「私」がそれらを所有しているかのように。
でも、純粋に観察をしてみたら、その所有者である「私」はほんとうにいるでしょうか?
真剣に探してみましょう。。。。。。。
どうしても見つからないはずなんです。
つまり、自我(自分)とは、所有者のいないある特有の体、特有の思考、特有の感情の合体物ですね。
一つ一つの花がユニークであるように、ユニークな一つ一つの自我。
でも、所有者がいないなら、何がこの体、思い、感情を動かしているのでしょう?
自我は思考や脳に高い価値を置いているため、脳の機能だと考えがちですが、ほんとうにそうでしょうか?
であれば、人とAI搭載のロボットの違いは基本的に全くないわけですね。
でも、ほんとうに人とロボットは同じ?
おそらく大きな違いは、意識があるかということ、生命のエネルギーが流れているか?ということでしょう。
ロボットは自分が何をしているのかを把握しているでしょうか?もちろんしていないですよね。
私たちが自分が何をやっているのか、何を考えているのかを把握できるのは、それを見ている意識があるからですね。(思考が思考を見ることはできない)
また、新しい生命を誕生させるているものは、生命のエネルギーであって脳が生み出しているわけではありません。(脳は生命のエネルギーによって生み出された)
つまり、自我(私たち)を誕生させ、動かし、そしてその動きや変化を捉えているものは、生命のエネルギーと気づいている意識です。
そして、その二つをよ~く見つめていくと二つは同じもの。
でも、気づいている意識は気づいているだけであまねく存在し、一切形ももたず、徹底的に静かで、まさに「空」。なので、決して捉えることができません。
一方、生命のエネルギーは常に様々な形を生み出し、変化変容し、見えたり、感じたり、聞こえたり、捉えることができる、まさに「色」。
そこに思考がやってきて、あれは鳥だ、あれは建物、あれは~~、これは~~、宇宙は~~~、悟りとは~~とレッテルを貼ったり、区別したり、定義づけたり、そしてだんだん、将来の不安というまだ現われていないもののストーリーを作ったり、または、抽象的な概念を作り上げていきます。
そのうちにあたかも思考がすべてを捉えることができる、真実を知ることが出来るはずだと錯覚し始めます。(だから悟りも理解によって到達できるはず・・・)
しかし実際は、思考は生命のエネルギーの一つの形に過ぎず、一日でも膨大な思考が現われ、消えていきます。また、思考を観察できるということは、それは主体ではなくて客体ですね。
生まれては消えていく観察される側の客体が、常にあって分離のない全体を捉えることはできるでしょうか?
思考という有限であるものが、無限を捉えることはできるでしょうか?
思考が現れて消えていくのが分かっているのは、気づいている意識ですね。変化が分かるとうことは、常にあるものがあるからです。
では、どちらがより真実を知ることができるでしょうか?
現れては消えていくもの?
または、常にあるもの?
よ~く観察してみませんか? 思考を通らないただ純粋でダイレクトな観察を。
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思考が静まったとき、いつもそこにあるもの、ものすごく静かで、すべてを受容し、ただあるだけ、在って気づいているだけの本質が顔をだしてくるでしょう。
だから、古今東西の悟りのマスターたちは、思考のない沈黙の大切さを教えてくれるのでしょう。
ということで、まずは頭の中のおしゃべりを横において、「ただ在って」みませんか?
これ以上になく最高にシンプルに。
「ただ在って」みる♪
You are what you are looking for.